第一期 あらましからとりもの迄

1話 はやしたて、まくをあげ 前

 午後七時。馬車の窓の桟は肘を預けて頬杖をつくには浅すぎた。でも私は意固地になってかっこつけて、窓の外を流れていく光の筋を目で追っていた。父さんも母さんも、それと言って会話もしないから、車の中ではがたがたと車輪が石畳の上を転がる音だけがしつこいくらいぐるぐる繰り返されていた。


「ねえ、まだ?」

 馬車の座席はそんなに柔らかくなくて、お尻が痛くてたまらない。私が不満を含んだ目線を父さんに向けると、まるで眠ったように知らんぷり。仕方なく母さんをみると、母さんは母さんで

「お行儀の悪いことはやめなさい」

 と私の方を見もしないで窘める。


 こういうね、お堅いところが嫌いなのよ。私は相変わらず浅い桟に肘を乗っけたまま考える。 昔から父さんも母さんも、どっちも真面目一貫で、冗談はあんまり通じなくて、私を外に出したがらなくて、ふたりの決めた友達は喧嘩したらすぐ泣いちゃうような「かよわいお嬢様」って感じの子ばかり。


 そんなふうにしてふたりが私を「箱入り娘」ってやつにしようと企んでるって気付いたのは十二くらいのときで、でもそのくらいの歳って反抗期でしょ。だから私も反抗したわけだ。夜中に家を抜け出して「子供は行っちゃいけない」って言われるような街にひとりで行ったの。もちろん、すぐにバレて連れ戻されたけど。真夜中の道の上で私を見つけた母さんにぶたれて、その後すぐに痛いくらい抱きしめられたのを今でも覚えてる。父さんなんて泣いてたんだよ。素っ気ない風に見えるけど、なんだ、私愛されてるじゃん、って。ひどい子供だよね。私さ、性格は悪いと思うけど、そのくらいはちゃんとはわかるっていうか。


 私は、父さんのことも母さんのことも好きだ。愛してるんだと思う。たぶん。誰に何と言われたって、きっとこれはほんとうなんだ。



 やっと馬車が止まった。降りなさいっていう母さんの声に、それでも私がぐずぐずしていると、父さんと母さんは先に出ていってしまった。今日はなんだかあんまり構ってくれないな、なんて私はひとりでむくれる。そう、私、子供っぽいんだよね。ちょうどひと月くらい前に十七になったんだけど、母さんも言う通り、まだまだ子供ってやつなんだ。たぶん。


 私がむくれっ面のまま馬車のステップを降りると、からん、と下駄が音を立てる。お気に入りの飴色の鼻緒から目を上げると、私の目に飛びこんできたのはきらきら輝くネオンの灯の群れだった。私がいつも住んでいる街とは違う、安っぽくてでもどこかわくわくするような華やかさ。目を動かすたびに私の世界をいっぱいにする、なんだか俗っぽい文字、色、形。眩しいくらいの光の粒が私の目に飛び込んで来る。喉の奥で止まっていた息を吐こうと少し上向くと、そのまま声が出た。


「『西十番街』……」


 私が十二のときやってきた、「子供は行っちゃいけない」その場所だった。名前の通り帝都のいちばん西端にある、十番目、つまり帝都で最後に数えられる街。「唯一の自治区」って言われるところで、繁華街、言っちゃあれだけど、いかがわしいお店のあるような大人の街だ。ここは夜しか開かれない電灯の街。ネオンの世界に夢中になっているうちにいつのまにか立ちすくんでいた私は、遠くからずっと聞こえていた母さんの声にやっと気づいた。


「つぐ、」


 母さんは眉根をきゅっと詰めて、私を叱るときの顔をしていた。父さんと一緒になって私のもう十歩は前にいる。ネオンの灯に照らされて、その怒った顔が良く見えた。そして私は、自分が今立っているところがネオンの光に照らされない影の中だと気がついた。それから私が少し俯いて、「ごめんなさい」を言うときの顔をすると、母さんは呆れたように少し微笑む。私、その顔が好きなんだ。


「おいで」

 一歩踏み出すと、ぶわっと光が私に降りかかる。母さんが腰のあたりに柔らかく差し出した手を捕まえに、私は、西十番街に踏み込んだ。



 私たちは街の中でどう見たって浮いていた。親子三人連れなんて、この街にどんな用があるっていうんだろう。見回してみると、通りはくすんだ色の男のひとたちが流れていくみたいだった。


 通行人の方にせり出してくるような屋台、身なりの汚くて得体の知れない露天商、建物の間にはうつむいた乞食……。この「西十番街」が世間で「掃き溜め」と呼ばれていることは私も知っていたけれど、あまりにもその名の通り。遠くから見えた、わくわくするような華やかさは嘘だったんだ。ぼうっとした顔の乞食を怖いもの見たさでつい見ていたら、その乞食が不意にこちらに顔を向ける。びっくりした私はすぐに顔をそっぽにやった。……早く帰りたい。心細くて前を歩く母さんの背中を見つめてみる。そのままそっと母さんの着物の袖をつまむと、母さんは少し振り返って


「はぐれないようにして頂戴ね」


 と小さく口を動かした。うん、という私の声が聞こえなかったみたいに、母さんは歩みを止めもせず、もうひとつ先を歩く父さんの背中を追っている。……私、こんなに怖くて心細くて、居心地悪くて仕方ないのに、どうして、どうして分かってくれないんだろう。それに、なんでこんなところにいなくちゃいけないの。


 自然に手の力がゆるむようで、私が指を開くと、思ったよりもずうっとあっさり母さんの袖は私の手から離れていった。それから私がつ、と足を止めたほんの少しの間に父さんと母さんの背中はどんどん遠のいていく。次々流れてくるくすんだ人混みに遮られて、私はあっという間にひとりぼっちになった。こんなごみごみした、汚い最悪な景色の中で。



 いつからだろう。父さんと母さんが素っ気なくなったの。なんだかここ最近、忙しそうだった。

「……なんか、仕事が忙しいんだ」


 ぽつんとそう呟きながら、私は俯いたままひとのいない方を目指して歩いて行った。途中、何度も知らない男のひとの肩にぶつかった。足も踏まれた。だって足袋の先が汚れているもの。その汚れを見ていると、何故だかすごく泣けてきた。本当に泣くわけじゃないけど、なんだか踏まれた小指がすごく痛むみたいなんだ。


 なんで私がこんな惨めな目に遭わなきゃいけないんだろう。どうして母さんは私の手をちゃんと繋いでおいてくれなかったの。私が離しちゃったりしないように、さあ! そんな風に考えていくうちに、今度はなんだかすごく腹が立ってきた。ふたりが私を見つけた時、どんなことを言ってやろうかな。ふたりが泣きそうな顔をしてるのを見たら、さすがに胸がすっとするかもしれない。そう考えながらお腹の底の方が痛んで、私は弱気になる。きっとそんな顔見ちゃったら、私が悪いことしたみたいな気持ちになるんじゃないかな。そしたら、怒っている方がまだいいな。あんた、まだ子供なのよ、勝手なことして……って母さんはきっと言うから、私は、ごめんなさいって言って、また母さんにくっつくんだ。なんて本気で考えてるからさ、ほんとに私、笑っちゃうくらい子供っぽいんだよ。でも、でもね、はたちになるまではそうやっててもいいんじゃない、って。私、大人になったら……ううん、大人になるときは、もう子供をやめるんだ。それまで、あともう少しだけ。 


 気づくと、周りにはほとんどひとがいなかった。ずっと自分の足袋を見つめて悲しくなったり怒ったりしていたから、どうやって歩いてきたのかもよくわからない。


 試しにあたりを見回してみるけれど、ここにはあんまり屋台や露店もない。さっき通ってきたところよりもなんだか寂しい感じ。でも、人混みに揉まれるのも好きじゃないし……なんてぐるぐる考えていたら、ふと私の目に留まったのは、着物を着た女の子だった。今まですれ違ってきたのは男のひとばっかりなのね。だから、十七の子供の私が言うのもなんだけど、こんなところで女の子がひとりで一体何をしてるんだろうって思ったわけだ。ちょっと観察してみると、その女の子は小さな露店の前で立ち止まって商品を眺めているよう。私より年下かな。子供っぽくて、歳は十四、五、くらいってとこか。手に持ってるのは⋯⋯なんだろう。髪飾り?  


 なんだかすごく心細くて、私の胸には誰かと話したいような気持ちでいっぱいだった。そのまま私はふらふらした足取りで女の子に近づいた。肩越しに声をかけてみる。


「ねえ、何見てるの? 髪飾り?」


 彼女の手に握られているのは漆塗りの櫛だった。そうか、そういうちょっとシブいのが好きなのね。ふうんと声を漏らす私に、それでも女の子は気付かないらしくて、熱心にその櫛を見つめ続けている。それから私が、あの、と更に声をかけてみても何にも反応なし。私は少し声を大きくする。


「あの、ねえ、ねえ、私、きみに話しかけてるの。ねえ、えっと、お嬢ちゃん? かな。ねえ、ねえって」

 しびれを切らして私は女の子の肩に手を伸ばした。けれど、そのとき私に落ちる影──私の手は、突然横から現れた私よりもひと回り大きな手にぐっと捕まれ、そのまま捻り上げられた。


「何してる」

 痛い、と言う暇もなく、警戒心たっぷりの男の低い声が、私の頭の上で唸った。痛くてくしゃくしゃにした顔を上げて声の主を見上げると、すごく目つきの悪い、背の高い長髪の男がじろりとこちらを見下ろしている。

「誰、あんた」

 やっと絞り出せたのは、自分でも悲しくなるくらい頼りない声だった。


「『誰』? そんなことを知って何になる? ……ああ、そうか、なんで俺がお前の腕を捻り上げてんのかって、そういうことを聞きたい訳だな。つまり」

 先生みたいな喋り方の男はそう言って、なおさらきつく私の手首を締め上げる。このまま折られるんじゃないかと思って、私は恐ろしくてとうとう涙が出てきた。


「俺は、こいつの兄貴なんだ」


 男はふっと私の腕を握る手を一度緩めてから、掴んだ腕を大きく横に振って私を地面に打ち捨てた。そうしてみっともなく転がった私が、精一杯早く首を回して自分に落ちる影の先を見上げると、男は私から女の子を庇うようにして立っていた。男が警戒を解かないまま冷たい目を私に向けている一方で、女の子はこちらを心配そうに見ている。つり目がちな大きくて形のいい目がやけにはっきりと見えた。


「俺も同じことを聞こう。お前は誰だ? 俺は、お前が何にも言わずにここからいなくなってくれたって一向構わないが、名乗りたいなら名乗ればいい」

 ぶっきらぼうな男のその問いかけに、私は荒い息のまま地面に手をついて起き上がる。

「名乗らないし、ここからいなくなりもしない、だって、私、あんたに謝ってもらわなくちゃいけないもの」

「はぁ?」

「急に知らない女の子に手を上げたりして、どういうつもり? あんた、まともな頭じゃないわね」


「『まともな頭じゃない』……? そりゃあきっとお前の話だろう。何にも知らないって言いそうな、馬鹿みたいな顔をしてるぜ。そんな顔が付いてる頭の中身なんて知れてるっていうもんだ。さっきだってな、お前が、」


「私がその子を襲うとでも思ったわけ? そんなわけないでしょ。私が見るからに怪しい中年の男だったりしたら、そりゃ、いけないってわかるかもしれないけど、」


 私が更に畳み掛けようとした口の動き止めたのは、男が呆れたような顔をしていたからだ。首を傾げた男はゆっくりと口を開いた。

「……お前、よそ者か」

 急に男のまなざしが変わって、でも苛立ちが収まらない私はもっと言ってやろうと口を開く。

「そうね、よそから来たわ。『東一番街』ってとこからよ。だから何?」

「そうか、そんなら悪かった」

「……はぁ?」

 男のあっさりとした謝罪に面食らって、私が思わずすっとんきょうな声を出すと、男はうんざりした顔で手を振ってみせる。

「で、話はもう終わりだ。お前に用はなくなった。名乗らなくたっていい。いいから、さっさと、この街から、出て行け。すぐにだ」

「え、ちょっと」

「じゃあな」

 私の呼び止めにも応えずに、長髪の男はくるりと背を向けて、女の子の手を引きさっさと通りの奥へと消えてしまった。


 嫌な目に遭った私は、最初はなんなのあの男とむかむかしていたのだけれど、むかむかしていたところで今私の頭をなでてくれるひとなんかいないわけで。そう思うとなぜだかものすごく疲れた気持ちになってきた。早く迎えに来てよ、あなたたちの娘はこんなに可哀想なことになっているのよ、なんて父さんと母さんを思ってただただ悲しくて堪らなくなってきた。寂しいうえに疲れて足がもつれる。そんな私はふらふらと寂れた通りからひとのたくさんいる方へと戻ってきた。父さんと母さんがこっちの方で私のことを探しているかも、なんて考えながら。


 戻ってくると、気のせいか通行人たちがざわめいている。どこかそわそわとしたような雰囲気。そして、いつのまにか遠くから管楽器の音が流れてきていた。これはホルンの音じゃないかな。たしか、あの曲。行進の曲。なんだか頭がふわふわする。周りを見回すと、誰からというわけでもなく皆が同じ方向に向かって歩いているから、私も自然と足が向いた。ホルンの音が近づいてくる。薄暗い夜の中で安っぽいネオンの煌めきがゆらゆら揺れて、頭がなんだかぼんやりして、私の心も浮かれるようで。ゆるやかなひとの波に運ばれて私が流れ着いたのは、建物の合間にある広場だった。円形の広場の中心には大きなオブジェが置かれている。そのオブジェは石造りの台の上にあった。木の枠みたいなオブジェの横には、黒い何かの制服を着た男がいかにも厳かな顔で立っている。そして、そこから少し離れたところにも同じ制服の男が座っていて、ホルンを吹いているのだ。度々通行人が手ぶらのほうの男に話しかけては、そっけない顔で返されるのに、どこか興奮したような顔で広場の隅へと散っていく。通行人たちが散っていく先、広場の隅にも石段があって、端に行くほど高く、広場の真ん中を見下ろせるようになっている。この間連れて行ってもらった劇場もこんな感じだったような。ここで何か催し物があるみたいだ。そりゃあ、入ってすぐの通りにも屋台が出ていたから、ここってきっと毎日お祭りみたいなところなんだろうし、そんなに不思議でもないかも。


 そうしてふわふわした心のまま、私は吸い寄せられるようにオブジェへと近づいて行った。そびえ立つ木枠の上の方には薄い鉄の板が付いている。ネオンの光がきらきらその鉄板に反射する。ぼんやりとその煌めきを見つめている私の耳に、通行人と制服の男の会話が聞こえて来る。


「今日は十時からだ」

 というそっけない制服の答えに、それでも中年の男は興奮している、といった顔で口を開け閉めして、

「へえ、ほんとう、ほんとにここで見られるのか、はあ、すごいな」

 と笑みを含んだ声を漏らす。

「いいから、もうあっちに行け」

 手ぶらのほうの制服は淡々と通行人の男を手払いし、中年男をつっぱねた。そこに、通りから同じ制服を着た女がやって来る。

「今日は結局ふたりだけって、おっしゃってたわ」

 女が口を開いた時に出たのは、疲れたような声。思ったよりも幼いその声色に注意を引かれて顔を向けると、女は私と同い年くらいの娘だった。

「子供はいないそうよ。良かった」

 そう言って胸に手を当ててみせる様子は普通の女の子って感じだった。いかつい制服を着ていなければもっとそう思ったかもしれない。

「夫婦なのか」

 無表情を崩さないまま男の制服がそう聞くと、女は少し肩をすくめてみせる。

「ええ。……ふたり一緒なら、まだ、ね」

 女がそう言った時、ちょうどホルンを吹いていたもうひとりがきりのいいところまで吹き終わって顔を上げた。

「お前もお人好しだよなぁ。そういう顔してないのに」

 ホルン吹きの制服は優男風な顔をしていて、女の制服の顔を見てへらへらと笑った。女は優男のその言葉にすぐさまきっと眉を吊り上げ、彼に向かって妙に尖った高い声を出す。


「ひとの生き死にに関わることをしてて、あんたは何も思わないわけ?」


 女の声は集まり始めた人だかりに吸いこまれてそこまで響かなかったけれど、私の耳にはやたらと突き刺さった。ひとの、生き死に。その言葉にぼんやりとしていた私の頭は一気にすうっと覚めてきた。それからだんだんと、制服たちだけじゃなく他の通行人の声も、私の耳に聞こえ始める。


「法治国家で、こんな」

「ここは自治区だから、他とは勝手が違うんだよ」

「まるで陸の孤島だな」

「俺ぁ、女の物色よりもこっちを楽しみにして来たんだ。金はかからないしな」

 くつくつと笑いをこぼす男たちの声は、けれどどこか不安げに震えている。それでもやっぱり、彼らは何故か笑っているのだ。

「『目の前でひとの死ぬ瞬間が見られる』ってのは、なんでこうも胸が高鳴るかね」


 その言葉が半笑いに震えるのを聞いて、私は気味の悪さに背中を押され、固まっていた自分の足をやっと動かして、小走りで広場を出た。ゆるりゆるりと押し寄せるひとの流れに逆らって、走ろうとして、上手く走れなくてひとの間に分け入った。私は足を踏まれるのなんてもうどうでもよかった。さっきの通行人の言葉を頭の中で何度も何度も繰り返してみる。ひとの死ぬ瞬間、ひとの死ぬ瞬間を、見られる。それって。必死にひとを掻き分けていたのに、通行人のひとりにまともにぶつかってしまった。今すぐあの広場からいっとう離れたところに行きたくて、私が慌ただしくごめんなさい、と言って避けようとすると、その通行人は私の腕を掴んだ。顔を上げると、それは通行人ではなかった。


「あんた」

 私の前に立ちはだかっていたのは、さっき私を地面に打ち捨てた長髪の男だった。

「やっとみつけた。お前やっぱり、まだ街を出ていなかったんだな」

 男は呆れたような、でもどこか怒ったような顔をしている。それから私の腕を引っ掴んで、流れてくる人波を遡るようにやや乱暴に私を引っ張っていく。


「みなみがお前のことを気にかかるというから、わざわざ見に来てやったんだ。見つけたと思ったら街の中心に向かっていくから変だなと思って来てみたら」

「ね、ねえ、あんた」

 男は私の呼びかけには応じず、というか、どうも呼びかけが聞こえていない様子で更に続ける。


「街の外れまで案内してやる。東一番街からならきっと車で来たんだろう。⋯⋯車の乗り入れができるならあっちだろうから、」

「ねえ!」

 私が声を張り上げると男は立ち止まって私のほうを振り返り、むっとしたような顔をした。

「なんだ」

「あそこ、あそこの広場では何があるの。十時から、何が、あるの。あんた、ここのことに詳しいんでしょ、きっと……」


 私の声は先細りになって夜の空気の中に消えていった。やっとひとの波から抜け出したところで、私が話している間ずっと怪訝そうな顔をしていた男は、その顔のまま口を開く。


「広場には入らなかったのか」

「入った、入ったわ。それで、気味が悪くて出てきたのよ。皆、変なことを話していて」

「……広場の中央にあるものを見なかったのか」

「見たわ、見たわよ、変な、木の……あれも気味が悪いわ」

 私が気持ちの悪さに声を震わせながらそう言うと、男はまるで物を取り落とすように、思わずといった様子で私の腕を離した。

「あれが何かわからないのか」


 心底驚いた、とでもいうような男の顔。私は何故だか、さっき地面に打ち捨てられたときの冷たいまなざしをまた向けられるよりも、そんな顔をされることのほうがずっと恐ろしいことのような気がした。


「わかんない、わかんないわよ、わかんないから聞いてるんじゃない……!」

 私が涙まじりにそう喚くと、男は、母さんが駄々をこねる私を見る時と同じ顔をしてみせた。それからつぐんでいた口を開く。

「『断頭台』という言葉を聞いた事はないか。もしくは、『ギロチン』……。『公開処刑』というのが何なのか知っているか」

 男はゆっくり、子供にするのと同じようにして私に質問してみせた。

「『ギロチン』……」

「あの広場にあるのはその『ギロチン』だ。あそこでは制服の連中が帝都の犯罪人の首を切るのをひとに見せている」

「なんだって、そんなこと」

「あれはここの娯楽なんだ。あれを見るために他所からも大勢、ひとがやってくる」

 そう言われてみて、やっと通行人たちの言葉が私の中で意味を持って繋がり出す。

「なんで、なんだってそんなこと、そんなもの、見に」


「歩きながら話そう。夜が深くならないうちに帰らなきゃならねえだろう。まだ八時半だ。お前だってわかってるだろうが、ここは普通の娘がひとりでいていいところじゃねえんだ。……待て、公開処刑を見に来たんじゃないなら、お前、一体ここに何しに来たんだ……?」


 男は、はたとして鋭い切れ長の目を見開いた。

「わたし、父さんと母さんと一緒に来たのよ、ほんとに、こんな、こんなことがされている場所だなんて知らなくて、そうだ、あんた……」

 一緒に父さんと母さんを探してくれない、という私の言葉の続きは、眉根を寄せた男の顔を前に、口に出る前に喉の奥に引っ込んでしまった。

「『両親と一緒に』……? お前の両親は、ここに一体何の用がある?」

「……そんな、そんなの……」


 知らない、という言葉しか見つからなくて、私は自分でびっくりした。そうだ、父さんと母さんはここに何をしに来たんだろう。私、付いて来ただけだ。飲み込んだ私の言葉が何かを嗅ぎつけたらしく、男はまたじりじりするくらいゆっくりと私に問いかける。


「お前の親は何の仕事をしているんだ」

「仕事……?」


 仕事、仕事って、父さんも母さんも国の公務をしていて、ふたりとも忙しくて、それで、それで……。はっきりした答えも浮かばないままに俯いた私に、男は追いうちをかけた。


「お前は自分の親がどんな仕事をしているかも知らないのか」


 呆れ返ったようなその声を聞くのがなぜだか今度もまた、私にはすごくすごく悲しかった。なんだかお腹が寒くなる。そんな言い方で私を責めるなんて、まるで私のことを「ここにいちゃいけないひと」だとでも言いたいみたいじゃない。


「だって、そんな、そんなの知らないじゃない、わたし、そんなの」

 私が子供みたいに喚いているといきなり、男のやけに冷たい声がした。

「信頼と盲目は決して一緒じゃない」

 私が泣きそうな顔を上げると、男は遠くを見るような目をしていた。それは、私の目を見ているのに、私のことを見ていないようで。

「そんなのは、善良な付き合いじゃないんだ……」

 次の瞬間、男の黒目が電気ショックでも受けたようにびくりと跳ねて、今度はほんとうに私の事を見つめた。

「俺の中に一つ、望ましくない仮定がある」


 眉根をひそめた男は、私のことを真っ直ぐ見つめた。そうして、伸びてきた腕が、その指先で私の鎖骨のあたりをぐいと押した。恐ろしく聡明そうな、金色の瞳。


「聞きたいか? 『なんにも知らないお嬢さん』?」

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