第3話

強張った顔を無表情に整えるのが精いっぱいの僕には目を合わせず、彼女が言った。

「私、出かけた方がいいかな?一人になりたい?」

僕は頭を振った。何も考えられなかった。

「分からない。でも、そうしてもらえると助かるかもしれない」

彼女は頷いて財布と携帯をバッグに放り込み、洗面所に行った。10分も立たないうちに、髪を後ろにさっとまとめ、日焼け止めだか何だかを顔に塗り、口紅を付けて出てきた。服装は黒のスキニーパンツに白のカットソー、その上にカーディガンを羽織っただけだ。デートする格好には見えないが、だからといって男と会わないとはいえない。玄関に向かう途中、空になったマグカップが台所にそっと置かれた。

「夕方には帰ると思う」

「夕食はどうするの?」

思わず聞いてしまう。

「あなたに合わせるわ。一緒に食べてもいいし、あなたが一人がいいなら、私もどこかで適当に済ませくる。メールして」

「分かった」

彼女が素早く部屋を後にした後、僕は椅子の上でしばらくじっとしていた。動けなかったのだ。あるいは、動こうと思わなかったのかもしれない。どっちでもかまわない。自由意志なぞ精神のシャーレで純粋培養された仮説に過ぎないのだ。

最初に僕がしたことは、再びコーヒーを淹れることだった。「長いお別れ」のフィリップ・マーロウを思い出しながら、何も考えずに、ゆっくり、丁寧に濃いコーヒーを淹れた。仕上げに角砂糖を1個とバーボンを少々。焦げたような香りを感じて、少しだけ人心地がついたような気がした。

甘くて苦いコーヒーを飲みながら、僕はノートPCの電源を入れ、メールソフトを立ち上げた。新規にメールを作成し、宛先に彼女のアドレスを入力した。タイトルは未入力のまま、本文を打ち込む。

「他に男が出来たのでしょうか」

すぐにその一行は削除して書き直す。

「どうしてだろう?」

「原因は?」

もはやメールの体を為していない断片的な独り言を一しきり打ち込み、結局メールは削除した。その後新規にメールを作成しては破棄し、これを幾度か繰り返してコーヒーを飲み干した後で、少し落ち着いた気分になった。

メールソフトを終了して何気なくブラウザを立ち上げてから、ふと彼女が言った「予定調和」という言葉を思い出した。字面から何となく意味は伝わる気はするものの、あまり一般的な言葉ではないだろう。改めてWebで意味を検索してみたが(ライプニッツの言葉だ)、離婚のきっかけになる用語には思えなかった。缶ビールをちびちび飲みながら、ソファで青空文庫の「単子論」を読んでいるうちに、僕は眠りに落ちていた。

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