第3章 書く、ということ(6)
≪影なき
松江との呑みはいつも終電ぎりぎりとなるのだが、この日は松江が翌朝早いということで9時にお開きになった。
――5時から9時までなんて、ずいぶん健全な呑みだなぁ。
高架を走る私鉄の車窓をぼんやり見つめながら、思う。まだ呑み足りない依本は、まるで当然のように、最寄り駅で降りたあと『大葉』に足を向けた。
暖簾をくぐり、オヤジに手を上げながら、しかし目は女神をさがしていた。
カウンターに着いてホッピーを頼みながら、小さく落胆する。客の中にあの女はいなかった。そして数秒のち、落胆した自分を自嘲した。
すぐに焼酎と氷が入ったグラスが渡され、依本は『ソト』を両手で注いだ。そして、この店お勧めのタン元とハラミを頼んだ。
たしかに、食欲があるな。依本は新宿の呑み屋で松江に言われた、『健康法は書くことです』という言葉を思い出した。
生活を極端に切り詰めていたので、期限切れの食パンをかじって数日過ごすこともあった。だから、執筆に追われたときに比べて体重が10キロ減った。元々痩せているところに10キロの体重減少は体に大きく響き、急に立つとめまいが起こった。
困窮して食べなくなったということもあるが、松江の言う通り、自身の才能のなさを思い知らされての気落ちからでもあった。書けなくなり、美味しいものを口にする、腹を満たすという欲求が、欠落してしまったのだ。メシなんか、どうでもよくなってしまった。だからぼそぼその食パンだけでも気にならなかったし、むしろそんな味気ないものの方が喉を通りやすかった。
酒の方はだらだらと呑んでいたが、これは好きだから呑んでいたわけではなく、気落ちを紛らわせる手段としてのものだった。その酒が、より食欲を下げていたこともある。運よく酒そのものでは体を壊さなかったが、食事を遠ざけたことで二次的に健康を害していた。
内田が来てまだ何日も経っていないが、体にエネルギーが満ちているのが自身で分かる。
「このままいってもらいたいものだな」
呟き、伸びをする。
その拍子に店を見回す。拘らないようにしているのだが、つい、あの女のことをさがしてしまうのだ。
壁のテレビに目が行き、心の中で苦笑が漏れる。映し出されている中堅女優の肩書が「作家」になっていたからだ。
芸能人が本を一冊出し、または雑誌に連載を持ち、肩書きが「タレント」から「作家」や「エッセイスト」になる。依本はそんなものを目にすると、フーンと一人鼻白む。知的に見せようという虚栄心を呆れているわけではない。そうではなく、作家ってそんなにいいもんかねぇと思ってしまうのだ。日本人だからあえてしないが、両の手のひらを上に向けて首をすくめるポーズを取りたい気分になってしまう。
しかし実際のところは多くの芸能人がそうしている。皆がする以上、一般的には文筆業が憧れの職業ということなのだろう。
依本が作家を憧れの職業に思えないのは、これが本職だからだ。肩書きだけでは済まなくて、売れるものを途切れることなく書いていかなくてはいけない立場だからだ。
依本だって専業作家となる前、一介の工場作業員だったときは憧れの職業だった。だから作家を名乗るタレントの気持ちは、正直なところ分からないではない。アメリカ人男性が強い男と見られたいように、日本人なら誰だって知的に見られたいという共通の意識がある。しかしヒット作を出し続けなくてはいけない立場になってしまったら、憧れの職業などと暢気に言っていられなくなった。なにしろ毎日がテスト前日のようなものなのだ。
依本は学生の頃から大のサッカー好きなので、作家になって時間が取れるようになるとテレビでサッカーを観続けた。Jリーグも代表戦も、海外のも。しかしそこまでサッカー好きでも、選手になりたいと思ったことなど一度もなかった。もちろん選手に付いて回る、人々からの憧れの視線や収入などは単純にうらやましいと思った。しかし実力のない者が選手になった悲惨は容易に想像できてしまう。プロの基準に満たないプレーをたった半年や一年続けただけで、ピッチから追い出されてしまうのだ。しかも一旦プロの座から降りれば、スポーツ選手の場合、返り咲きはほとんどない。だからサッカーは好きだけど選手になりたいなどとは一度も思わなかった。選手にとっては一試合一試合が、それこそ採用試験のようなものだろう。
今回舞い込んだゴーストライターの依頼はまさしく最終テストだと、依本は思っていた。いや、一回仕事がなくなっただけに、スポーツで言うところのトライアウトだろう。この依頼を出版社の期待どおりこなしてさえ、チャンスが訪れるか分からない。まずはこれをやり遂げ、そこから活動の場を広げていくしかないのだと、あらためて肝に銘じた。
まず直近でできること、ということで、依本はグラスに『ソト』をドボドボ入れ、アルコールを薄めた。そしてこの一杯で帰ろうと誓った。
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