第3章 書く、ということ(4)
≪影なき
勤め人同士で呑む場合と、自由業同士でのそれかで大きく違うのは、相手の基本的な背景を知っているかどうかというところだ。
勤め人同士、それも同じ会社であれば、相手の家族構成から収入、休日まですべてを把握している。収入の見当もつくわけだから、どういった暮らしぶりか、ということすら分かってしまう。
ところが自営、ましてやライター同士の付き合いであれば、親しい仲であっても、相手のことはあまり知らない。家族はもとより、収入や仕事内容など見当も付かない。
しぜん話は、世の中の一般的なことがらが多くなる。内輪の話題ができないのだから当然だ。
依本と松井も、自由業同士だ。依本はそれでも、他の同業者より松江の背景を知っている。それは、松江が話してくれたからに他ならない。依本から根掘り葉掘り聞いたことはなかった。
しかし仕事の詳細までは把握していなかった。松江の専門としている将棋を、依本が知らなかったからだ。ルールと、有名な棋士の名前くらいしか知らなかった。だから棋界の仕事内容や賃金が分かるはずもない。
松江は大手新聞2紙、スポーツ新聞1紙に観戦記を書いている。観戦記は、1本に付き数万円の報酬だという。あの新聞の片隅に載っている雑文を書くだけで数万円とは、なんと割のいいことだ! 最初、依本は率直に言葉を放った。しかし松井は腹を立てることなく、淡々と観戦記を書き上げるまでの進行を語った。聞いた依本は、とても割に合わないと思いなおした。
観戦記はどの新聞も一局の将棋を一週間程度の連載で進めるので、年に50本ほどの掲載になる。それを、その新聞と契約している数人の観戦記者で回して書くことになる。囲碁将棋は棋力のある者でないと書けないので、観戦記者というフリーライターへの外注がほとんどだ。松江もその一人だが、一紙に入り込んでも年に7本程度の依頼しか来ないことになる。3紙に書いている松井は、仮に1本10万円としても200万ちょっとの収入にしかならない。
収入をあげるには本数を増やすしかないのだが、1本仕上げるのに数日要するので無理だという。受け持つ対局に一日中張り付き、勝負が決すると感想戦を横で聞き、指し手の変化を後日対局者に聞く。その一局の将棋を、当日のエピソードや棋士のパーソナルな面、現在の棋界の状況、情報などを織り込んで、1本の観戦記に仕上げる。また、タイトル戦だと地方の対局場所まで付き添わないとならない。前日に到着し、2日制の対局なら2日間控室で検討に加わり、翌日戻る。現場仕事だけで4日取られてしまう。
どんなに詰め込んでも30本がいいところで、倒れるまで書くぞと意気込んでも、40本入れるとスケジュールに支障が出てしまうとのことだ。つまりは観戦記のみで暮らしていくのはほぼ不可能だと言ってよかった。それでは観戦記者が観戦記以外に収入をどう得るのかというと、棋士の書く本のゴーストライターをこなすのだという。
将棋の本は、現役トップ棋士の名が出ていなければなかなか売りあげが伸びないが、トップ棋士であればあるほど、本を作る時間など取れない。だから観戦記者や筆の立つアマ強豪などが聞き取って文章をまとめるのだ。
以前に松江からそのことを聞いたとき、依本は受け流してしまった。ゴーストなど、出版業界にはごろごろ転がっている話だからだ。しかし自身のことに関わってくれば、詳しく知りたくなるのが人情というものだった。
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