第3章 書く、ということ(7)

影なき小説家ペイパーバック・ライター



 帰り途のコンビニのアルバイト募集がなくなっていた。早々に決まったのだろう。もしかしたらそれは自分だったかもしれないと思うと、なんだか複雑な思いだった。


 行き詰った生活を打破するために、動くべきかじっと動かないべきか。そして依本は動かない方を選択し続けた。いや、実際には選択したのではなく、迷ってオロオロしていただけだ。動くことにより一条の光が見えるならまだしも、動けば、単に、食えないという原始的な悩みが解決されるだけなのだ。だから踏み出せないのも、ある意味当然というものだった。ともかく依本は動かずに、日々じりじりと減る生活費に恐々としていた。


 こういったジリ貧状態のときはさらに悪い方悪い方へと事態が進み、苦しい状況がより深まっていくものだ。それが意外なことに、今回、いい方に進んでいくことになった。働きださなかったおかげで、飛び込んできた依頼にたっぷりと時間と精力を注ぎ込むことができたからだ。


 アルバイトなどやってしまったら時間のやりくりに苦労し、これほど順調に書き進められなかったことだろう。まず資料の本からして読めなかっただろうし、そうなれば依頼の性質もうまく把握できず、物語の組み立てができなかったはずだ。人に長文の書き方はいろいろあるだろうが、ある程度ラストまで構成を組み立ててからでないと書き進められないのが、依本の特徴だった。


 たかだかアルバイトなのだから、本職の書き物に邪魔になった時点で辞めちゃえば問題ないはずだ。しかしアルバイトとて仕事であることには変わりがなく、周囲の迷惑や混乱も頭の中を掠めるだろう。無収入に後戻りする怖さも内包しているところにもってきて、後は知ったことかとスッパリ切り捨てることが、果たしてできただろうか。想像するに、せっかく依頼が舞い込んで来たのだから是が非でも仕上げなくちゃと焦りながら、アルバイトもなかなか辞められず、両方に引きずられて窮地に陥っていたのではないか。


 しかしながら、幸運にも依頼を受けたときには無職だった。これは悩む必要がないというものだ。働いていないのだから、そもそも辞める必要がない。かえすがえすも、内田からの連絡は本当にいいタイミングだったと依本は胸をなでおろした。これが数ヶ月遅れていたら日干しになっていたか、アルバイトを始めていたはずだ。コンビニの前に立ちながら、依本はタイミングの妙に安堵のため息をついた。


 しかし正直なところ詠野作品の依頼を受けた直後は、これで生活が好転していくなどとは思えなかった。収入に繋がり、それはもちろんおおいに助かった。しかし単なるゴーストとしての依頼で、しかも一冊買い切りの契約。印税ではない、一冊買い切りのカタチなのだ。部数が伸びたとしても、金が入るわけでも知名度が上がるわけでもない。つまりは先の展開が開けない仕事なのだ。


 それでいて自身の作風と違うもので、産みの苦しみはおそらく自作を書いていた頃以上のものと想像した。だから、依頼を受けた直後こそ喜び、その興奮が残る間は順調に筆も進むだろうが、冷めてくれば、作家になってからずっと悩まされた「頭の便秘」状態に、再び苦しめられることになるだろうと予想したのだ。


 それが意外なことに、止まることなく順調にページが進んでいっている。もちろんミステリーの核となるトリックの部分が用意されているからこそなのだが、それでも頭の中に展開が浮かび、それをスラスラと吐き出して、物語を進行していけている。それにつれて、心身も快調になっていっている。これはうれしい誤算だった。


 作家、詠野説人の一連の作品は若い女性に人気の軽いミステリーで、工員の日常を描いた私小説風の作品で世に出た依本の作風とは正反対といっていいものだ。


 だいたいにおいて依本は、著作のなかに出てくるのはほとんど男だし、女性を主人公に書いたことすらない。ホモの世界を扱ったものでもないし、友情ものでもないのに、男ばっかりなのだ。内田が帰ってから、勢いで受けたはいいけど、こんな畑違いのもの書けるものだろうかと不安になっていたのだ。しかしその心配は、今のところ不要だった。


 部屋に戻った依本はいつものクセで冷蔵庫を開けて缶ビールを取ろうとしたが、いけないいけないと自分を叱り、手を引っ込めた。

 


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