第8話
夢の中で僕は屋根の上にいた。足元には煉瓦が整然と積み重なっていて、そんな屋根が建築技法的にあり得るのかどうかは知らないが、とにかく足を掛ける場所はあり、滑り落ちる心配はなかった。高さは10m以上ある。飛び降りれば大けがをするか死ぬだろうと思う。だが僕は楽観的だ。いくらでも足場はあるし、屋根裏部屋に抜ける場所があるはずだと確信している。それは屋根が小さく崩れている箇所で、大人が余裕で潜り抜けられる大きさだ。僕はその穴をありありとイメージすることができた。両手と両足を慎重に使いながら、その抜け穴を探してゆっくりと屋根を這い降りているうちに、いつの間にか僕は絶壁にしがみついて、上ることも降りることも出来なくなっていた。しばらく待って助けを待ち、人が通りかかる様子がなければ(そこは森の奥で、人が通る様子はなかった)限界まで下に降りてから跳び下りようと腹を括ったところで冷や汗をかきながら目を覚ました。
時計は5時45分を差していた。遮光カーテンの隙間から、灰色の朝日が漏れていた。目の奥が痛んだ。アルコールのせいだ。しばらく目を閉じていたが眉間に力が入っていることに気が付いて、諦めて起きることにした。独りでダブルベッドから出ようとする僕の体は普段よりもずっしりと重くて、妻が去ったことにまだ順応していないのだと気づかされた。遅い時間にたっぷりと夕食を取ったからか、妻が出て行ったからか、食欲はなかった。濃いコーヒーを淹れて、砂糖とミルクを入れてゆっくりと味わった。そのうちに腹が減ってきた。トーストを焼いて、スクランブルエッグを作り、トマトを切って、ゆっくりと食べた。コーヒーをもう一杯作り、今度はブラックで飲んだ。
とにかく、新しい生活が始まったのだ。まだ32歳になったばかりで、まだまだ先が見えない。これからどうなるか全く分からないのだ(ちなみに妻も僕と同い年だ)。僕は妻が出て行ったという事実から、出来るだけ前向きな教訓を引き出そうと決意した。同時に、安定した一人暮らしを構築すべきだ、とも考えた。収入と支出を管理する。なるべくまともなものを、できるだけ安く食べる。不安、絶望、自己嫌悪といったネガティブな感情にとらわれない。なかなか容易ではないと思われたが、とにかくやるしかない。
僕は出勤する前の時間を利用して、冷蔵庫の整理と買い物リストを作った。今日は定時で帰宅し、ちゃんと自炊してから、生活を立て直すためのTODOを検討しよう、と決意した。
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