第2章 書けない小説家(2)
≪影なき
レトロだなぁと自身でも思いながら、ボールペンをメモ帳に走らす。今でも手書きなのかと、驚かれ、からかわれる。その都度、バッテリーの心配がないからね、などと適当に言って、笑って受け流していた。
なんとなく、一杯入っていると、文字がうまくなったように感じる。
小説を書き始めるときというのは、眠くないときに眠ろうとする行為によく似ている。依本はいつもそう思っている。
たとえば長々と昼寝をしてしまった日曜の夜。翌日の出勤に向けて、眠気もないのに寝床に入らなくてはならない。まさか勤め人であれば、日曜深夜に用もないのにだらだらと起きているなんてできっこない。無理にでも睡眠を取らなくてはならないというものだ。しかし電気を消して真っ暗にしたって目が冴えてしまっている。目は瞑ろうとしても勝手に開いて、暗闇をぼんやり見つめる。そのうち目が慣れて天井の模様がしっかり見えたりもする。これじゃ明日は眠たくてたいへんだと思って意識的に目を瞑るが、焦るほどに目が冴えてきてしまう。
しかしそれでも暗闇で横になっているので、時おりうつらうつらしてくる。レモンを絞っただけのお手製のレモン水のような薄い眠りに、ふっと入っていくのだ。そのタイミングをパッと捉えて眠りの世界に入りこめれば、けっこうぐっすり眠れてしまう。しかしそこでつかみ損ねると、これはもう目が冴えた状態が延々続いてしまうことになる。
書き物も似ている。書こうと思ってもついだらだらしてしまう。本を読んだりテレビを観てしまったり……。しかし書かなきゃ、書こう、そんな一瞬が時おりおとずれ、それをつかまえるとうまく10ページ、20ページと書き連ねていける。つかまえられないと、その日はまったく書かずに終わったりする。
もっともこれは、自分だけにしか当てはまらない比喩かな、と依本は思っている。もっと才能のあるヤツは徹夜明けの人間のようではないかと。徹夜したあとは、明るくたって騒音が激しくたって一瞬で眠ってしまえる。場所を選ばないのだ。それと同じように才気溢れる小説家というものは、電車の中でだってメモ帳に書き、スーパーのレジに並んでいる間も携帯電話のメモ欄に打ち込んでいることだろう。
しかし自分にはできない、と依本は思う。疲れているとき、または混んでいる場所、あるいはわずかの空き時間など、集中できないと心の中で匙を投げてしまったときは書けなかった。
「大葉」は今日も盛況だ。席が8割がた埋まっている。依本はビールからホッピーに切り替え、串を数本頼んだ。
カウンターの端で快調に、メモ帳にペンを走らせる。とても気持ちのいい時間だ。
―― 今日はうまく眠りに入り込めたな。
依本は大ぶりのグラスに白と黒のホッピーを均等に足しながら、一つの場面をじっくり書き込んでいく。ホッピーのいいところは、濃い薄いを自分で調節できるところだ。書き物に集中している今晩はホッピーをドボドボ足して、アルコールを極端に薄くしていた。
依本は長編を書くとき、出たとこ勝負で書き始めたことはなく、あらかじめだいたいの展開を考えてから書き始める。そしていつも第2章か第3章から書き始める。第1章は読者を物語に入ってこさせる重要なつかみの部分なので、どうしても気が張ってしまう。そのやる気が空回りしてアイデア倒れになるケースが多かった。だから気楽に書けるところから書いていくことにしていた。第1章から書くこともあるにはあったが、あとで大幅に書き直す。今回すでに書いた五十枚も第1章なので、いずれまったく違う文章になることだろう。
ホッピーの横に、静かに串焼きが置かれる。この気づかいが好きだった。他の店だとなかなかこうはいかない。ひどいところだとメモ帳や筆記具など早くどかせとばかりに、皿やジョッキを持ってうろたえるフリをするところもある。
依本は疲れを感じ、メモを閉じた。たばこに火をつけ、重い頭を首に乗せるように上向き加減に、目を細めて大きく吸った。休息を入れると勢いが失われるおそれがあったが、休み時と感じたのでその感覚に素直に従った。
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