第4章 ペンの魔術師(1)

影なき小説家ペイパーバック・ライター



 詠野説人。こう書いて「えいのぜっと」と読む。謎の作家で、プライベートな部分はほとんど知られていない。昭和40年代の生まれ、東京都出身、血液型A型、男。公式な情報としては、こんな程度。若い女性が読者ターゲットの推理物を量産し、昭和が終わることから現在まで、30年ほど売れっ子作家の地位を保っている。


 住所や電話番号などは論外としても、いかに姿を隠したって、この時代では多少の情報は流れるものだ。例えば家族構成や卒業した学校、職歴など。しかしそんな、ありきたりともいえる情報まであやふや。いくつかの説はあるが、そのどれもが明確ではない。はっきりしているのは、当たり障りのない、奥付の著者紹介文程度の情報に限られている。


 唯一、本好きに広く知られているのがペンネームの由来だ。詠野説人という名は、「AノZ」に漢字を当てはめたものだということ。ファンはそれをもじって、紹介文やレビューなどに「A野Z人」や「詠野Z」などと書いている。


 ペンネームの意味するところは、作品タイトルがAからZまで、アルファベットすべてを網羅するようにという願いからだ。

それくらい多くの作品を発表したいという願掛けということだが、実際にはその願いを遥かに凌駕している。とにかく圧倒的な作品数で、アルファベットや五十音の網羅どころではない。書店のラック1つ分が、軽々埋まるくらいの数ときている。


 自分が関われば気になるのは当然のことで、依本は依頼が来たあと、詠野Zを調べてみた。とは言っても聞き込みをするわけにはいかないのでネットで検索するだけのことだが、この時代は多くの人間がさまざまな角度でネットに載せるので、正誤など気にしなければある程度の情報はつかめてしまう。


 ところが詠野Zに関しては違った。検索して出てくるのは作品評ばかりで、人物に関しては情報がほとんど拾えない。今まで特段気にしていなかったが、何重もの壁に囲まれた、謎の作家だったのだ。


 依本は思い付くワードを、次々打ち込んでみる。それでも得られる情報は、まったくの噂程度のものだけとくる。


「へぇ、これほど長く活躍しているのになぁ」


 現状を知っている依本は、ほとほと感心する。こんなにも多作で名前の知られた書き手が、4半世紀以上も秘密を保っているのだ。依本は感心しながらも、苦笑せずにいられなかった。


 最初に思い付いた人間はよほどの策士だろうが、引き継いだ者も切れ者なのだろう。もっとも火付け役はこれほどにまで長期にわたるプロジェクトと意識していなかったのかもしれないが、結果としてロングランとなっている。これは、関係する者それぞれの緻密な行動と連携がなければ、とてもここまで続かないというものだ。依本は大手出版社の組織力に恐ろしさを覚える。


 しかしまた同時に、幸運と詠野Z作品の性質というものにも、成功が助けられたとも分析する。作為だけでは、うまく続かないはずだ。


 例えば詠野Zのデビュー時期。ネット全盛の時代がデビューでは、こうまでうまくいかなかったに違いない。昭和の終わりという、まだネットが普及していない時代のデビューだったからこそうまくいったのだ。そしてライトタッチで読みやすい作品ということが、大きい。売れ行きがよくとも賞とは無縁でいられるからだ。賞など出版業界内、あるいは出版社という内輪のことなので、詠野Zを賞レースから外せという根回しは可能だ。


 それでも社会派の小説であれば、なにかしらのメディアに引っ張り出され、作品を語ることを強要されてしまうことになる。世間のニーズが高まれば、そうそう逃げてばかりもいられないだろう。詠野作品は社会派などとは無縁だが、この辺りは策なのか幸運なのか判別が付かないところではあるが、おそらくは幸運の部類だろうと依本は推測した。詠野Zの多くは文庫書下ろしで、キオスクやコンビニなど、広く扱っている。売れ行き重視の策がライトタッチを選択させたのだろう。


 そして詠野Zは、同じ作風のものを延々と出し続けていくことになる。小説でもマンガでもロングラン作品の書き手というのは、作品の知名度に比して作者の顔が知られていないということが多い。まるで空気のようになってしまうのだ。


 謎の人物ということで、詠野Zは多くの異名を持つ。「ペンの魔術師」、「ストーリー製造機」、「影なき小説家」等々。「限りなく湧き出る小説の泉」などという長ったらしいものもある。いずれも、他の作家がうらやむような魅力的な名だ。これはミステリアスな人間の恩恵だろう。素性を知られていない人物は、知られていないという一点だけで魅力的なのだ。


 謎の人物は伝説も生まれやすい。詠野Zにもいくつか噂があったが、その一つを抜き出すと、このようなすさまじいものだった。


 それは詠野Zが、まるでタイピストが原稿を打っていくかのようにパソコン画面を埋めていった、というもの。それも一時間続けたという。なんでもその場に居た編集者が、まるで機械のように打っているので、これはなにか下書きでも隠し持っているのではと疑ったという。しかし覗き込んでも何もない。だいたいにして視線をずらせないほどの、打ち込みのスピードだったという。人間、たとえ原稿があったとしても、脇目もふらずに一時間打ち続けられるものではない。それを、創作しながらやってのけたというのだ。


 こんな噂が、詠野Zには多かった。まるで百八十キロの剛速球を投げたと言われているようなもので、書き物をしている人間であれば「それは無理!」と即座に否定してしまうような話だ。当人がいないのだからもちろん創作なのだが、ようはそんな噂が上がるくらい、詠野Zという作家は人間離れした多作ということなのだ。こんな噂話のように執筆していかなければ、とても追っつかないほどの作品数とくる。


 尋常でない作品数なのに、質も落ちないときている。噂が立ち上がるのは当然だ。依本は小さく、そうだよなぁと頷く。書き手が入れ替わっているのだから、多作も質の維持も当たり前のことだ。


 

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