第2章 書けない小説家(3)

≪影なき小説家ペイパーバック・ライター

 

 

「内田、かぁ」


 依本のちょっと大きめの呟きに、店のオヤジが怪訝そうに顔を向けた。


「いやゴメン、昨日来た編集者のこと。なんか変わった男だったからさ」


「じゃヨリさんは変わってねぇのかよ」


「まぁな、人のこと言えないよな」


 オヤジの返しに依本は苦笑した。


 それにしても、現れた編集者の内田は、なんともいえない雰囲気を持つ男だった。


 一昨日の夕方、いきなり電話があった。もっとも電話というものはいきなり以外にあるものではない。しかし途絶えていた依頼がひょっこり入ると、それがとんでもなく突然に感じてしまうものだ。電話をかけてきた内田は、原稿の依頼をしたいので会えないかと言った。お宅まで出向くのは一向に構わないという。


 依本のアパートは駅から15分、しかも六畳一間ときている。不便なうえに殺風景。どういう話なのか見当がつかないが、久方ぶりに入った大手出版社の編集者との打ち合わせに、まさか冴えない自宅にまで足を運ばせるわけにもいかない。いくらモノゴトに頓着しない依本でも、これは考えもしなかった。しかし内田の方が、ぜひお宅まで伺うと言い張る。大手出版社の担当になど強く逆らえるはずもなく、依本は首を捻りながらも了承した。


 そして、その翌日、約束のきっちり五分前に依本の部屋を訪れた。それから1時間ちょっと、淡々とした口調で仕事の説明をしていった。依本はその奇妙な依頼に最初は唖然として言葉を失った。後半は気を取り戻して言葉を発する数も増えていったが、話の進行は終始内田のペースだった。


 内田は最初、依本の著作を読んで依頼を決めたと説明したが、これは額面どおり取りづらかった。依頼内容がその説明と矛盾するからだ。注文原稿と依本の作風に、とても接点は見当たらない。


 依本のデビュー作は勤めていた工場の日々を描いた小説で、事件も何も起こらない地味な話だった。ベテラン作家から、君はすぐに消えるだろうと面と向かって言われたこともあるほど華のないもので、物語は淡々と進んで尻切れトンボ的に終わっていく。同時期に同種の書き手がいない幸運に恵まれて作家になれたようなもので、よくこんな話に対して世間は興味を持ってくれたもんだと、自分自身でさえ思わずにいられなかった。


 依本は自己分析するに、時代にも助けられたという意識を持っていた。ひと昔前、華やかなものや衝撃のあるもの、話題性たっぷりなものに関心が集中していた頃だったら見向きもされなかったはずなのだ。


 しかし今や日本では時代が変わり、なんの特徴もないものにも人々は興味を持つ。いや、むしろそんなものの方にこそ、強く関心を示すと言っていいかもしれない。たとえば、ド派手な外国のアクション映画に圧されて見るも無残だった日本映画は、今でも地味で日常的な作品を作っているにも関わらずヒットを飛ばしている。今の鉄道ブームは往年のブーム時に花形だった寝台列車や特急、SLなどではなく、日々使っている通勤電車やローカル線に光が当てられている。何系や何型など、往時であれば話の端にしかのぼらなかった、些細といえるようなものが、今ではむしろ主流だ。


 プロ野球にもJリーグにも国民的なチームというものがなく、ファンはバラバラに散っている。それに引っ張られるように、テレビやメディアの扱いもすべてのチームに均等だ。巨人戦しか放映されなかった昭和の時代では考えられない、有名選手の散らばりようだ。また、市民チームや学生、女子のそれにまで、ファンが付いているという具合だった。


 豪華なものや頂点に君臨するものにそっぽを向けば、以前なら、世間から変わり者扱いされ、ときには白い目が向けられることもあった。しかし今や、それが逆の状況。豪華も頂点も俗っぽいと敬遠される。手垢の付いていないものを求め、こんなものがと驚くような事物にまでマニアが存在する。特殊が特殊じゃなくなった時代。そんな世の中の背景が、依本の無粋な小説にちょうど追い風となった。


 もちろん一部のファンしか付かない作風なので、大ヒットとなることはない。ある程度売れるだけ。だからなのか、落ちぶれた今となっても、ぽつりぽつりと印税が入ってくる。


 依本は自身の作風から、もしも依頼が舞い込んだとしても、手放しで書かせてくれることなど期待していなかった。必ずなにかしら、先方から指定があると思っていた。そう思ってはいたが、ここまで変わった依頼が来るとは想像すらできなかった。出版社はとんでもない指示をしてきたのだ。とにかく仕事が欲しかったので二つ返事で受けてしまったのだが、果たして依頼者の意向に添えることができるのか、依本は無責任にも半信半疑だった。


 しかし今さら思い悩んでも仕方がない。もう、書くしかないのだ。とりあえずは無収入の状態から脱却しただけでも万々歳だ。昨日までは絶望感が体の中に染み入っていたが、それから解放されたせいか全身がほぐれた感じだ。完成してもいない原稿の前払い金で気が楽になるのも考えものだが、一応は資料として内田から預かった三冊はすべて読み終え、原稿も50枚ほどは進んでいる。たった一日で50枚だから悪くはない。いや、むしろ快調だと言えるだろう。


 なによりプロットが頭の中で組み立てられているのが、気持ちを楽にしている。この組み立てができていると、途中で筆が動かなくなる率がぐっと減る。


 落ちぶれた期間がほどよい充電期間となったようで、書いていくことが純粋に楽しく、デビュー前の量産していた頃と同じようなペースで入っていけた。先のことなど分からないが、感覚としては順調に書き進めていけそうだ。まあまあ安心できる状況だと判断し、それで「大葉」に来てしまったのだ。


 この日はちゃんと抑制でき、ホッピーのナカは3杯までの注文で抑えられた。それを干したところで、少し意外そうな顔のオヤジを背に店を出た。

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