第2章 書けない小説家(4)

≪影なき小説家ペイパーバック・ライター



 帰り途、大通りを渡るときに目が止まった。


 昨晩「大葉」で見た、風が舞ったように感じさせた女が反対側から歩いてきたからだ。


 女は当然依本に視線を送ることなく、依本が今来た方へと進んでいった。


 歩行者用の信号が点滅し、依本は渡り切ってから通りの向こうを見やった。しかし女の姿はなかった。また「大葉」に行ったのかと依本は思い、もうちょっと吞んでいればよかったという後悔が気持ちに走った。しかし、あの女と呑み屋で居合わせたからといってなんなんだよと、自分自身で打ち消し、向き直って小道に入っていった。


 アパートまでに2軒のコンビニがある。その一つにアルバイト募集の貼り紙があり、ここでも依本は目が止まった。そんなものに目がいくということが、ここのところすっかり習慣化されてしまっていた。


 原稿の依頼が減って収入が途絶えてくると、どうしても日銭を稼ぎたい気分になる。それが街なかに貼られている、時給900円ほどを謳う紙に関心を惹きつけられることになる。


 小説というものは個人が営業して売れるものではない。出版社という、確たる小説の販売ルートを持っている売り手によって加工、製造、そして販促してもらって、初めて売り物となる。いくら売り物になるレベルに達したものを作りだしたとしても、個人ではどうしようもない。自分自身で製本して商品に仕立てたって、そんなお手製のものなどまず本屋が置いてくれるはずがない。いや、多少は扱ってくれるだろうが、生活が成り立つほど全国規模で広く扱われることは不可能だ。仮に置いてくれたとしても、読者が群がらない。ぽつりぽつりと売れる程度では黒字にならない職業なのだ。


 個人で売れない以上は出版社、それも大手に売ってもらうよりない。彼らは物語を売ることにかけてのプロで、数ある中から商品価値のあるものを見分け、「受賞作」なり「話題」なり「原作」なり、ときに「遺作」なりといった効果的な宣伝文句を添える。そして、場合によっては映画やテレビドラマと組み合わせ、全国的な販売網に乗せるのだ。


 だから小説を売るには大手出版社と取引をするよりないのだが、それが実にむずかしいことだった。まずは関係作りがたいへんだ。いちばんいいのは出版社の主催する新人賞に受かることだが、確率がとんでもなく低すぎる。チャンスがゼロというわけではないが、限りなくゼロに近い。百分の一を表す「%」という記号は一般的だが、新人賞の単位は千分の一を表す「‰」(パーミル)だ。千通ほどの応募から選ばれなければならない。


 よしんば実力に幸運がうまいこと絡み付いて、受賞し、トントン拍子に書籍化されたとする。しかし金になるまでの時間も、また長すぎる。月末の家賃やその日の食費になど、到底間に合わない。


 だから依本は、零落してから、いつもアルバイトやパートの募集に足を止めた。履歴書を適当に埋めて店に渡し、拘束時間の代償になんとか生活していけるだけの金を月末に受け取る。新人賞を取る前、工場勤めのときもそうだったが、当然面白味のない仕事とすぎ去っていく時間に、日々の鬱憤は溜まっていく。しかしその代わりに、生活の不安からは確実に逃れられる。毎月計算どおり、金が入ってくるからだ。彼は貼り紙の前で立ち止まるたびに葛藤した。


 実際依本は、ここ1ヶ月の間に2枚履歴書を書いていた。いよいよ日銭にもこと欠いてきたからだ。しかし結局、提出することなく破り捨ててしまった。もしここで安直に金を稼いでしまったら、もう完全に書けなくなってしまうだろう。そんな直感が、最後の一押しをさせなかった。


 もう、受賞前の力が発揮できるようには思えなかった。作家になる前の依本は、疲れを凌駕する力があった。工場で働いてくたくたに疲れて帰宅しても、単純な肉体労働だけで一日を終わらせてなるものかと机に向かえた。時々うつらうつらしながらでも、書き進めることができた。工場でのルーティンワークへの鬱憤がまずあり、さらに、ここでやらなかったら一生このままだという危機感があった。それが動機となり、動機を燃料として取り組めた。


 もちろん燃料がいくらあったところで、頭が動くわけではない。なにより当時は、書ける能力があったのだ。鬱憤や危機感はあるに越したことはないが、書き上げるための最重要項目ではない。


 あの当時は、自分自身が読み返してもおもしろいと感じられるくらいのものを、頭から搾り出せた。だから眠気や疲れに負かされずに、書き連ねていけた。


 受賞して作家になってからは、どうしても言葉が頭から出てこなくなった。だから疲れたり酔ったりしたら最後、もう机に向かう気すら起こらなくなった。それも勤め人時代とは比べるべくもないほど、軽い疲れや酔いだというのに。こんな状態だった。だから、たとえ数時間のアルバイトであっても働きだしてしまったら、もう書くことへの気力が完全に断ち切られるだろうと、心を揺らしながらもストップをかけていたのだ。


 日銭なんか入ってしまえば、不安が薄まり、いいやいいや明日で、いいやいいや今度の休みで、などと流されていくに違いない。


 もちろん、アルバイトをしなくたって書けないのであれば同じこと、という考え方もある。どうせ書けないのなら、しばらく働いて金銭的に余裕を持つという策も考えられる。しかしそれでも、人間、一縷の希望というものは捨てられないものだ。明日いきなり書けるかもしれない、依頼が来るかもしれない、という僥倖を待つ気持ちを捨てられずにいた。


 そういった諸々から、金の不安を抱えながらも履歴書をビリビリと破いたのだった。


 アパートに戻った依本は、すぐにパソコンを開き、メモを打ち出し始めた。


 なんだか風が変わったなと思った。あの内田のおかげで。しかし頭の隅で、もしかしたらあの女のおかげかな、と、すれ違った女を思い出した。あの女に会うと、ペンが進む。なんだか女神っぽいなぁ、と。その、あまりの根拠のなさに、依本はカクンと首を垂れて、殺風景な6畳間でひとり、苦笑した。

 

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