第2話 追想する聖女

 水色のカーテンは窓面を覆い尽くし、外界から注がれる陽光を遮断している。

しかし完全に遮断できる訳など無く、合間合間から光の線が部屋に注がれて空気中に舞い散る埃の粒を明白に映している。

夜では無いことは分かるが、朝か昼かは定かではない。

部屋の中は乱雑とも綺麗とも呼び難い様相を呈しており、人間の臭いが籠った生活感だけが主張を続けている。

小学校入学の際に祝いの品として贈られた勉強机は、今や物置同然となり、壁に沿うように置かれた本棚に差し込まれた少女漫画も、既に何か月も手を触れてすらおらず、埃がちりばめられている。

カーテンと同じ空色に染められたベッドの上で、風見怜香かざみれいかは襲い来る何かから身を護るようにして、布団を両手に抱いて小さく丸まった身体を包み込んでいる。

それが何であるか、怜香自身判然とはしていなかった。

ここ半月、いやもう数か月、こうして怜香は時間を浪費している。

反転した日常、反転した時間、反転した生活。

生き続ける気力が無いくせに、死ぬ勇気すらない自分。

噛み合わせの悪い歯を軋らせることだけが唯一の自己顕示。

意味のない生活を続けて、人生を無駄に消費することが、唯一の償いだった。

それ以外に出来ることはない。

というより、思い付かなかった。

学校には

行けば終わってしまう、崩壊してしまうのが恐ろしかったから。

その一方で、そうなりたいと願う自分もいて、更に思考回路は腐食してしまう。

心というものが形を与えられているとすれば、きっとそれは薄張りの硝子細工のようなものだ。

悲しいくらい脆くて、簡単に割れる。

自分にそんな心があるとすれば、それはすでに罅割ひびわれていて、少しの衝撃で簡単に中身が外に漏れ出てしまう。

それが、とても恐ろしかった。

本当は恐怖を拭うためにいっそ叩き割ってしまいたいけれど、その後を考えて恐ろしくなり、必死に抱き抱えてひびの入った硝子の球を守っている。

何もせずに人生を浪費することが自分の罰だなどとうそぶいたところで、本当は自分が壊れてしまうのが、自分を壊してしまうのが恐ろしいだけなのだ。

死すべき臆病者なのだ、私は。

真に恐ろしい記憶は、虐げられた記憶ではなく痛ましいほどに美しい夢だ。

私は毎日朝が来るたびにそれを頭の中でなぞるように思い出しては、気が遠くなりそうになる。

あの美しい彼女の顔を。

樋浦加奈子ひうらかなこの顔を。



 「樋浦、加奈子?」

速水は朝房の運転する車の助手席に座りながら、渡された写真と捜査資料を眺めていた。

本来であれば一般市民である速水に捜査資料を見せるのは法に抵触していると思うのだが、わざわざ指摘するのも最早面倒臭い。

写真の下には明朝体のフォントで樋浦加奈子と行儀よく名前が書かれている。

写真の中に座る樋浦加奈子は紺色の制服を身にまとい、笑顔とも真顔ともつかぬ表情をこちらに向けている。

恐らくは中学の卒業写真をコピーして拡大したものだろう。

「そうそう、よく読めたな。流石は本の虫」

こちらに視線をよこすこともなく、棒読みで人を小馬鹿にする。

「しかし、これはまた……」

美人だ、と言おうとして速水は言葉を飲み込む。

美人という単語は速水証吾の口から出る言葉として適当ではない、と判断したからだ。

「美人だろう?」

補完するように朝房が言葉を足す。

「これがお前が言っていた転落事件……いや、一応転落事故か。それの被害者ってことなのか?」

「まぁ、そんなところだ」

「死因は?」

「頭を強打したことによる脳挫傷だ。それ以外にも顔や足元に小さな傷があったが、これは階段から落下した際に付いたもので、もみ合ったりしたような外傷は見当たらない」

「踊り場から、転落したんだったか」

「そう、吹き抜けの階段の三階の踊り場部分から落下した」

速水は写真の中の偶像となった加奈子を見つめて小さく呟く。

「……もしかして、樋浦加奈子は?」

「どうしてそう思うの?」

朝房より早く反応したのは、後部座席で暇を持て余していた真尋だった。

シートベルトを窮屈そうにしながら、なんとかこちらに身を乗り出そうとしている。

速水はそれを制止すると、少し逡巡して脳内で文章をまとめる。

「昨日、朝房が事件のあらましを語った時も【被害者は踊り場から転落した】と言っていたのを覚えているか」

真尋が小さい頭を振るようにして、上下に頷く。

「踊り場から、と場所を断定したことが気にかかってな。階段から落ちた、と言えば良いところをわざわざ踊り場からと断定するからには何か訳があるのだろうか、と少し思ったんだ。どこから転落したかが分かるのは、単純にそれ以外には考えられないから、という消去法から答えが出されたと考えるのが適切だろう。つまり、落下したのは踊り場以外からは落ちることが考えられない人間、ということになる。それに該当する人間は……まぁ、階段を上り下り出来ない、たとえば足が不自由な人間なんじゃないかと少し思っただけだ」

「なんだか気持ち悪いな」

朝房がげんなりとした表情で言ったが、速水は心外とばかりに思いっきり睨み返す。

解決済みの事件に趣味で介入していくお前の神経の方が百倍は気持ち悪い。

「足が不自由ってことは……車椅子ってこと?」

「だろうな。松葉杖程度ならば階段から下りている途中に落ちたってことも十分にあり得る。だから足を怪我した人間じゃなくて、足が不自由な人間って言ったんだ」

「ふぅん……」

イルカのショーを見た後の子供のように、真尋は口元を綻ばせる。

「そう、速水の言う通り樋浦加奈子は小学生の時に遭った交通事故以来下半身不随の状態でね、以来ずっと車椅子生活だったそうだ」

右手で掴んだままの写真に目をやる。

これが撮られた時には既に車椅子だったということか。

「じゃあ、やっぱりおかしいな」

速水は朝房を一瞥することなく、エンジン音に消されそうな声で言葉を漏らす。

誰かに話しかける意図はなく、頭の中で思考を反芻するために。

「何が、おかしいの?」

真尋はその黒目がちな目を丸くしながら、首を傾げる。

柔らかそうな栗色の髪が、着ているシャツの肩に触れる。

加奈子が大人びた美人であるとするならば、真尋は実年齢より幼く見える美人の類だろう。

「事件が起きたその女子高……エレベーターはあるのか」

「ある。樋浦加奈子も普段はそれで教室間の移動をしていたそうだ」

「やっぱりな……」

「ねぇ、何がやっぱり、なのよ」

速水はアームレストの上に加奈子の写真を置くと、真尋に視線を少し移す。

「車椅子に乗る人間は、普通は落ちたりしない」


私立松陵女子高等学校は品川駅から徒歩十分ほどの位置に建造された女子高である。

バブル期に建設されたこともあり、敷地は広大で東京ドーム何個分と朝房がのたまっていたが、不必要な情報なので速水はよく覚えていなかった。

校舎は全てで四つ。中央部にある一番大きな校舎「中央棟」とその左右に鎮座する「西棟」と「東棟」。

そして少し離れたところに位置する「体育棟」が存在する。

その中央棟へ続く正門からの直線状の並木道を道なりに歩くと、白いキャンバスを思わせる巨大な四角の建物が見えてくる。

道の左右には歩行者を囲い込むような桜の木々たちが蕾を蓄えているが、まだ開花にはいささか早い。

「なんだか、大学みたいね」

確かに高校というよりは、大学に近い間取りだ。

「金が有り余ってる、って感じがするよなぁ」

朝房が下品な笑い声を発しているが、速水は無視して進む。

並木道の終着点には一本足のスマートな時計が午後三時を示している。

「なんだかんだで、こんな時間になっちゃったな」

「なんだかんだってな……」

新宿から出発した時刻は午後一時過ぎだったと記憶しているので、おおよそ二時間の道程ということになる。

「こんなに遠かったですっけ?」

「今日は道が混んでいたからね……仕方ないよ」

しおらしく朝房は語るが、問題なのは渋滞では無く朝房の方向感覚である。

未だに運転免許を持っていない速水は学生時代から度々朝房運転の車に乗り合わせているが、目標時刻通りに目的地に着いた試しがない。

救いようがないのは、機械に案内ナビゲートされても思いっきり方向を間違うということだ。

今回も新宿を出て早々に池袋方面へと舵を切ろうとしたのを速水が正さなければ追加で三十分はここに来るのに遅れていたに違いない。

「ほら、下らないこと言ってないで早くアポ取って来い。俺達はここで待ってるから」

既に授業時間は過ぎているのか、女生徒たちが言葉を交わしながら先程速水たちが歩いてきた並木道を正門に向かって帰路に着く。

速水は少し口元に手を当てるようにしながら、目線を朝房に促す。

「じゃあ、そこの隅で待ってろ。すぐにアポ取って来るから」

朝房は入り口から死角になる位置に置かれた長椅子を指差す。

あんな場所にベンチを置く意味があるのかどうか怪しいところだったが、今の速水にしてみれば僥倖ぎょうこう極まりない。

千鳥足を踏むようにベンチの元へと歩み寄る。

下に敷かれたタイルとにらめっこをするようにして歩いているせいで、方向感覚が上手く掴めていないのだ。

「速水、大丈夫?」 

真尋が速水を先導するように、背中に手を置いて励ます。

まるでフルマラソンを走った後のように動悸が激しい。

「大丈夫……。座ればすぐに良くなる」

速水は学生時代から学校という場所が苦手だった。

学校というより、人が鮨詰すしづめされた場所が苦手で、新宿駅や歌舞伎町に向かう際には酔い止めを常備して行動している。

今日も酔い止めを持参したのだが、肝心な水を忘れてしまった。

速水は日光から逃れる吸血鬼さながら、着ているパーカーのフードを目深に被って自分だけの世界に逃げ込もうとする。

周囲の雑音を掻き消す様に脳内に血を思考を巡らせる。

これは昔から行っているルーチンワーク。

少しずつ、呼吸が落ち着きを取り戻してくる。

血が通常通りに循環して、目の前の景色が鮮明に色を戻す。

真尋が背中を擦っているからか、ほのかに背に体温を感じる。

「具合、悪かったの?」

だったら無理に行かなくても良かったのに、と真尋は少し申し訳なさそうにこぼす。

「いや、そうじゃない……そうじゃないんだ」

体内に流れる悪い空気を換気するように、深呼吸を繰り返す。

「癖というか、持病というか……。なんにせよ、真尋のせいじゃない。気にするな」

今度詳しく話すよ、と適当に言葉を結んで会話を断ち切ろうとする。

今はとてもじゃないが落ち着いて話せそうにない。

「よう、アポ取れたぞ」

腹立たしいくらい暢気な声で、朝房が戻って来る。

と同時に座ってる速水の隣にペットボトル入りの天然水を置く。

「お前……」

「酔い止め飲みたいけど、水が無いって顔してたから」

やはり自分よりこの男の方が数倍気味が悪いと思う。

「どこで買って来たんですか?」

「校舎内に自販機があったからさ。ほら、真尋ちゃんは何が好きか分からなかったから無難にお茶」

頭を軽く掻きながら緑茶を真尋に手渡す。

真尋が礼を言いながら茶を流し込む動作を真似るように、速水もポケットから酔い止めを二錠出して嚥下えんげする。

まるで体内が水で浄化されていくような錯覚を覚える。

「大丈夫そうか?」

「大丈夫そうもなにも、をさせるために連れて来たんだろ」

「それだけじゃあないが、まぁ、そういう意味も含んでる」

真尋は異国の会話を聞くように、目を丸く見開いている。

「……じゃあ、行くか」

「大丈夫か?」

「さっさと終わらせて帰りたいからな」

清潔感を具象化したような白染めの校舎は、陽光を照り返して瞳の中に乱反射する。

その漂白されきった校舎が、どうもミスマッチで不快感を覚える。

「気が、悪いな……」

雀のさえずりのように仄かな声で、速水はぽつりと言葉を落とした。



 三月度の学校内、その中でも職員室は喧騒と疲弊に汚染されている。

旧暦では十二月が最も忙しい月らしいが、教職に就く人間にとっては三月から四月にかけての年度転換期が繁忙期に相当し、中でも三月初旬は苛烈の一言に尽きる。

卒業生の進路関係で三年担当の教員は多動症のように忙しなく電話、進路室、職員室を行き来し、それ以外の教員も来年度の新入生の入学手続や来年度の教務、生活指導といった担当の選別に追われることとなる。

その日の授業が終わった午後三時三十分。

やっと雪塚正史ゆきつかせいしは自分の席に着くことが出来た。

三学期の期末テストを終え、今週末に卒業式が控えていることもあり、生徒は早めに家へ帰すことになっている。

部活などの放課活動についても現在は小休止をしている。

その代わりに、毎日のように来年度に向けた職員会議が催され、雪塚は消沈の面持ちを隠す気も無く机に突っ伏す。

整髪料により後ろに流された髪が、重力に負けて額にかかる。

雪塚は今年度は二年生の担任で、来年度はそのまま繰り上がる予定となっている。

職員室を縦横無尽に走る教員たちを見て、来年は自分もそうなるのか、と更に疲弊の度合いは増していくばかりだ。

脚に車輪が付いた椅子に腰かけると、腹の肉がベルトの上に鎮座する。

ここ半年で心は憔悴しきっているが、反比例して身体は肥大化を続けているように感じる。

なぜ憔悴しきっているのか、ということを説明するのは野暮な話だ。

今日の職員会議の議題は来年度の生活指導教員の選定についてだったことを思い出し、更に眉間にしわが寄っていく。

「どうしたんです、雪塚先生」

隣の机に座った若い教員は、雪塚を覗き込むようにして問う。

安っぽい青のジャージがシャカシャカと音を立てる。

「那賀川先生」

譫言うわごとのようにして、男の名前を呟く。

那賀川浩平なかがわこうへいは雪塚のクラスの副担任である。

雪塚の基準では美男子とは言い難いが、それでも若さに起因した闊達さは生徒からそれなりに好評らしい。

女子生徒しかいない本校では、男性教員というのは而して人気を得るものである。

「ほら、今日……会議でしょう」

「あぁ、最近多いですもんね。ヘトヘトですよ」

刈り上げた髪を掻く目の前の若人には、言葉と裏腹に一切疲れの様子は見えない。

これが若さの魔力、と今年で三十五になる己を顧みる。

パンパンに空気を内包した風船のようになっている腹は、なんとも悲惨にして無残である。

那賀川の言葉を聞くたびに、一層に溜息が量産される自分の卑屈さを猛省する。

「あ、そういえば聞きました?雪塚先生」

「何をですか」

内緒話をする女生徒のように、声の音量を極端に下げて話し始める。

「なんか、警察が来てるらしいですよ」

「警察?」

雪塚の方の音量は依然として変化していないので、内緒話は不成立である。

「なんだって、警察が」

自らに疑問を提起することで平静を装ったが、動揺は正直過ぎるほどに心臓に早鐘を打たせる。

「さぁ。でも、もしかして……例の」

那賀川の言わんとしていることは言わずとも痛いほどに分かる。

「雪塚くん、雪塚くんはいるかね」

雪塚が次の言葉を出そうとした時、それを圧し潰すような勢いで生活指導室から大声が響く。

生活指導室は職員室に隣接し、外に繋がる扉と職員室に繋がる扉の二扉が左右に付けられている。

「は、はい」

居眠りしている生徒が当てられた時のように、手を挙げる。

「こちらに」

生活指導室から雪塚を呼びつけた声の主は、四文字で動揺を一層に深くさせる。

なぜなら、その声の主は理事長だったからだ。

「あのう、えっと、なんでしょう……」

小走りで理事長の御許みもとへ寄ると、恐縮しながら問答を重ねる。

「ん、警察が来ておる」

「何用で、でしょうか」

「それが分からんほど、君も愚かではあるまいて」

周囲を威圧する胴間声どうまごえで、静かに答える。

分かっている。

雪塚とて、何故警察が自分を指名してきたのか分からぬ訳では無い。

しかし、動揺を鎮めるには沈黙は不適切が過ぎる。

中身が空であるにせよ、言葉を発さなければ心臓に血や空気が溜まり過ぎて破裂してしまいそうになる。

「何を、喋れば」

「訊かれたことに答えるだけで良い。君はただ、本当のことを淡々と話せば良いのだ。難しいことではないだろう」

老いてもなお鋭い慧眼けいがんが、雪塚を射抜く。

鷲鼻であることも相まって、まるで荒野の大鷲に睨まれているような錯覚を覚える。

血が過剰に巡って熱くなっていた心臓は、その視線で凍結してしまいそうだった。



 事務員だという初老の男が三人を連れた場所には、ゼミ室2という札が掛けられている。

部屋の中央部には卵を巨大化させたような楕円形の机が置かれ、それを囲むようにして七脚の椅子が差し込まれている。

窓は採光のためのめ殺しのみで、換気の状態は芳しくない。

部屋の奥部にホワイトボードが置かれているが、記述はない。

仄かに部屋を漂う埃の臭いから、この部屋の使用頻度が伺える。

「すいませんね……」

何に対しての謝罪かは不明瞭だが、男はこちらの返事を待たずに小さく頭を下げて部屋を出て行ってしまった。

突如として室内に彷徨う静寂。

「ねぇ」

真尋が口を開く。

「なんだ?」

「私、警察には見えないと思うんだけど」

「大丈夫、警察官が警察って言ってるんだから疑いはしないさ。それに訊かれてもちゃんと適当な答えは用意してある」

朝房ががははは、と再び下品な笑いを漏らす。

何がそんなにおかしいのか。

しかし速水もその意見には半ば同意だった。

警察に質問をされている、という尋常ならざるシチュエーションにおいて、わざわざ相手を本当に警察かどうかを疑うような冷静な判断は善良な一般市民には望めないからだ。

「……で、誰を呼んできてもらったんだ」

「殺された樋浦加奈子の担任の雪塚正史、三十五歳。現代文の教員らしい」

殺されたと決まったわけでは無いのだが、わざわざ揚げ足を取るのも面倒だった。

「まぁ、妥当か。で、質問はお前がするんだよな」

「したいのか?」

「まさか」

先程貰った水を飲みながら、眉間に皺を寄せる。

なんだか校舎に入ってから、一層に気分が悪い。

学校という人混みがもたらす精神的負荷もあるが、そうではない。

言い得ぬ不快感が、細菌のように身体に這い入る感覚が実に気色悪かった。

猫のざらついた舌で背中を舐められた時のような薄寒い感覚。

「ま、基本は僕が質問する予定だ。速水はでいい」

その言葉を聞いて、更に速水の顔色は蒼白の度合いを増した。



 三人が待ち構える部屋にやって来たのは二人の男だった。

一人は厳格さに手足を付けたような険しい顔つきの老師で、その後ろを子分のようについてきた男はシャツに皺一つ無いほどに張った腹を揺らす眼鏡の男。

老師はともかく、後ろの眼鏡の男は随分と憔悴している。

速水からすれば、そちらの反応の方がまだ理解が出来た。

「それでは、私は先に失礼する。雪塚くん、後は頼んだよ」

老師は眉一つ動かさずにそう言うと、そのまま部屋を去って行った。

小太りの男はそれを見届けると、こちらに小さく会釈をして三人が横一列に座る丁度真向いに座った。

「お忙しいところお呼び立てして申し訳ありません」

話の口火を切ったのは朝房だった。

先程の下品な発声は身を潜め、慣れた口付きで謝罪を口にする。

「いや、まぁ……会議に出なくて済みましたから。ある意味幸運です」

まるで生気が漏れているかのように力のない喋り方である。

「それで何を、お訊きになりたいのでしょう」

「去年の十月末にあった転落事故は、もちろん覚えていますね」

「えぇ、そりゃあ……自分のクラスの生徒ですから……そりゃあ」

言葉の末尾が立ち消えるようにかよわく呟く。

苦虫を噛み潰した顔の手本のような顔で少しうつむく。

憔悴している原因の一つはこれか、とすぐに速水は理解する。

「ですが……あの事件は、自殺ということで落ち着いたと聞いたのですが」

不快そうに頭をあげる雪塚。

実際、不快なのだろう。

「実はですね、捜査が不十分であったことが分かりまして。前回捜査したメンバーとは別の人員で再捜査することになりました。ですので、以前の捜査員と同じ質問を繰り返すことになることもあるとは思いますが、ご容赦下さい」

実に上手い口上いいわけだ、と本当は皮肉ってやりたかった。

品川署が関係していないことと、捜査員が変わったことを両方とも説明できる最上の言い訳である。

雪塚は、ポケットに入っていたタオルで流れる額の汗を拭く。

明らかに挙動が不審だと、素人目から見ても瞭然はっきりしている

それほどに不快なのか、それとも違う理由がそこにあるのか。

「それで、被害者の樋浦加奈子さんについてお伺いしたいのですが…そうですね、抽象的な質問にはなりますが、樋浦さんはどのような生徒でしたか? 担任である貴方から見て」

動揺する雪塚に土足で問答無用に踏み込む朝房。

これは警察官の身に許された越権行為と言い換えてもいい。

「加奈子……、いや、樋浦は……そうですね。こんなことを言うのもなんですが、明るい子……社交的な子ではあまりなかったかと。なんというか、教室の隅で本を読んでいるような……そんな、生徒ですかね」

「お友達とかは?」

「皆でワイワイするような感じでは無かったので……でも、省かれているというよりか他の生徒達からも一目置かれているような、そんな存在でしたね……彼女、成績も良かったですから。普通に話してたのは、風見くらいかな……」

必死に言葉を選んでいるのが、どうしようもなく伝わった。

死者のことを悪く言う訳にはいかない、ということなのだろうか。

「その風見、というのも先生のクラスの生徒さんですか?」

その問いに対して、雪塚はえぇ、と鈍く答える。

「風見……なんとおっしゃるんです?」

「風見怜香です。風に見る、怜香の怜はりっしんべんの怜に、香水の香で怜香」

いつの間にか胸元から出した小振りのメモで名前をメモしている。

「その風見さんは樋浦さんとはどういった風な関係だったんでしょう」

関係も何も、友人以外の関係性があるのかどうかは謎だ。

「風見は……その、樋浦の世話を申し出てくれて。いつも教室の移動の際に車椅子を押したりしてくれて……」

「車椅子は、介助用と自走用のどちらでしょう」

速水は雪塚が部屋に入ってから初めて言葉を口にした。

意図せぬところから出た質問に少し驚いた様子だったが、雪塚はすぐに思考を再開する。

「私は車椅子にあまり詳しくないので断定はできませんが……少なくとも、樋浦が一人で車椅子を動かしているのを見たことはないですね」

「じゃあ、タイヤの大きさはどうでした?」

「タイヤですか? 特別大きいとは思いませんでしたが……」

「そうですか」

そこで速水の質問タイムは終局を迎えた。

「風見さんは何部です?」

突拍子もない質問を飛ばす朝房。

慣れた速水ですらその思考力に追いつくのに少し時間が要る。

「なぜ、そんなことを?」

「風見さんにお話をお訊きしたいと思いまして」

「で、それがどうして部活の話に」

「授業は終わってしまったんでしょう。部活であればお会い出来るかと思いまして」

論理性が飛躍した思考回路だ、と半ば諦観する。

過程を飛ばして突然答えに至る会話法は、速水の脳には合わない。

そして恐らくは目の前の雪塚にとっても。

しかし朝房の思考プロセスは、真尋と少し近いかもしれない。

研鑽けんさんして積み重ねた経験則や脈絡の上に成り立つ理屈ではなく、偶発的に思い付いたインスピレーションからある意味力押しで無理矢理答えへ飛躍する。

先天的な脳構造であるため、恐らく速水はそこには至れない。

「あぁ……風見は確か、美術部だったかと」

太く短い指を顎に寄せて、やっと答えを出す。

「今日活動していますかね」

「今日……いや、今週は卒業式が控えていまして、その準備などで部活も一時的に休止しているんです。先日期末テストもありましたから」

「じゃあ、来週からは部活も再開するということでしょうか」

「いや……来週に来られても、恐らくは会えないかと……」

口に出すのが惜しいと言わんばかりに勿体ぶった言い方をする。

「どういうことです?」

「風見は、あの事件の日から学校にはほとんど来てはいませんから」

明瞭なその発音は、一瞬スローモーションにも見えた。



 廊下の床は無慈悲な蛍光灯の光で照らされている。

まだ春というには肌寒い季節で、冷たくくすんだ色の廊下が直線に続いている。

「で、どうだったよ」

朝房はこちらを見ずに背後を歩く速水と真尋に問いかける。

樋浦加奈子の友人だという風見怜香は、雪塚によると加奈子の事件の次の週あたりから精神的なショックもあり療養という名目で学校にはほぼ来ていないのだという。

来たとしても授業を受けるためではなく、療養期間中に配布されたプリント類や書類を取りに来るためだけのもので、事実上授業に関しては完全に不登校の状態が続いているのだとか。

風見怜香の証言を取ることは諦めたものの、風見怜香並び樋浦加奈子が所属していた美術部の顧問教諭は現在美術室で作業中だということで、現在はその美術室へと向かう途上である。

ちゃっかり雪塚から風見怜香の住所を訊き出していたところを見るに、いずれ風見怜香の家にも行くことになるのかもしれない。

そう思うと、胃に鉛を流し込まれたように身体が重くなる。

「どう……って?」

我ながら、歯切れの悪い答えだ。

「嘘は……まぁ、いてないように視えたが」

気持ち悪いので、一応曖昧な答えを足しておく。

「なんなんだ、その気になる感じは」

「少し気になることがあるってだけだ」

「だから、それを訊いてるんだ」

首だけをこちらに向けた朝房は、あからさまに頬を膨らませる。

いい歳をした大人がやっても可愛げはない。

「別に、わざわざ言うようなことじゃない。本当に些末ちいさなことだ」

「ったく……」

観念したとばかりに両手を挙げて、朝房は白旗を上げる。

こうなったら梃子てこでも言わないということは、長年の経験で把握済みだ。

違和感、といってもそれはミクロ単位の針で肌を刺すような、そんな些細なものだ。

その痒いような、痛いような違和感を言葉にする術を速水は持たない。

言うようなことではない、のではなく上手く言えなかった、というのが事実だ。

「ねぇ、あれが美術室じゃない?」

真尋が指差す先には、一つの部屋。

室内から光が漏れ出し、廊下に注がれている。

他の部屋が消灯済みであることもあり、まるでその部屋だけが入って欲しいと主張をしているかのようにも見えた。


 美術室の中は暖色の電光に包まれていたものの、温度は廊下と変わらず肌寒いままであった。

美術室の敷居をまたいだ途端、画材の臭いなのかは分からないが異臭と悪臭を混ぜ合わせたような臭いが鼻をつく。

倉庫で醸成され続けて液状化した発酵食品のような。

突如見知らぬ男女が入室してきたことに、敏感に男は反応した。

声こそあげないものの、警戒心剥き出しの瞳で。

「すいません、お時間よろしいでしょうか?」

「あ、あぁ……」

男は何かを言おうとしたが、先に言葉を発した朝房に圧された。

美術室で絵の製作に取り掛かっていた男は、切れ長の目を怪訝そうに向ける。

髪が耳にかかるほどに長く、白いエプロンを画材で汚している。

その姿が、いかにも芸術家然とした風貌だった。

「あぁ、私、こういう者でして」

警戒を解くために警察手帳を見せる、という朝房の行為が一層に相手の警戒心を高めることとなった。

蜥蜴とかげのような目が、ぎょろりと動く。

鋭くて、歪で、何を考えているのかが分からない瞳。

「どうして、ここに?」

「その前に、貴方は……」

速水が質問で相手の言葉を封殺する。

話を聞きに来たというのにおかしな話だが、なんだかこの男にはあまり喋らせたくなかった。

「……降旗冬嗣ふりはたとうじです、それを知っていて訪ねに来たのでは?」

降旗は手に持っていたキャンバスをイーゼルの上に置くと、こちらを見据える。

エプロンの下は黒のシャツにサスペンダーで繋いだ同系色のズボン。

エプロンがあるとはいえ、少し絵を描くには向いてない装いだ。

「いや、本当は風見怜香さんにお会いしたかったのですが、不登校とのことで、代わりに顧問である貴方にお話を伺いに……」

「風見さんなら私も暫く見ていません。部活にも顔を出していませんから。……まぁ、例の事件のこともありますし。あぁ、そのことで何かを訊きに来たんでしょうか」

頭の回転が速い、とここは素直に感服する。

と同時に半年以上顔を出していない生徒のことを一瞬で思い出すその記憶力の良さにも同時に感心した。

「えぇ。樋浦加奈子さんと風見怜香さんについて訊きに来たのです。お忙しかったでしょうか?」

実にジェントルな口調で朝房は弁舌をふるう。

思った以上に様になっているところが速水には滑稽だった。

「いいえ、今日の分は終わりましたし。……手短に済ませていただければ」

無い髭をさするように、顎元を撫でつける。

早く話を終わらせてほしい、の心理表現である。

速水も早く話を終わらせてほしかった。

真尋は室内の至るところに点在したキャンバスを眺めている。

「樋浦さんと風見さんは、どのような関係で?」

雪塚の時と同じ質問を繰り返す。

「それは風見さん本人に訊かれた方が良いのでは」

「いずれ訊くつもりではありますが、客観的な意見もお訊きしたいので」

「……そうですね」

背後に森のように広がるイーゼル達の方を向くと、逡巡しゅんじゅんする。

「確かに二人でいることは多かったと思いますよ。そういえば、肖像画の課題で二人組でお互いを描き合う課題があったのですが、その時も二人はお互いの絵を描いていましたから」

「その絵はあります?」

「いや、確か提出して私が査定した後に本人達に返したと。そもそも、樋浦さんの絵はもうここには一つもありませんよ」

右手を顎元に寄せたまま、こちらを振り返る降旗。

何をしても形になる男だ。

「降旗先生は、美術部の顧問なんですよね」

「えぇ、実はここの専任の教員では無いのですが、ここでよく講義を受け持たせてもらうので、顧問もその返礼で請け負っているに過ぎません」

「先生から見て、樋浦さんや風見さんはどういった生徒でした?」

時間が止まったように、部屋が緘黙かんもくを守る。

言葉を選んでいる、というより純粋に悩んでいるように見えた。

「これはあくまで私見ですが……そうですね、樋浦さんと風見さんは、一般的な女生徒同士の友人というのとは、少し毛色が違う関係、というか」

蜥蜴の瞳が、にわかに細くなる。

輪をかけて不気味さと恐ろしさが増す。

「友人関係というより、そうですね……それ以上というか」

丸められた銀紙のように顔に皺を寄せて、もどかしさを表現する。

「恋人的な関係、ですか?」

朝房が躊躇一つせずに、言葉を投げつける。

空気が充満している部屋。

温度は冷えているが、代わりに人間の体温が裸身で晒される。

「そういった俗な関係では無く、もっと……こう、なんでしょう。純な関係……、純粋に深い関係性……親愛とでも言うんでしょうか。肉体的では無い、深度の深い愛情の形……」

気障きざな言葉を繋ぎ合わせているが、それでもこの男が言えば詩人の囁きに思える。

「樋浦さんは、寡黙というか、そもそも人とコミュニケーションを取ること自体が少し不得手な子でした。ですが、そこが第三者にはどこか魅力的に思えたのかもしれませんね」

車の中で見た樋浦加奈子の写真を思い返す。

黒髪が肩まで艶やかに伸び、西洋人を思わせる高い鼻、左右にちりばめられた宝石のような黒目。何かを言いたげに仄かに開く唇。

そして車いすに座りながら教室の片隅、読書をたしなむ深窓の麗人。

本人にそのつもりはなくとも、他者からはそう映ったかもしれない。

沈黙を続けるだけで意味を与えられるのは美形の特権だ。

「ですから純粋に深い関係、といっても互いが同じだけの量の愛情というより、特に風見さんが樋浦さんに対して特に強い情を持っていたように思えます」

「まるで、神に祈る聖女ですね」

速水は思わず皮肉を口にしていた。

「えぇ……そうですね、そう……正しくそんな風でした」

達観したような表情で、小さく頷く。

その反応は速水が予期したものとは数段違うものだった。

まるで自分も樋浦加奈子という名の神の信奉者であるかのように。

「なるほど」

適当な相槌で話を断つと、朝房は銀の腕時計を見つめる。

「じゃあ、今日はそろそろ失礼します。お話、ありがとうございました」

「帰るのか」

聞こえるか聞こえないかといった声量で、朝房に問う。

「お前、顔色悪いぞ」

速水の方に顔を向けずに、朝房は一言そう言い放った。

それを受けて速水はキャンバスをにらめっこを続ける真尋に帰るぞ、と伝える。

「よくもまぁ、飽きもせずに……」

呟くように目を細める速水。

「いや、この絵……」

真尋はキャンバスの中に描かれた絵を指差して速水にアピールする。

その絵は鉛筆だけで描かれたもので、色彩は黒と白しかない。

しかしニスか何かで加工が施されているのか、若干光沢を放っているようにも見える。

「綺麗だなぁ、って」

キャンバスの中に描かれているのは女性の姿だった。

絵の中に座る女は明後日の方向を向いて座っている。

喜怒哀楽が欠如したその表情は、例の樋浦加奈子の写真を彷彿とさせた。

使っている画材が特殊なのか、嫌な臭いがする。

美術室を入った時に感じた臭いの原因はこれかもしれない。

「綺麗、だが」

その後の言葉は、敢えて口にしないことにした。

美術に造詣の無い速水でも、この絵の質が高いことは分かる。

真尋の言う通り、綺麗で精密に描き込まれた絵だとも感じる。

精密に描き込まれた絵。

そう、この絵は精密だ。

恐ろしいほどに精密で、繊細に描かれ

度が過ぎた何かには、それだけ余分に情念が詰まってしまう。

それは意図や思惑といった意識の上とは別の側面から。

執念、と呼ぶべきか。

人よりそういった感覚にさとい速水は、この絵を称賛できない。

綺麗だと知覚する前に、違和感や不快感が身体に侵入してしまう。

この絵には、それこそ描かれた一本一本の線が虫のようにうごめき出しそうな、得体の知れない不気味さを誘発するものがある。

絵の中の女がこちらを見つめてくるようで、目を逸らす。

逸らした目線の先、キャンバスの下に文字が走り書きされていた。

H.K―――。

「速水、行くぞ」

朝房はコートを羽織ると、速水の肩を叩く。

「あ、あぁ」

放心していたのか。

我に返って朝房に向き直ると、早々に空間から出る。

「顔色、悪いぞ」

部屋を出て暫く歩くと、朝房は同じ言葉を言った。

真尋も心配そうに、速水の顔を覗き込む。

「……嫌なものを視た」

「あの先生か? 言っていたことに不審点が?」

「いや、そうじゃない……ただ、あの空間は」

体内の空気を入れ替えるように、深呼吸をする。

「尋常じゃない」

まるでここは情念がひしめく蟻地獄の中のようだ。

速水は闇の中に埋もれそうな声で、静かに唸った。



 ゼミ室、職員室、美術室はいずれも二階に点在している。

雪塚によれば二階は専門教科の教室と一年生の教室、三階は二年生の教室、四階は三年生の教室というように区分けされているらしい。

そのため、速水たちは二階よりも上の階層へは踏み入っていない。

美術室から出口へ向かう最短に道筋は件の吹き抜けの階段を通る経路である。

薄暗くなった校舎の中を出口へ向かって歩く。

点在した丸形の電球が道筋を照らしている。

「……ここが、例の階段か」

二階の踊り場に着くと、速水は朝房を呼び止める。

真尋もそれに応じてその場で立ち止まる。

二階から見える天井は高く、天井部分が一部硝子張りになっているため、天窓のようにしてまばらに空が見える。

叙情的だが、少し利便性に欠ける。

「そうそう。まぁ、落ちたのは三階の踊り場から、だけどな」

階上を指差して綻ばせるが、その先に面白いものは何もない。

「じゃあ、遺体はここに?」

「そう、遺体はこの二階の踊り場にあった」

朝房が両手で輪を作りながら、位置を明示する。

真尋は今は何の痕跡も残っていないその場所を、忌避するように後退る。

「何故、三階から落ちたと?」

「樋浦加奈子の血痕が検出されたのはこの踊り場と、二階から三階に上がる階段のみだ。三階から四階までの階段に血液は付着していなかったし、学校の他の場所でも検出されていない」

つまり、他の場所で殺されて運ばれた可能性は限りなく低いということだ。

三階は二年生の教室とロッカールームがある。

樋浦加奈子が二年生であることを鑑みると、三階から落下したというのは間違いなさそうだ。

「車椅子はどこに?」

「ここに。被害者から二メートルほど離れた位置で横向きに倒れてた」

「車椅子ごと、落とされたのか」

「そうなるな。加奈子の背中には指紋が付着していなかった。加奈子を車椅子から下ろして押したわけじゃなく、車椅子ごと落としたってのが、まぁ論理的な推論だろうな」

真尋も速水の視線を追うようにして、闇を見つめる。

なんとか思考に追いつこうと食らい付いている。

「ねぇ、車椅子ごと……自分から落ちたってことは考えられないの?」

「絶対にないとは言えないが、それは考えにくい」

速水が真尋の方を軽く振り返って、言葉を切る。

「車椅子には大きく分けて自走式、介助式の二タイプがある。自走式は名前の通り自分で自由に動かせるタイプで、介助式は基本的に誰かに押してもらって動くタイプになる。それぞれに特徴があるけど、一番大きな差はタイヤだ。自走式は座ってる人間が自分で動かせるようにタイヤにハンドリムっていう手摺りみたいなもんが付いてる。だからタイヤが大きいんだ。でも自走式はその必要が無いからタイヤは特別大きくない。つまり」

「そっか、さっきの雪塚先生の話……」

真尋が脳内で先程の雪塚の聴取を回想する。

―樋浦が一人で車椅子を動かしているのを見たことはないですね―

―タイヤですか? 特別大きいとは思いませんでしたが……―

「じゃあ、加奈子さんの車椅子は」

九分九厘くぶくりん介助式、だろうな」

「でも、介助式なら……その……」

真尋は口籠る。

「坂道のような傾斜で助走を付ければ別だが、ここからじゃ、車椅子ごと落ちるのは、自分だけの力じゃ出来ない」

速水は朝房に、実に嫌そうな顔を向ける。

「誰かが押している介助式の車椅子の場合、その誰かがいなければ移動が出来ずに行動が制限されるから、事実上自殺はほぼ不可能なんだ。でもそれは逆に言えば……押している人間の一存で座っている人間の行動を制御することも出来るってことだ」

言葉を一つ発するたびに、心が損耗するような錯覚を覚える。

樋浦加奈子の車椅子が介助式である。

この事実はこの事故と呼ばれた事件が一人による自殺では無く、二人以上の人間によって行われた他殺であることを示唆している。

朝房にとっては案の定、というところなのだろうが、速水は不本意でならない。

本当はこれ以上この事件に介入したくない。

しかし、目の前の男が、それを許しはしないだろう。

朝房がそういう人間であることは、もう痛いほどに分かっている。

だから抗うことすら、摩耗を防ぐためにしたくなかった。

「……速水」

「なんだ」

「今日はもう帰ろう。何度も言ってるが、お前顔色が最悪だ」

お前のせいだ、と悪態を吐く気すら起きない。

身体から血液がすべて抜かれて、今にも紙のように飛んでしまいそうに体の感覚がおぼろげだ。

「雪塚正史と降旗冬嗣、あと……風見怜香のことを調べられるだけ調べておけ」

朝房は流石に虚を突かれたようで、目を見開く。

「なに、やる気出たの?」

「早く終わらせたくなっただけだ」

これは紛うこと無き本心である。

早く解決、というより朝房を納得させるだけの仮説を実証して遁走したかったのだ。

この事件とも、この厄介な旧友からも。

朝房は、ほう、と言って口元を斜めにする。

喜んでいる、のかは判然としない。

速水はその表情を見ると、視界が白濁に沈んでいくのを感じた。

飲んだはずの酔い止めが効力を失って、結界が決壊する。

倒れたのか、倒れてないのか、それすらも分からない。

二階の踊り場が、海になった。

白く澱んだ無重力の空間。

意識を溶かす無垢の世界。

よく、覚えていない。

感覚が水底へ吸い込まれていく。

考えずただ身を委ねることにより得られる全能感。

眠るように精神の感覚から解脱することの多幸感。

何もする必要が無い。

いや、その思考すらも溺れてしまう。

速水は、ただその無意識の意識の中で、扉を閉じた――。











 
















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