第3章 書く、ということ(2)

≪影なき小説家ペイパーバック・ライター



 新宿までボケっと車窓なんか見ていたってしょうがない。せっかくなら資料本でも買って、電車の中で読んでいこうじゃないか。この日前向きな気分の依本はそう思い、駅前にある古本屋に入っていった。渋いオヤジがやっている個人店ではなく、チェーンの大型店舗だ。


 依本は文庫本のコーナーに向かった。


 端から探し、詠野説人えいのぜっとの欄はすぐに見つかった。五十音の順に並んでいる棚は相原というマイナー作家から始まり、3つずれたところから「え」の欄が並びだす。詠野説人はそのトップだった。


 ――それにしてもすごい数だなぁ。


 詠野説人の欄は棚を7段ほど占めている。両腕を広げても届かないサイズの棚なのだから、その作品数たるや、ものすごいものだ。当然だが、ここに並んでいるものが全著作というわけではない。もしも前作並べたら、今並ぶ量の数倍はいくだろう。同業者としては化け物としか言いようがない。依本は書店で詠野作品を見るたびに、心からそう思っていた。


 ――それにしても、なぁ……。


 内田が家を訪れて依頼内容を話し出したとき、依本はひっくり返ってしまった。


「まぁ、おイヤでしたら無理にとは言いませんが」


「いや、いや、ちょっと待って。イヤってわけじゃなくて……」


 久々の仕事が遠のきそうな気配に慄いた依本は、思わず中腰になって内田を制するポーズになっていた。


「ただちょっとビックリしちゃったもんで。えー、でもホントなんですか、内田さんの言われてること?」


「はい。これまで何人かの先生に手掛けていただいておりますから」


「ぼくの知っている人もいるのかな?」


「いや、名前は出せません。だから当然依本先生がお受けしていただいても、その後名前を出すことはありません」


「なるほどぉ」


 内田の依頼がイヤだなどと言っていられなかった。開店休業中で日干し寸前なのだ。依頼がグルメリポートだって文学賞の下読みだって引き受けたいところだ。躊躇したのは、心底驚いたからに他ならなかった。


 内田の依頼は、詠野説人名義の小説を、文庫書き下ろしで一冊書けというものだった。詠野説人ファンの喜ぶ、軽い内容と文体のミステリーを、ということだ。トリックは用意しているので、それに肉付けして小説として完成させてほしいという。


「書けますか、あの感じで?」


「え、あ、そうですね、書く方はなんとか大丈夫だと思いますよ。でもそれより、そんなことしたら詠野先生に訴えられちゃいますよね」


 依本が戸惑いながら言うと、


「いえ、それは問題ないです」


「あの、それってもしかして、詠野先生からの依頼とか?」


 依本は片方の眉を上げて上目がちに訊いた。


 大物が弟子や新人に作品を作らせるというのはよくある話だ。漫画の大家などはアイデアやストーリーだけ指示して、あとはアシスタントや外部の下請けに任せてしまうことも多いと聞いたことがあった。作詞やコピーライターの仕事などでも、その手の話を耳にした。そうか、詠野先生もやっていたのか。うまいことやるなぁと依本はある意味感心した。だからあれほどの作品数を出せているのか、と。しかし、


「いえいえ、詠野先生からの依頼というわけではありません」


 内田はあっさり否定した。大家の横着と依本が思ったのを、そうではないと首を振る。依本は困惑した。まさかこんな大手出版社が盗作を示唆しているのか。


「それじゃあマズいじゃないですか。勝手に売れっこ先生の名前使っちゃったら裁判沙汰ですよ」


「それは大丈夫なんです」


「なんで、どうして大丈夫なんですか。そりゃ大手出版社さんはいいですよ。訴えられても優秀な弁護士が対応するんでしょうから。でも極貧作家にとっては、へたすりゃ首吊りもんだよ」


 久々の、それも大手の依頼なので内田の口調に合わせてバカ丁寧に対応していた依本も、これには腹が立ち、いつものぞんざいな口調に戻った。


「本当に大丈夫なのです。だって訴えようがないのです。詠野説人など、いないんですから」


 と、内田はこともなげに答えた。


「んっ、詠野先生、まさか亡くなったとか?」


「いえいえ、そうじゃなくて、亡くなるもなにも、最初から存在していないんですよ」


「え、存在してないって?」


「ですから、詠野説人なんて実際にはいないんですよ」


「そんなぁ、まさかぁ。だってあんなに本が出てるじゃないですか」


「みんな、こうやってゴースト作家さんに依頼してできた作品ですよ」


「えぇ! あんなにたくさん全部ぅ?」


「そうです」


 そこで依本はあぐらをかいたまま後ろにひっくり返ってしまった。内田は依本の驚く様を見て悦に入ったようにニヤついた、ということはまったくなく、


「ま、驚かれても無理はありません」


 と静かな口調で言った。動きはなく、角ばった眼鏡の縁がキラッと光っただけだった。


 そのときのやりとりを思い出しながら、依本は文庫の棚から適当に数冊抜き取った。なにしろたくさんありすぎて、どれが面白そうか皆目見当がつかない。だから適当に題名の短いものを選んだ。タイトルが短いほど文章に切れがあって内容が引き締まっている、というのが依本の読者側に立ったときの持論なのだ。もちろん私論中の私論なので例外は腐るほどあるということも承知していた。それでもとにかく乱読の人間は、大雑把にでも基準を作らないと、際限なく本屋でうろうろする羽目になってしまう。


 とりあえず自分の基準に従って、数冊つまみ出してレジに行き、百円玉を並べて会計を済ますと外に出た。


 ―― しかしそれにしても、詠野説人という作家が実在せず、作品はすべて売れない作家が書いていたとはねぇ……。


 内田に聞かされて数日経つというのに、依本はまだ半信半疑だった。しかし内田の言っているとおりだとしたら、あの人間離れした作品数の謎だけは解けることになる。


 ―― そうだよなぁ。あれ、とても一人の人間の書ける量じゃないもん。いくつあるんだいったい。500は軽くいってるよなぁ。ヘタしたら1000冊いってるんじゃないか。普通なら、あれ、死んじゃうってもんだよ。


 内田が直接自宅まで来たということも、合点がいった。あんなこと、とても人のいるところで話せるものではない。


 乗り込んだ電車はぽつりぽつりと席が空いていたが、依本はドア横に立って、新宿まで詠野説人の軽快なミステリーを読み耽った。

 

 

 

 

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