第3章 書く、ということ(1)
≪影なき
その翌日は日曜日だった。しかし在宅の創作者に祝祭日など関係ない。依本は早朝から起きだし、歯だけ磨くとインスタントコーヒーを入れ、すぐパソコンに向かった。
開け放した窓から、さわやかな初夏の風が入ってくる。青空とこの風だけで、原稿がすらすらと進んでいくような気分になる。
そしてまた実際のところ、ページ数は順調に増えていっている。書けなかった頃がウソのように、頭から言葉が出てくる。うれしい気持ちと同時に、不思議な感覚でいっぱいだった。
9時を過ぎたあたりで空腹を感じ、昨晩買っておいたコンビニのおにぎり1個を腹に入れる。書き物が順調な時は、お腹を満たしたくない。ほんの少しで充分だった。逆に、どうにも進まないときは、やたらと几帳面に食事を取ってしまう。そして、食事で腹が満ちて眠くなっているから、などと、書けない理由にも使ってしまう。
昼近くまで書き続けた依本は疲れを感じ、ラジオのスイッチを入れて畳にひっくり返った。
天気予報から交通情報、正午の時報に続いてニュースが流れる。それを聞くともなしに、窓の外の青空を眺める。
ここで怖いのが、やり遂げた感からの、長い休憩だ。本を読みだしてしまったり、眠ってしまったり。こんなにやったぞという満足感が、つい、さぼりの気持ちを持たせる。そして何時間もだらだらしてしまい、一日が終わったときに、結局たいしてやれなかったと嘆くことになる。
依本はサッと起き上がると、だらだらすることなく書き出した。
午後も快調。手が、頭が止まらない。依本はうれしいことはうれしいが、複雑な心境だった。内田からの依頼が、名前の出ないゴーストの仕事だったからだ。こんなことなら、自分の名前で出してもらえる時期に快調だったらよかったのにと、つい思ってしまう。
なぜ、プロとしてデビューしたあとに書けなくなったのだろう。その理由が、どうにも分からなかった。発表されるとあって自身のハードルを上げてしまい、筆運びを重くしたというのは、根本的な理由ではないと依本は考えていた。書けなくなった理由。それは、妙な言い方だが、単に書けなくなってしまったということだ。依本はそう考えていた。
どうしてなのだか分からないし、自身でも、こう考えること自体がバカバカしいと思う。それでも現実に、無名時代にどんどん書いていったようには、どうしてもいかなくなってしまった。
人に言えば、なかなか信じないような、言い訳にもならないような説明だ。勤め人時代には仕事の合間をぬって一ヶ月に二百枚も三百枚も書いていて、そして長い歴史のある小説の新人賞を取った人間。それが、ある時から突然書けなくなってしまったなんて。でも、実際にそうなのだから仕方がない。
抽象的だが、感覚としては燃料切れというところだった。車の、ガソリンが切れたようなもの、あるいはバッテリーが死んだようなものだ。
もしかしたら、と当時の依本は考えた。人の力量には限度があって、使いきってしまったら補給は簡単に効かないのではないか、と。そして、なんとも皮肉な話だが、勤め人時代からずっとずっと書き続けて、ようやく職業作家になれて、これからいくらでも書く時間が取れ、発表できるというときになって、力量が尽きてしまった。間の悪いことに……。
この力量、人によっては「気力」と言うし、「才能」とも言う。しかしどうもしっくりこない。英語で「パワー」と言い換えてもピンとこないし、ましてや「やる気」などと言えばもっと意味が離れてしまう。どの言葉もピタリと当てはまらない。依本は、それらを組み合わせた総合力と考えているが、しかしそれすらも的確とは程遠い。いずれにしても、頭の中の、言葉を生産する部分が、空っぽになってしまったという実感があった。
こういう状態になることを、鬱、あるいは心の病などと原因付ける人もいるだろうが、しかしこと依本に関しては違った。他の日常生活に支障がまったくなかったからだ。もしもそうなら、打ち合わせなど対人的なものにだって影響が出ているはずだ。しかしそれらには変化がなく、変わったのは、一人机に座ったときだけなのだ。
受賞後の次作は、以前別の賞で最終選考まで残った作品を加筆して出した。無名時代に最終選考まで残ったものを、大手出版社が「○○賞作家の受賞後第一作!」という帯を付けて平積みしてくれるのだ。当然好評で売り上げも悪くなかった。さぁどんどん書け書け!という状況になり、書くのが追いつかない分、今まで書き溜めたものを切り売りするように出していった。さまざまな賞で二次選考、三次選考、最終候補となったそれら作品が、新人賞作家というカンムリをかぶせてやると、ある程度の光を放ってくれた。新作は生まなかったが、ストックが生き、依本の作家人生はそこそこ順調に滑りだした。
しかしやがてストックが底を尽き、需要はあるが供給ができないという状態になっていった。依本自身、依頼に意欲は掻き立てられるのだ。さすがと唸らせるもの、度肝を抜くものを書いて、編集者に突きつけてやろうじゃないかと。しかし筆が進んでいかない。長編の構想を頭に思い浮かべてはボツにし、自己の基準をクリアしたアイデアも、書いてもページが進まず頓挫した。
自分では分かっていた。作品なんて、捻り出すなんてことで完成させられるわけがないと。意識せずともポンポンと頭に言葉が浮かんでくる、ということがなければ、長編など終わりまで辿り着けるはずがない。考えて考えて一行ずつ文章を伸ばしていったって無理なのだ。だが、もちろん書けないなどと認めたくはなかった。人は誰でも、周囲から持ち上げられているときは不必要に自信家だ。小説など、文章などいくらだって書き上げていけると思っていた無名時代の気持ちを、だらだらと引きずっていた。
しかし実際はどんどん窮地に追い込まれていった。
小説は滞り、時おり入るエッセイだけが実入りとなる。付き合いのある出版社は離れていく。それはそうだ。売ってやると言っているのに商品を提供できないのだから。なにしろ売ってくださいと頼み込む供給者があふれている分野なのだ。
そして依頼がぱったりなくなって一年がすぎた。印税がぽつりぽつりと入ってくる程度で、新規の仕事はない。さすがにもう作家人生もおしまいなんだな、とその当時、すっかり不貞腐れてしまっていた。
初夏の日差しは長く続く。時計が4時をまわっているのを見て、依本は驚いた。夕方から作家仲間と会う約束をしていたからだ。その仲間はほとんどゴーストで書いているライターだった。事情を聞いてみようと、昨日連絡を入れてみたのだった。
着替えもなにも必要のない依本は財布とたばこだけ持つと、アパートの外へと出ていった。
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