第3章 書く、ということ(3)
≪影なき
新宿区役所前で友人と落ち合った依本は、信号を渡ってゴールデン街へと入っていった。
2区画歩いたが、どこもまだ閉まっている。この伝統ある猥雑な呑み屋街は、日がとっぷり暮れないと動き出さないのだ。
「やっぱり、まだだな」
依本が呟き、ゴールデン街を抜ける。友人も無言で付いてくる。
少し歩き、定食屋を兼ねた呑み屋の引き戸を開ける。ここはゴールデン街が起き出さないときに使っていた。昼から呑める都合のよい店だ。
客はカウンターにぽつりぽつりといったところで、3つのテーブル席はどれも空いていた。座った依本は相手の意向も聞かずに生ビールを2つ頼んだ。異論のない友人は一品料理のメニューを見ている。
ゴールデン街が始動していないことは、実は計算に入っていた。むしろ、狙ってのことだった。カウンターのみで10席程度という狭小空間、そしてどの店にも少なからずいる常連客。ゴールデン街はそういった性質上、居合わせた客が話に割り込んでくる率が高かった。ましてや出版関係の話となってはなおさらだ。この日、他人を会話に入れたくなかった依本は、
それでも、カタチだけでもゴールデン街を覗いてみた。別段深い話などないよと、軽くアピールするためだ。いきなり定食屋で2人だけの会話をとなれば、なにか重要な要件があるのではと勘繰られてしまう。ゴーストライターのことは、話のついでという感じで聞きたかった。
呑みの場では、どういうわけか、生ビールが運ばれてくるまでは沈黙タイムだ。依本は壁やメニューなどあちこちに描かれた、猫のイラストを眺めていた。
ビールが運ばれてきて、コツンとジョッキを当てる。
「依本と呑むの、なんだか久しぶりだな」
「死んだと思ってただろ」
「あぁ。書けない病でな」
2人でクックッと笑う。
「依本が書けないことを話したのも、この店だったよな」
「そうだったかな。まぁでも松江が言うんだから間違いないだろ」
友人の松江広規は将棋ライターという商売柄、記憶力に長けていた。
「そのときとはずいぶん表情が違う。書けるようになったんだな」
いずれはゴーストライターの仕事を受けたことを話すことになるだろうが、久しぶりに会ったときに話すのはいやだった。
松江が油断ならない男だから、というわけではない。むしろその逆で、依本が、気持ちをオープンにして話せる数少ない男だった。
「松江は相変わらず忙しいんだろ?」
「まぁな、単価の低い商売だから忙しくしてなきゃ暮らせないわ」
「でも仕事があるのはいいことじゃないか」
松江は笑いながら小首をかしげ、ジョッキに口をつけた。そうかな? と、その仕草が言っていた。
松江は将棋の観戦記を書いているだけに、大手新聞に書いたものが載っている。依本としてはうらやましいことだが、松江は逆のことを言う。観戦記は創作でないので、棋士や主催者を
その配慮を受け入れられる松江は、すぐれた観戦記者にはなれても、すぐれた文章家にはなれないと自身で考えていた。創作者が、遠慮の入った文章を書いているのでは失格だという意識を持っていた。
そういった考えを持つ松江なので、創作の頂点とも言っていい、文学新人賞を獲った依本を高く買っていた。
それを感じているから、依本はゴーストの依頼を受けたことを言いたくなかったのだ。
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