第9話

普段通りに出社して、普段通りに仕事をして、いつもの通り定時で会社を出た。

破滅的なプロジェクトに放り込まれた時になかなか帰宅できないから、余裕のあるときには定時で帰る社員が多いのだ。

中には大して忙しくもないはずなのに、常に遅くまで残業をしている人はいて、給与には最初から一定の残業代が織り込まれているから中途半端に残業するのは完全に無意味であり、かといって有意な残業代が出るほど残業時間を積み重ねてしまうと、睡眠時間を含めて私生活のかなりの部分を犠牲にしなければならない。「彼らには仕事以外に楽しみがないから残業をしているのだ」と頭では分かってはいたが、どうしても理解しがたい存在である。そんなタイプの人間が出世しがちなのは困ったものだ。その日も、二つ上の上司が定時で上がる僕を見て嫌味の一つも言いたそうだったのを、さっさと会釈をして通り過ぎて、まだ明るいうちにオフィスを出た。

やれ過労死だ、サービス残業だ、未払残業代がどうだ、という声はよく聞くものの、定時に上がってみるとまだ明るい時間から居酒屋やショッピングに繰り出しているサラリーマンやOLも少なくないことが分かる。帰宅ラッシュだって18:00には始まっている。一体何が正しいのか。とにかく不平不満を口にする人が多いのは間違いないし、ポジティブに墓穴を掘っている前向きな社畜が出世するのも確かだ。僕としては、首にならない範囲で仕事をして、出世を諦め、ほどほどに人生を楽しむ方が性に合ってると思いながらスーパーに寄り、キャベツ半玉と豚肉、ビールと少し高いウィスキーを買った。帰宅してキャベツを全て刻んでコールスローサラダにして、豚に味噌をまぶして胡麻油で焼いて、それをつまみにビールを2本飲み、余った料理は室温に戻ったところで清潔な容器に移して冷蔵庫に仕舞い、ウィスキーをチビチビと飲んでいたつもりが、結構なペースで飲んだらしく早々に酩酊し、皿洗いとシャワーを浴びるのがやっとの状態で、時計を見上げるとまだ夜8時を過ぎたばかりである。こんな時間の使い方をしているようでは、残業している「社畜」社員のほうがましじゃないかと思って苦笑してしまう。

ふと昼間に元妻が戻ったような気がして、罪悪感を感じる一歩手前まで彼女の下着や服、食器をチェックしてみた。特に減った様子もないからあれから家に戻ってはいないのだろうか?今度は好奇心から彼女の持ち物をざっと棚卸ししてみると、化粧品と洗面用具、スーツと彼女のお気に入りの服が消えていることが分かってそれなりに準備を進めていたわけだと思う。

彼女の持ち物をチェックしているうちに、どこから来たのか寂しさの大波がどっと押し寄せてきて、逃れるようにやっと歯を磨き、ウィスキーを口に含んでベッドにもぐりこんだ。

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