第7話
その時流れていた音楽はクリアな声の男性ジャズボーカルで、恐らくは甘ったるいラブソングではないかと思われたが、歌詞を気にしなければよい曲だった。僕は二杯目のウィスキーソーダを作って口に含んでから、腹が減っていることに気が付いた。考えてみればトースト二枚の朝食を取り、バーボン入りのコーヒーを飲んだだけだ。妻から突き付けられた離婚という精神的な虚無感と、物理的な空腹が重複して、区別が出来なくなった。
とにもかくにも腹が減っては戦が出来ぬ。などと古臭い諺を口に出してから、僕は冷蔵庫に向かった。作り置きの豚の生姜焼きがタッパーに一人前。レタス。トマト。充分だろう。
僕はウィスキーを手に台所に立って、レタスを千切ってサラダスピナーで水分を取った。それからトマトをカットして、大皿に山盛りのサラダを作った。キャベツと人参とベーコンを刻んで、水とスープの素を入れて火にかけた。生姜焼きを電子レンジで温めてから、冷凍ご飯を電子レンジに放り込み、3杯目のウィスキーソーダを濃いめに作った。そしてご飯が熱々にな頃には、空腹の胃に流し込んだアルコールのおかげで、すっかり上機嫌になっていた。
妻は名の知れた広告代理店の営業で、かなりの激務だった。帰宅が深夜を過ぎることは珍しくなく、月に何度か土日出勤もあった。僕は中堅のシステム会社のエンジニアで、それなりに忙しかったものの、ハードなプロジェクトに放りこまれた時以外はなるべく定時で帰って、家事をこなしていた。基本すれ違いの生活だ。だから食事を自分で作るのも、一人で食べることにも慣れている。
サラダにドバドバとシーザーサラダドレッシングを掛けて、ムシャムシャと音を立ててレタスを咀嚼した。妻に捨てられたのだ。下品にサラダを食べる権利くらいある。それから生姜焼きでご飯を一気に平らげて、ゆっくりとスープに取り掛かった。BGMはケニー・バレルのミッドナイト・ブルー。妻に捨てられた男にはなかなかふさわしい音楽だった。
スープを飲み干し、4杯目のウィスキーをグラスに少量注ぎ、少し迷って風呂に入ることにした。このままだと潰れるまで飲んでしまう。これを最後のナイトキャップにしよう。
明日が月曜なのは幸いだ。会社に行く必要がある。仕事がある。日曜に別れを告げられて良かった、と僕は思う。まだ同僚や会社に言う必要はないだろう。結婚式に会社の上司や同僚を呼ばなくて正解だった。もちろん、離婚を予期していたわけではないけれど。
彼女はエリート・リア充とでも言ったらよいだろうか。一流大学を出て、一流企業に就職して、ハードに働いていた。中堅の大学を出て、中堅の会社で、地味に働く僕とは、一見不釣合いなようでいて、意外とお似合いだ。続きそうなカップルだ。と、親しい友人や家族からは前向きな評価を得ていたのだが、この結果だ。彼女はあっさりと僕の「予定調和」を離脱してしまった。
食器を片付けてからシャワーを浴び、歯を磨く。時計は午後10時を指していた。疲れとともに、新しい生活が始まるという妙な高揚感があった。高揚感という言葉に感じられるのは軽さしかない。その程度の暮らしだったのか?とすれば、これまでの妻との生活は、一体何だったのだろう。予定調和か。彼女を理解できる日が来るのだろうか。深呼吸してウィスキーと雑念を飲み干し、僕は眠りに落ちた。
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