第3章 書く、ということ(5)

≪影なき小説家ペイパーバック・ライター


 

「今は順調に書けてるみたいだな」


 2杯目の生を頼んだときに、松江が言った。


「え、あぁ、どうかなぁ」


「分かるよ。酒の進みもいいし、料理にも口をつけてる。書けないって言ってたときは、酒も進まなかったし、料理にもほとんど手をつけてなかった。なんというか、全体に生気がなかった」


 言われてみればそうなのだろうと、依本は思う。この数日、気のせいか、あのなんとも言えない体のだるさが取れている。


「『健康法は勝つことです』って、名人がな、言ったことがあるんだよ。今の名人じゃなくて、もっとずっと前の棋士だけどな。依本、お前はこの意味がよく分かるだろ。さしずめ依本は、「健康法は書くことです」だろうな。自身が満足できるペースで書ければ、気力がわいて、ちゃんと食べられ、日常の諸々もしっかりこなせるようになるんだ。で、収入も増えて、人付き合いも広がって、それが次の仕事にも生きる。そうすりゃ酒浸りになるヒマもないというものだ。すべてがいい方に循環してくることになる。書けなかったときは、それがすべて逆になってたんだ」


「うーん、そうかもしれないな」


「書いたら見せろよ、本になる前に」


 依本はぎくりとしたが、なんとか表情に出さずにすんだ。


 松江は以前から、依本の落ちていく様を聞いても、なんら反応を示さなかった。依本が書けなくなり、仕事が減り、そしてなくなり、収入が激減すると同時に離婚もし、寂れた一間のアパートに転落していったが、


「そうか」


 という一言しか反応しなかった。


 他人のプライベートに対して興味がない、というわけではない。松江が反応を示さなかったのは、『文学を志す者は、生活などどうでもいいという超然とした心が必要だ』という意識があるからだった。


 松江が言うには、文学でも芸術でも、永年脈々と続く文化に取り組むのであれば、人ひとりの生活なんか取るに足らないとのことだ。この世にはこれほどたくさんの人間がいるのだから、依本一人くらいが文学に身を捧げたところで、なにも変わりはしないと言う。


 乱暴な意見だなぁと、聞いた当時は腹を立てた依本だが、それは時間を経るごとに、じわじわと心の奥底に根付いていった。たしかに、誰かに迷惑をかけるわけでもない。へんにブレず、いち小説家として生涯を終えるのもいいかもしれないと、まぁ一つの生き方だろう、と。この松江の言葉が心に残っていたから、履歴書を提出しないで破り捨てたのだ。


 そんな、文学ファンダメンタルのような松江に対し、ゴーストの仕事を受けたなど、軽々しく言えなかった。


 つまみが並んだテーブルの先で、松江が表情を和らげていた。


「松江の方はどうなんだ。本は相変わらず出してるんだろ?」


「まぁな。需要が増えもしないかわりに、なくなりもしない分野だからな。でも本は出してるけど、おれの名前は載らないからな」


「そうか。ゴーストの宿命だな。せっかく松江が文章を頭からひねり出しているのに、惜しいことだよ」


「しょうがないよな。でもまぁ将棋の本に関しては、完全なゴーストという訳じゃないけどな。通常のゴーストと違って、単に数回聞き取りするだけじゃ済まないからな。細かいやり取りが必要だから、棋士にも相当負担がかかるよ」


「でも棋士は自著として売れるじゃんか」


「そうだな」


「取り分は?」


 依本はさりげなさを装って聞いてみた。どう装ったのかというと、視線を合わさず、箸を動かして食べながら、声を抑揚して、だ。その甲斐あって松江も無造作に答えた。しかし入ってきた客の声と店員の声が重なり、松江の声はかき消されてしまった。


 

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