お題小説

雨乃時雨

匂い、ライター、カクテル

 ずっと昔の話である。僕は雨に濡れてびしょびしょになって、段ボールの中でカタカタとその非力な体を震わせていた。

 そこに人が通りかかった。あぁ、きっとこの人もすぐに通り過ぎてしまうのだろう。

 最初は、人が通り過ぎるたびに希望を持っていたのだ。もしかしたら、ご主人様が迎えに来てくれたのかもしれない。もしご主人様が迎えに来なかったとしても、誰かが拾ってくれるかもしれない。そんな話を何かのドラマで見たことがあるような気がするから。でも、そんな希望は何度も何度も裏切られた。だから、この人もきっと、すぐに通り過ぎる。

 この重い瞼をこじ開けて見なくても、パシャンパシャンと靴が水を叩く音で人の居る場所は分かる。猫は人間よりずっと耳がいいのだ。

 目を閉じて震えていた僕は、ふと雨が止んだことに気付く。いや、違う。僕の耳はしっかりと雨の雫が地面に降り注ぐ音を捉えている。じゃあ。

 僕は頑張って、この鉛のように重い瞼を開けた。

「お前、捨てられてるのか」

 男の人だった。多分、三十歳くらいである。彼が僕を雨粒から守るようにして傘を差してくれていたのだ。

「よかったら、うちにくるか?」

 周知の事実ではあるが、猫は人の言葉を喋ることができない。頭の良い猫なら人語を解することができるのだが、阿呆の猫ならそれすらもできないのだ。頭の良い猫である僕は猫語でイエスと答えた。

 それを猫語を解しない人間がどのように捉えたのかは知らない。

 でも、その人間は僕のことを優しく持ち上げて、抱きしめて、お前冷たいなぁなんて呟いていた。

 雨が降っているのに、自分の体は雨で濡れているのに、その人からはどうしてかお日様の匂いがして、僕は気持ちよくなって目を閉じた。


 今日も今日とて、雨である。

 ご主人はライターを取り出して煙草に火をつけた。「衝撃! 赤ちゃんと話せる女性が存在した!?」などと題されたテレビがだらだらと流れている。全く、赤ちゃんの言葉を解する前に猫の言葉を解する努力をしてほしいものである。

 そもそも、赤ちゃんの言葉は分かってはいけないものなのだ。赤ちゃんが言葉を話せるようになるのは、そうしなければ自分の意思を伝えられないからであって、話さなくとも自分の意思を伝えられるようになってしまえば赤ちゃんは言葉を取得しようと努力する意思を放棄してしまうことだろう。それに比べて人間が猫語を解しても猫にとってのデメリットは無い。だからどうせなら、猫語を解するようになってほしいものなのである。

「おーまえは何をにゃーにゃー言ってるんだ」

 そう言って、隣に座っていたご主人が僕の頭をウリウリと撫でてくる。その煙草の匂いに僕は少し顔をしかめて、立ち上がって煙草が入った箱を猫パンチで吹き飛ばした。

「あっ、おま、何するんだよ」

 当然だ。猫は人間と比べて鼻もいいのだ。人間ですら嫌がる匂いを猫の前で漂わせるとは何事か。そこに居座れ、僕が成敗してくれるわ!

「あー、もしかして煙草が気に入らないのか」

 ご主人はそう言って、煙草の火を消した。ご主人様、分かってるじゃにゃいか。

 ご主人様は先程の番組がつまらなかったのだろうか、リモコンをポチポチと操作して番組を変える。世界中のカクテルを紹介する番組、今話題の音楽を紹介する番組、ゲストを呼んでひたすらに喋り続ける番組……。チャンネルを五つくらい変えた頃だろうか。ご主人様が、ふと「あ」と声を洩らした。にゃに? と僕はそちらの方を見る。

「あと五分で、あのドラマじゃね。お前、好きなんだろ」

 その言葉でハッとなる。毎週月曜日十時から、五チャンネルで放送されるあのドラマは僕が大好きなものなのだ。

「にゃあ」

 人間は猫語を解しているとは到底言えないが、きっと長く一緒に住んでいれば言葉の壁なんてたまぁに越えられるものなのかもしれにゃい。

 僕はご主人の膝の上に乗って、にゃあと一つ鳴いて、お気に入りのそのドラマが始まるのを待つ。僕のすぐ傍に居るご主人様からいつかの時と同じ、太陽の匂いがした気がした。

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