木(一つの漢字を元にして書く)
どうも、木です。名前はナナカマドというのですが、それは僕個人の名前ではないのであまり好きではないです。この度は伊藤家に長男が生まれたということで、その記念として伊藤家の庭に植えられました。ここの庭は、庭にしては比較的広い方であると、庭に生えている他の先輩方に聞いたので、僕は運がいいんだと思います。
長男は和樹君という名前だそうです。母親に抱きかかえられて僕の前に来た時に、その楓のような真っ赤な手をこちらに伸ばして、あろうことか僕の葉をむしり取ろうとしました。すんでの所でお母さんに阻止されましたが。僕に痛覚などというものはありませんが、僕だったものが一瞬で僕でなくなるというのは少し怖いものがあります。僕はちょっぴり和樹君が苦手になりました。
一年くらい経ったある日のことです。和樹君がトテトテと庭に出てきました。つい先日、和樹君は歩けるようになりました。彼はかなり好奇心旺盛なようで、色んなところにトテトテと歩いて行っては、お母さんたちを困らせているようです。そんな話を和樹君のおばあさんが僕に向かってしていました。聞いたところで、僕は何もできないのですが。
和樹君は僕の所に来ようとしているようで、その覚束ない足取りで一生懸命にこちらに向かって歩いてきています。あ、転んだ。……起き上がった。
どうやら大きな怪我は無さそうです。僕はホッと一息つこうと思いましたが、その目にはみるみるうちに大粒の雫がたまっていきます。あぁ、一息つく暇すらなさそうです。しかし、僕は木なのです。人間のように赤ん坊を抱きあげて、あやすこともできません。僕はえいっと枝の先に力を入れます。
ひらり、とちょうど色づき始めた僕の葉が和樹君の頭の上に落ち……ませんでした。頭を狙って落としたつもりだったのですが、失敗です。僕はもう一度、えいやっと力をこめます。今度も失敗です。
結局、葉を十枚くらい落としても彼の頭の上には落ちず、僕は落胆して和樹君の方を見たのですが、彼は次々と落ちてくる葉に夢中になって泣き止んでいました。結果オーライです。
和樹君はみるみるうちに大きくなり、彼が十歳になった時、和樹君のおばあさんが亡くなってしまいました。
お葬式が終わり家に帰ってきた後、和樹君は僕の前で泣きました。和樹君は何かあって泣きたいとき、必ず僕の前に来ます。
「何で、死んじゃったんだよぉ」
和樹君のお母さんとお父さんは仕事で忙しく、いつも彼の面倒をみていたのはおばあちゃんでした。僕は泣きじゃくる彼を慰めるようにまた、葉をひらひらと落とすのです。僕にはそれしかできないから。
長く生きれば、死にます。当たり前です。しかし分かっていても割り切れない部分があるのもまた、当たり前なのです。だから、和樹君が泣いてしまうのも、僕がひらひらと葉を落とすことしかできないことも、きっと。
……そして、人より木の方が長生きなのだから、和樹君が僕より先に死ぬことも当たり前なのでしょう。
秋の終わり、僕の葉が紅く染まってきた頃の話でした。
最近、和樹君は反抗期というものらしいです。僕は木なので反抗期などという人間的なものが存在しないわけですが、和樹君は人間なので存在します。僕の元にも滅多に来なくなりました。少し寂しいですが、どうやら反抗期というものは数年も経てば過ぎ去り、人間は一つ大人になるらしいです。木である僕にとって数年という年月はさほど長いものでもありません。僕は、和樹君が大人になるのを待っていました。
とても月が綺麗な、寒いある晩のことでした。二年ぶりくらいに和樹君が僕の前に来ました。和樹君が白い息を吐きながら、雪をシャリシャリと音を鳴らして踏みしめながら、僕の下に来ました。
和樹君は寒い冬の中、銀色に輝く月と僕に見守られて自分の将来について語ってくれました。
高校を卒業したら大学に行って建築について学びたいということ、卒業したらちゃんと働いて親を支えてあげたいということ、幸せな家庭を築きたいということ……。寒かったので彼が語った時間は短いものでしたが、その密度はとても濃いものでした。
いつも葉を落として和樹君を慰めたりしていた僕ですが、寒くなったので葉は全て落ちてしまいました。しかし僕はナナカマドなので、寒くても赤い小さな実がついています。僕は少し凍りついたそれを和樹君の上に降らせました。赤い実は和樹君の頭に当たって、彼は小さくイテッと呟いていました。僕はこの時、少しだけナナカマドで良かったと思いました。
和樹君は少しだけ微笑んで、家の中に戻っていきました。その日から少しずつですが、和樹君がみんなに対して優しくなっていきました。
今日はいよいよ和樹君が旅立つ日です。和樹君は東京にある大学に合格したそうです。もちろん建築について学べる大学です。ここは東京よりずっと北の方なので、和樹君はこの家から通えません。一人暮らしをするそうです。僕もついていきたかったのですが、僕は木なので地面に根を張って生きています。これでは東京まで行くことができません。だから僕は和樹君がたまに帰ってくるのを待つことしかできなさそうです。
旅立ちの日、和樹君は僕の前に来ました。和樹君は僕に色々なことを語りました。今まで色んな話を聞いてくれたことへのお礼、何故かひどく落ち込んでいたり喜んでいると、いつも葉や実を落とすこと。
「お前には感謝しかないよ」
和樹君はそう言って旅立っていきました。
和樹君の居ない日常は少しだけ物足りないものでした。お母さんやお父さんが話しかけてくれることは度々ありましたが、でもそんなに頻繁ではありません。僕は毎日空を眺めたり、庭に生えている他の草木と話したりして過ごしていました。
気づけば幾年かが過ぎ去り、和樹君は大学を無事に卒業して、建築家として働くことになったそうです。和樹君が大学に入って四年目の正月、彼がそう言っていました。東京で就職先を見つけたから、今まで以上に家には帰れないかもしれない。そろそろ定年が近づいている両親のことも心配だが、自分のやりたいことをしたい。彼の決意は固いもので、僕は枝に降り積もっていた雪を落として彼を応援しました。
異変が起きたのは、和樹くんが社会人五年目のことでした。僕はいつも通り空を見つめ、鳥の歌声を聞いていました。そこに突然、バタンと大きな音が響きました。
和樹君のお父さんは去年定年退職をしたらしく、いつも家にいます。お母さんはまだ働いている時間です。つまり、家の中でそんなに大きな音がしたということは、お父さんが立てた物音でしょう。僕は家の中を覗き込みました。
いつも通りのリビングが見えました。……ただ一点を除いては。和樹君のお父さんが倒れています。苦し気な表情を浮かべています。僕は救急車を呼ばなきゃと思うのですが、木に電話を使えるわけがないのです。誰か人を呼ばなきゃと思っても、木に口はありません。
秋の始め、ちょうど実ができた時期です。僕はその実を隣の人の家にぶつけて、知らせようとしましたが、隣の家の人は一向に気付く様子がありません。
お父さんの苦しむ表情を見て、しかし何もできずにどれだけの時間が経ったのでしょうか。お母さんが帰ってきたのは日が沈みかけた頃でした。
家に帰ってきたお母さんはまず、倒れるお父さんを見て悲鳴をあげ、救急車を呼びます。これでお父さんは助かった。僕はほっと一息つきました。
次の日、和樹君が帰ってきました。今日は休日ではありません。慌ただしく動く彼を見て、僕はお父さんが亡くなってしまったことを悟りました。この日ほど、僕が人間であれば……と思った日はありませんでした。
お父さんが亡くなって五年後、和樹君が家に戻ってきました。何でも、彼の会社の支社がこの近くにできたそうで、彼はそこに異動となったようです。僕は嬉しかったです。
お母さん一人だった家が、少し賑やかになりました。二人とも、よく今日の出来事や愚痴を僕に語っていきました。僕はその度に葉や実を落として応えるのでした。僕は幸せ者でした。
ある日、和樹君が慌ただしく帰ってきた日がありました。今は昼で、彼は仕事のはずです。僕はお父さんが亡くなった時を思い出して、嫌な予感がしました。
彼は慌ただしく家を出ていきました。僕はその帰りをずっと待っていました。和樹君が帰ってきたのは夜遅い時間でした。
和樹君は帰ってから一番目に僕に何があったかを話してくれました。お母さんが事故に遭った事、手術はしたが結局助からなかった事。その日、僕は彼の涙を久しぶりに見ました。僕はいつものように葉を彼の頭に落として慰めようとしたのですが、全く別の場所に落ちていき、結局彼の頭の上に落とすことはできませんでした。
数年が経ち、一人きりになった家に、一人の女性が増えました。和樹君の奥さんだそうです。僕は彼らを祝福しました。結婚するにしては二人とも遅い方だったらしいですが、遅かろうと幸せそうなので、僕は温かい気持ちになりました。
しばらくして、彼らに子供ができました。僕は自分がこの家にやってきた時を思い出しました。
子供は女の子で、名前は
樹ちゃんはとても順調に成長しました。時々、和樹君に抱きかかえられて、僕の前まで来ます。樹ちゃんはあー、うー、と理解できない言葉を話しながらこちらにその手を伸ばして、なんと僕の葉をむしり取ろうとしました。僕は蛙の子は蛙という言葉を思い出しながら冷や汗をかきました。
数十年という年月が過ぎ、和樹君は髪の毛が真っ白のおじいさんになっていました。とっくに定年退職もして、毎日のように僕に話しかけてくれます。
和樹君は今日も庭に出てきて、僕の根元に座り込みました。歳はとりたくないものだなんて、ぼやきながら。
「思えばお前にはずっとお世話になっていた気がするなぁ。ただの木に世話になるなんておかしいかもしれんが」
そんなことないです。世話をしていたかと言われると微妙ですが、いつも話はちゃんと聞いていましたよ。
「いつもお前は葉や実を落として励まそうとしてくれていたんだろう」
分かっていたんですか。人間と木が心を通わせることができたなど、不思議な話です。
「正直、落ちた実が当たるのは少し痛かったけどなぁ」
すみません、しかし冬に落とせるのは実か枝に積もった雪くらいしかないもので。
「でも、いつも泣いていたら慰めてくれていただろう。……ありがとうな」
どういたしまして。こちらこそ、色んな話を聞かせてくれてありがとうございます。
「……ちょっと眠いから寝るか」
……こんなところで眠って大丈夫なんですか。
「ずっと夢見てたんだ。最期の時はお前の下で眠りたいってな」
それは光栄な話です。……ねぇ、今まで色んなことがありましたね。
「今まで本当に色んな事があったよ。今となっては全部大切な思い出だ。ありがとうな」
僕も和樹君と過ごせて幸せでした。
「おやすみ」
……おやすみなさい。
一本のナナカマドの木の下で眠る老人の上に、ポロポロと赤い赤い木の実が落ちていくその様は、まるで涙を零しているかのようであった。
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