第3話 嘔吐する少年

 真に美しいものは何か、と常に問い続けている。

誰かにでは無く、自分の中に息衝いきづく内面的な部分に。

それは答えの無い問いだ。

しかしそれは答えが存在しない、という意味ではない。

美しさは見る人間によってその姿形を変える。

答えが無数にあるために一つに規定出来ない、という意味だ。

ゆえに美しさを問う相手は第三者では無く、己の内に求めなくてはならない。

過去も、現在も、そして恐らくは未来も。

美しさの形を求め続けている。

思考することこそが至高であり、存在の意義。

そして求道し続けた私の前に、それは形を伴って顕れたのだ。

天啓、とすら思う。

美しさとは純潔である、とずっと信じてきた。

しかし、それが目の前に現れた時に私は知ったのだ。

本当の美とは、語るに騙れぬものであると。

己中に眠る熱源が、鼓動が、美の愉悦を訴える。

悦楽という言葉の真の意味を。

快楽という言葉の真の意味を。

美と悦楽は、契りを交わした恋人のように交わっている。

美しいがゆえにそれは悦楽となり、悦楽とはそれ自体が美であるのだから。

あぁ。感謝します。

美しき君を汚してしまうことが、これほどに愉悦とは。

本当の美は、語るに騙れない。

それを知ってしまった私は、美という汚濁を啜って微笑む。

これほどにけがれても、なお君は美しい――。



 署内は良い意味でも悪い意味でも変わり映えがしない。

くすんだ白の長方形の机が隙間なく付けられ、一つの長い長方形を形作っている。

それの超長方形とも呼ぶべき長机が二列部屋に並び、その上には紙の束が積まれているか、バインダーが衝立により擁立している。

どの机も似たり寄ったりな惨状だが、一つだけ何も置かれていない机がある。

厳密にはノートパソコンが置いてあるのだが、それ以外は特に何もない。

煩雑という言葉が似合う室内において、逆にこの整然さは異常とも呼べた。

「先輩、いつも思ってたんですけど…」

来宮大輔きのみやだいすけ刑事は、自分の惨憺さんたんたる机上を顧みながら隣の机を羨望する。

「なんで、そんなに机の上が綺麗なんすか」

「綺麗なのは良いことだろ」

朝房は隣に座る後輩に一瞥もくれず、黒塗りのキーボードをブラインドタッチする。

「そりゃ、そうですけど…」

朝房より一回り以上に大きな身体を屈めて、また一つ溜息を漏らす。

来宮は朝房の三歳年下の後輩で、刑事としてのキャリアも同じだけ差がある。

新宿署に努める刑事はなぜか誰もが厳めしい強面で(来宮も他人から見れば十分人相が悪いが)、戦々恐々としていたところに現れた教育係が朝房だった。

考えてみれば、朝房憲次郎という男は実に不思議で異端な人間だ。

基本的に優男面をして適当に見える節もあるが、事実誰よりも相手の先の先を読んで行動している。もしくは単純に器用なのか。

いかに器用で要領が良いのかは、机の上の整然ぶりが如実に語っている。

「なんなんだ、さっきからジロジロ見て」

朝房は手を止めて、来宮の方を訝しげに見つめる。

四角とも丸とも付かない輪郭をした来宮の顔は、朝房と比べると少し男臭い。

「いや、先輩がデスクで仕事してるの珍しいなって」

「そうか?」

「そりゃそうですよ。先輩いつも自分の仕事はとっとと切り上げてどっか行っちゃうじゃないですか。課長にもなんか黙認されてるし…あ、もしかして何か弱みとか握ってるんですか?」

朝房が署内から消える、というのは新宿署七不思議の一つである。

しかも出張扱いでお咎め無しというのもその謎を加速させている。

「あのなぁ、課長が弱みを誰かに見せると思うか?」

言葉を受けて、来宮は課長の渋面じゅうめんを頭に浮かべる。

想像できないし、課長に弱みがあるとも思えなかった。

「じゃあ、なんでそんな自由に動けるんです?」

羨ましい、といった表情でじっと見つめる来宮。

「そりゃ、お前決まってんだろ」

「なんです?」

朝房はシャットダウンしてノートパソコンを閉じると、書類整理に追われている来宮を一度見て、にやりと口角を上げた。

「仕事ができるから」

そう捨て台詞を残すと、椅子に掛けられたコートを羽織って、ホワイトボードにある朝房のスペースの横に出張のマグネットを張り付けて部屋を出て行った。

空席となった朝房の席を眺める。

「やっぱり、あの人って……」

変な人だ、と言いそうになった自分を戒めて、去っていく朝房の背を見る。

来宮は背を見送ると、再び机上に広がる書類の整理に追われた。




 景色はいまだ朧気で、学校で昏倒たおれてからの記憶が無かった。

三階の踊り場で立っている自分がいる。

否、座っている。

座った状態で三階から下を見下ろしている。

階下には黒い海のような、髪の毛のようなものに覆われている。

底面にあるものが床であるのか、そもそも底面が存在するのかも判然としない。

落ちた先に何があるのかを確かめるには、落ちるしかない。

恐怖が身体を貫く。

本能的な逃げ出したいという気持ちが身体を這う。

そう思って立ち上がろうとするが、足が動かない。

神経が凍結したかのように動かない下半身。

次第に胴体や両手も凍り付いたように動かなくなる。

辛うじてまだ動ける首を後ろへ回す。

誰かが、いる。

誰かが自分の背後にいる。

闇に埋もれてその人物の顔は見えない。

影だ。

影がその手を番えて、座っている自分の行動を支配している。

足は依然として動かない。

もう首も、動かない。

視線だけを必死に横に回して状況を把握しようとする。

声は、出ない。

そして背後の影は何も語らない。

しかし、影がつがえた両手に力が入るのを脊髄で感じる。

動けない。

動けない。

望んでいないにもかかわらず、座っている速水は傾ぐ。

落下する恐怖。

その先には、何がある?

車輪が階段を転げる。

階段の勾配で、自分の身体は加速度を増す。

遠ざかる影。

重力を奪われたことで制止することすら出来ず、ただ階段を落ちていく。

生きているが、既に自分は行動できない肉の塊だった。

摂理に身を任せて、死を選ぶことしかできなくなる。

「あぁああああぁあああぁあぁあぁっ!!!!」



 速水は自分の慟哭で目を覚ますこととなった。

寝覚めが悪い。

肌が軽く粟立あわだっている。

「…ん」

口の中が渇いている。

身体はベッドに横たえ、無造作に布団が落ちている。

寝ている間に暑くなって、蹴り落としたのだろう。

服装は昨日あの学校に行ったときと同じもの。

誰かに運ばれたのか、と簡単に推測する。

床の上で雑魚寝したように、身体が軋んでいる。

軽く息を吐きながら上半身を起こすと、何時だ、と誰へでもなく呟く。

速水の寝室は事務所の右奥にある扉から繋がっている。

壁を覆うように置かれた本棚は速水の唯一の物欲の行き先である。

ちなみに真尋は一階の喫茶店店主の元で就寝している。

一つ屋根の下で男女が同じ寝室、というのは何かと外聞が悪いと思ったからだ。

事務所はもぬけの殻で、正午過ぎを指すシンプルな丸時計が壁に掛けられている。

そろそろ、真尋が上がってくる頃だろう。

速水は口の渇きをなんとかするために、台所の冷蔵庫へ向かった。



 風見由紀子かざみゆきこは右手にビニール袋を持ちながら帰宅した。

夫は先週末から長期出張で渡米しており、来週までは帰らない。

元々子育てにどうこう言うタイプでは無かったが、近頃一層にその放任の度合いは増しているように感じていた。

その要因は、言わずとも知れている。

不妊治療を行ってやっとあの子を身籠みごもった時のことを思い出す。

随喜の涙が溢れるほどに感動したこと。

歓喜で体が震えるほどに感激したこと。

その時はまさか、こんな日が来るだなんて思いもしていなかった。

娘の怜香は、去年の暮れ(たしか十一月頃だったと思う)から体調を崩してしまった。

本人は体調が悪いのだと言っているけれど、身体には異常は無いのだろう。

何かが崩れてしまったのだとすれば、それはもっと中身に関わるものだ。

言葉では表せないような、深層部分。

「怜香」

二階に上がると、怜香の部屋の扉を叩く。

夫が出張がちな我が家は、ある種母子家庭のようなものだった。

いつだって怜香と痛みや苦しみを分け合って生きてきたのだ。

怜香は幼い頃からあまり感情を表に出す子じゃなかった。

本当は直情的になりたかったのを、必死に制御していたのかもしれない。

これは自画自賛になるかもしれないが、怜香は優しい子に育った。

今まで一度だって学校に呼び出されたことはない。

それが由紀子にとっての誇りだったし、怜香自身も誇りだった。

それは現在だって変わらない。

「怜香」

二度目の呼びかけ。

廊下に残響する娘の名前。

答えは無い。

「…おにぎり、置いておくわね」

扉前にコンビニで購入したおにぎりが入ったビニールを置く。

階段を下りる音が響く。

その音が、自分が一人であることを知らしめる。

物理的には一人ではないが、精神的には孤独である。

怜香も同じことを思っているのだろうか。

何が、そうさせたのか。

そんなことは、誰かに訊くまでもない。

あの女。

あの女のせいだ。

怜香を罪悪感という名の檻に取り込んだのは、あの女だ。

ただ広いだけのリビングに足を踏み入れる。

空間が開いているがゆえに、より孤独の加速度が上がる。

写真が飾られている。

幸せそうに微笑む娘と、その横で大儀そうに座っている女。

透明な薄い硝子の張った写真立てに収まっている。

過去を投影うつして焼き付いた忌々しい物質。

私は、その写真立てを手に取ると、その【過去】を消すように、

フローリングに硝子の束をまき散らした。



 事務所の下にある喫茶店「スプリング」は静寂の楽園である。

先程寝室から持ってきた読みかけの文庫本を持って、一番奥の磨りガラス越しの席(速水の特等席)に座る。

読みかけといっても既に何周か既読済みの本である。

「いらっしゃ…あ、なんだ、速水さん」

なんだ、とはご挨拶だが気には留めない。

春川詩織はるかわしおりは緊張を解いて柔和な表情に戻る。

「真尋、来てるか?」

「あぁ、そういうこと。今厨房で手伝いを……」

詩織の言葉を聞いて、開きかけの文庫本を再度閉じる。

「もしかして、いつも午前中はここで手伝いを?」

「あれ、知らなかったの? てっきり真尋ちゃんが言ってるもんだとばかり……」

「まさか、毎日?」

「毎日じゃないけど、この前バイトの子が飛んじゃって……。それで次のアテが見つかるまでちょっと、ねぇ……」

あからさまに目線を斜めに逸らして、詩織が呟く。

嘘が下手、というよりわざとやっているようだ。

「別に合意の上なら構わないが……まかないくらいは出してやってくれよ。俺も昼までは寝てるから全然把握してなかったけど……あの人がうるさいから」

「優梨子さんのこと?」

詩織は優梨子叔母さんのことを知ってるんだったか。

「無賃労働だなんだってどやされるのは俺だからな」

速水は頭を掻きながら、クラブハウスサンドとアイスティーを頼んだ。

コーヒーの良さを未だによく理解できていない。

「はぁい。真尋ちゃん呼んでくるから、ちょっと待っててね」

桜色のエプロンを翻すと、厨房方向へ消えていく詩織。

磨りガラス越しなので、出来の悪いポリゴンのようだ。

再び閉じた文庫本を開くが、一行読む間もなく真尋が駆けてきた。

「なに?」

首を傾げると、肩口にかかった髪が揺れる。

「昼、食ったか?」

「まだだけど……」

「じゃあ、ここで食っていくか……。手伝いはもう終わったのか?」

真尋は速水が座る真向かいに同じように座して、こちらを見つめる。

「うん。詩織さんが行ってあげなさい、って。それにもう志藤しどうさん来たから多分大丈夫」

「志藤?」

「午後のバイトの大学生の人。だからもう大丈夫」

速水の知らぬところで真尋のコミュニティは拡大しつつあるようだ。

端に建てられたメニュー表を真尋に渡す。

「じゃあ、オムライスで」

メニューを一瞥すると即答する真尋。

さては、見る前から食べるものを決めていたのだろうか。

「はい、クラブハウスサンドとアイスティー。ガムシロは一個で良い?」

会話を切り裂くように現れた詩織が手際良く飲み物を速水の前に置くと、ちょこんと小さなガムシロップの容器を隣に置いた。

「真尋ちゃん、今日もありがとうね。助かったわ。何か食べたいものはある?」

「オムライスで」

「好きねぇ」

詩織は手元のメモに流し書きすると、風のように再び厨房へ舞い戻った。

速水がその様子を見ながら文庫本に手を付けようとすると、真尋がそれを制止した。

「ねぇ、一つ訊きたいことがあるの」

「……なんだ」

少し、嫌な予感がする。

「昨日の速水……なんだか、変っていうか……何かが朝房さんもそんなこと言ってたし……その、速水は」

言葉を選ぶように逡巡して、真尋が息を継ぐ。

「霊感があるの?」

どうやら、今日は本を読めないらしい。

いつもなら心地良いはずの静寂が、身体に突き刺さる。

まるで舞台上でスポットライトを浴びているかのような、緊張感。

観客たちが次の台詞を待っているかのような、焦燥感。

「霊感……か。まぁ、そうとも言えるが、厳密にはそうじゃないな」

自分でもよく分からないんだ、と自嘲するように頬を掻く。

「でも、何か視えてるの?」

「まぁ、そうだな。……真尋や朝房には視えないものが視えてる。それは事実だ」

よく分からない、といった調子で真尋は眉間に皺を寄せる。

しかしそう言いたいのは速水も同じだった。

「そうだなぁ……少し、昔の話をしようか」

文章を脳内で構成しながら、陳腐な出だしを口にする。

いずれは告白すると思っていたが、思いの外早かったな。

そんなことを頭に描きながら。



 速水の生まれは東京と他県の県境に位置している。

そのおかげでいつも場所の説明に窮するのだが、それはまた別の話。

一応住所は東京となっているので、東京であることに違いはない。

速水は生まれも育ちもその狭い範囲内で、海外はおろか関東の外に出た経験すら修学旅行以外には存在しない。

この地域は土地柄工場が多く、旋盤工や職人が多い工業地区だった。

速水の父もその例に漏れず工場に勤める職人で、朴訥ぼくとつの擬人化のような人間だった。

寡黙ながらも腕は確かで、それゆえに周囲からも信頼を得ていたらしい。

速水が小さい頃はよく、父の同僚たちが鉄の臭いをさせながら我が家に夕飯を食べに来ていたものだ。

小学校に上がった頃、学費云々で金の出入りが激しくなったため母親がスーパーのパートを始めて共働きになると速水は昼間は家に留守番することが多くなった。

当時の速水にとって、自室は押し入れの中を意味していた。

我が家には子供用の部屋が無かったから、なんとか自分の領域を確保するために押し入れの中を改造(と言っても本を搬入しただけだが)して未来のネコ型ロボットよろしくそこを住処にしていたのだ。

父はいつも給料日になると図書カードをくれた。

これは後になって知ったのだが、父は速水を自分と同じ工場働きにさせたくなかったようで、知識を付けさせようと図書カードを無言で渡していたらしい。

今でもその努力の賜物か、速水の唯一の物欲は本が担っている。


 確か、小学校三年生の暑い日のことだ。

その日は殺人的な陽射しで、元々貧弱だった速水少年は汗をグラウンドにぶちまけていた。

「暑い……」

と父親に似て無口だった速水が呟くほどの猛暑だったと記憶している。

授業の内容は忘れたが、なんにせよ拷問であることに違いはない。

教師と生徒というより、主人と奴隷の関係性に近い何かを感じる。

火炎放射器を目の前で放射されているかのような灼熱に耐えかね、速水はその脆弱な肢体をグラウンドに広げて眠るように倒れた。

教師が駆け寄ってきたが、時すでに遅し。

速水の次の意識は、保健室で復活することとなった。

こぢんまりとした室内は薬品の臭いが溜まっている。

「あら、起きたのね」

牛乳瓶の底のようなメガネをかけた年配の保健教諭は、速水が起きたことに気付くと大儀そうに座っていた椅子から腰を上げ、こちらへ歩み寄る。

安産型の体型をした女性教諭は、一見恰幅の良い男性にも見える。

「どうして……ここに?」

理由に察しは付いていたが、わざと分からない体を取る。

我ながら、可愛くない子供だと思う。

「体育の授業中に倒れてね。まぁ、ただの貧血だけれど……」

冷蔵庫からスポーツドリンクを出すと、速水にそれを渡す。

「これあげるから、飲んで休んでいなさい。それとも、早退する?」

「そ、そうします」

それほど重篤ではなかったが、早退という言葉の誘惑に敗北する。

「そう……。今日、お父さんかお母さん、家にいる?」

「あ……。えっと、今日は、どっちも仕事で」

「そう。一人で帰れる? 鍵は持ってるの?」

「あぁ、はい。鍵、持ってます」

ずっと共働きであったため、速水は入学時から鍵っ子だった。

とはいえ、予想外の返答に少し唖然とする。

貧血で寝ていた生徒を真夏日の中、一人で帰らせるのか。

まぁ、役得ではあるけれど。

「それじゃあ、ランドセル持ってくるからそこで待ってなさい」

白衣を翻しながら、女性教諭は保健室を出て行った。


 外へ放り出された速水を待ち受けていたのは、恐ろしい熱波の渦だった。

保健室に残っていれば良かった、と少し後悔する。

黒いランドセルは熱を溜め込んで今にも爆発しそうで、それは速水も同じだった。

スポーツドリンクをもう少し飲んでおけばよかった、と更に後悔を重ねる。

アパートの扉の前に着くと、半ズボンのポケットから鍵束を取り出す。

鍵は環に繋がれ、ジャラジャラと金属でできたキーホルダーが並ぶ。

星型をかたどったキーホルダーは、父が旋盤で手作りしたものだった。

慣れた手つきで、鍵を孔へと差し込んでいく。

「ただいま……」

誰もいない家に帰宅を告げると、速水は冷蔵庫から麦茶を取り出す。

帰路で既に枯渇していた体内を潤すために、一気にラッパ飲みする。

外ほどではないが、家の中もやはり暑かった。

しかしいつもの習慣で、速水は手を洗い終えると急いで押し入れの中へとその小さな身を潜り込ませる。

今思えば押し入れは室内より更に暑いと思うのだが、その時はそうしたのだ。

押し入れの中に収納された卓上灯のスイッチを押すと、淡い光が空間を包む。

煩雑はんざつに本が並べられ、読書するにはそれなりに快適な空間であるが、一つだけ不便な点があった。

時間が確認できないのだ。

速水は時間を確認するのと、無くなった麦茶を補充するために一度押し入れから出ようとした。

瞬間である。

錠前が外れる音が部屋に響く。

反射的に身を戻し、押し入れの薄く開いた隙間から内部を監視した。

泥棒だろうか。

探偵小説で呼んだことがあるピッキング、というやつか。

どす、どす、と家の中に闖入ちんにゅうする足音が振動と共に伝わる。

全神経と五感が過敏に稼働する。

必死に動悸と声を抑えるが、息遣いが漏れているかもしれないと不安になる。

「というか、良いのかい。ホテル、行かなくて」

男の声だ。

泥が詰まったような品の無い声で、誰かと話している。

父親ではないことだけは確かだった。

やはり泥棒か?

「良いわよ、だってお金ないんでしょ? それに今なら誰もいないわ」

しかしその相手の声は、速水がよく知る人物のものだった。

「ふぅん、まぁ、たまにゃあ家っつうのも興奮するかもなぁ」

「もう……」

つやめいた声で答えたのは、聞き違えるはずもない、母の声だった。

何も知らない速水少年は、この時母親は泥棒の一味、もしくは人質だと思っていた。

今ならば言わずとも答えは知れる。

「あら、麦茶無かったかしら」

母のその言葉に、速水は身体中が冷たくなるような心地がした。

なぜなら母が探している麦茶の行方は、速水の腕の中にあるのだから。

エアコンも点けていないのに、やけに温度が下がった。

冷たい汗が額を伝う。

「なぁ、麦茶なんか良いじゃないか」

ざっ、という繊維と繊維がこすれる音。

「ちょっと、シャワー浴びてから……」

麦茶捜索は思わぬ形で断念されたものの、地獄はここからだった。

隙間からそれを視ることは無かったものの、音は十全に速水を支配していた。

もちろん当時の無垢な少年にその嬌声こえも、濡れた音の意味も分からない。

とはいえ何か恐ろしい、おぞましいことが行われていたのは本能が理解していた。

嫌悪感、というよりも恐怖心の方が強い。

眠れば寝息で覚られてしまうと思って、眠ることも出来ずに速水はその音をただただ小一時間も聴かされる羽目になった。

気分が悪いというどころの話では無い。

一番近くにいる人間の、最も見たくないものを視てしまった。

いや、聴いてしまったのか。

男と母親は獣のように叫び合うと、まるで本当の泥棒のようにして家をそそくさと逃げるように出て行った。

二人が出て行ったことを確認して、速水は押し入れから身体を出す。

もしかしたらまだ物影に潜んでいるかもしれない、と恐ろしかった。

空の麦茶を番えて床に足を付ける。

外の熱気とは違う、人間の発する生臭い温度。

胎内に戻ったかのような、粘性の汚くて濡れた空気が充満している。

速水は、その人間の中身を覗き見たかのような臭いにてられて、思わず胃の内容物を床に吐き広げてしまった。

その行為の意味と関係を知ることになるのは、まだ少し後のこと。


 それから、速水の眼はあるものを幻視するようになった。

当時はそれが「何」であるか分からず、父に視覚の不調を訴え眼科に駆け込んでもお手上げだった。

新種の飛蚊症ひぶんしょうかもしれない、という見解だったがしっくり来なかった。

なぜなら見えるのは小さな光の虫のような粒では無く、黒い霧とももやともつかぬ物質だったからだ。

黒い霧は決まって人に巻き付く様にしてうねっている。

霊体や残留思念ではないか、と思った時期もあった。

しかし、それは違った。

試しに心霊スポットに行っても、何も視えなかったからだ。

黒霧が決まって見えるのは人のいる場所、もしくは人が出入りする場所のみ。

つまり、この黒い霧は死者が発するのではなく、生きている人間が発するものだということだ。


 

 「じゃあ、その黒い靄、霧? だっけ……それはいったい何なのよ」

真尋は運ばれてきたオムライスを平らげるとこちらを見つめた。

右手でペンのようにスプーンを弄んでいる。

「答えばかりじゃつまらないだろ。シンキングタイム」

わざと答えをはぐらかす。

というより、答えであると明示できるような根拠は速水も無い。

あくまで類推による予測でしかない。

だから真尋の客観的な意見も一度聞いてみたかったのだ。

「そうね……霊じゃないのよね……生きてる人間だけにあるものってことよね……じゃあ、じゃあ……」

唸るようにして思考する真尋。

「あ、たとえば、人間が悪いこと考えると黒い霧が出るとか」

つまりは悪意の具現、ということか。

「その推測も良いな」

「良いな、ってなんなのよ。答え無いの?」

「誰かから授かった訳じゃなくて、偶々たまたま視えるようになっただけだからね。答えらしい答えは無い。あくまで俺の予想でしかない」

「何よそれ……。じゃあ、速水の予想とやらを聞かせてよ」

考えた時間を返して、といった面持ちで頬を膨らませる。

「……早退した日の一か月後に、母は男を作って家を出て行ってしまったんだけど、その時に俺に愛してる、って一言言ったんだ」

「それ、黒い霧の話と関係あるの?」

まぁ聞けよ、と突っかかる真尋を制して話を続ける。

「そしたらさ、母の身体からぶわぁ、って黒い霧が噴出したんだよ。つまりは、そういうことさ」

「どういうことよ」

「黒い霧の正体はなんだって」

「嘘?」

真尋は呆気にとられたような表情を浮かべる。

なんというか、道化師のように表情が豊かだ。

「そう。嘘を吐いた時に黒い霧が出てきて、その人間を包むんだって……」

「待って、それじゃあ速水のお母さんは」

真尋は次に続く言葉を言おうとしたが、言う気分になれなかった。

酷く、デリケートな話だと思えたからだ。

「あれは真っ赤な嘘……、いや、この場合真っ黒な嘘、かな」

「でも、そんなの分からないじゃない。嘘だなんて……」

唇を噛み締めるようにして、真尋は少しうつむいた。

何かと重ねているのだろうか。

「子供は大人よりずっと敏感で、頭が良いからね。なんとなく分かるもんだよ。相手が自分のことを好みに思ってるか、嫌いに思っているかなんてことは、幼少期の感受性なら誰でも分かる。だって、それを見極めないと無力な子供は生きていけないからな」

真尋は何も言わなかった。

言わなかったというより、言葉が浮かばなかったのだろう。

言語というのは、いかんせん不完全だ。

「実はそれ以来、人間不信になってしまって。街行く人々に黒い霧がみんな纏わりついているのを見て、誰も信じられなくなったんだ。だから……」

「だから、あの時に学校で気持ち悪く……?」

頭の回転が速い。

速水が次に言おうとした言葉を先読みされてしまった。

「そう。学校や駅といった人が集まるはどうしたって空気の循環が悪くなる。特に学校や病院のような生活を送る場所は、それだけで思念の情報量が凄いことになるからね。特にあそこは……」

「松陵のこと?」

「まぁ、人が一人死んでいるんだから当然と言えば当然だが、あそこは異常なくらいに色々なものが綯い交ぜになっていた……ように感じた。霊媒師じゃないから、子細なことは言えないんだが」

頼んだ紅茶は空になり、サンドイッチは水分を失ってパサパサになる。

気付けばランチタイムの時間は大きく過ぎ、店内は準備中のようになっている。

「つまり、朝房さんが速水を松陵に連れて行ったのは、事情聴取を直に見せて、証言者が嘘を吐いているかを判断するため、ってことね」

「そう……なんだろうな、アイツはよく分からん」

今まで十年余り、朝房に黒い靄が視えたことは一度も無い。

嘘を吐かないのか吐けないのかは謎だったが、そこは問題では無い。

黒い霧が視えない人間なんて、それこそある意味で真正ほんものの異常者である。

だからこう長く付き合えているのだが、そのせいで朝房の思考は速水の範疇に及ばないことが多く、脳を酷使するため、消耗するのだ。

だから、今でもアイツのはらの内は読めない。

「そっかぁ……」

「何がそっかぁ、なんだ」

「今まで速水の行動で不思議だと思ってたことがいくつかあったんだけど、そのいくつかは今回の事情を聴いて解決したから。スッキリしたというかなんというか……」

「まぁ、いずれ説明しようとは思っていたが、タイミングがな」

面倒なイベントを終えることが出来て、真尋ほどではないが速水も少しは清々しい気分になった。

「でも、大変よね……」

突然、神妙な面持ちで真尋が呟く。

「なにが」

暫くの沈黙を守って、真尋は億劫おっくうそうに口を開いた。

まるで、時間が止まってしまったかのように。

「だって、嘘を吐かない人間なんて、この世に一人もいないものね」


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