第1章 なじみだった飲み屋『大葉』(3)
≪影なき
何故、環境が整ったのに書けなくなったのか……。
ひとつには、雑誌や本に発表されるとあって、構えてしまったということがある。アマチュアの頃は、雑文だろうが、自身の基準に満たない拙文だろうが、気にせずポンポン出せた。たんなる投稿だからだ。基準点か否かは送った先に判断してもらえばいい話で、ダメならボツになるだけのことだ。悔しさはあっても怖さは感じなかった。
しかし職業作家となってしまえばそうはいかない。書いた物がほぼ確実に世に出るのはうれしいことだが、それが人が読んだときに、愚にも付かない駄文と思われたらどうしようという心配が頭を悩ませる。もしも出したものが、「おもしろい」、「売れる」という2点に、まったく対応できていない文章だったら……。
出版は経済行為だから、当然売れなければ駄作となり、作家は大きなダメージを受けることになる。もちろん手間と費用をかけた出版社だって痛手を被るが、それはたんなる実務面の損失で、気持ちの落胆はない。ところが作家の側にとっては、実務と内面の両方から痛手を被ることになる。
実務の面では、今後の依頼が遠のいてしまう恐怖心だ。この人の作品じゃ売れないから出版や掲載はできませんね、となれば廃業に追い込まれる。
内面の方は、心血を注いだ作品が世間に受け容れられなかったという気落ちだ。書き手としては、自分自身を全否定されたかのような感覚に陥ってしまう。そうなってしまうと、次作に取り組もうなどという気が起こらなくなる。つまりは生産能力がガクンと落ちてしまう、ということだ。
そして困ることに、駄作かどうかという基準が文学的な意味でのそれではなく、売れ行きという意味合いとくる。文才にプラスして商才も必要で、普段から自己の内面ばかり見つめている作家という人種にとっては、とても苦手な分野となる。
そんなことをつらつらと思い、依本は世間に認められるものを、売れるものを書かなくてはいけないと、自身でハードルを上げてしまっていた。書く前から書こうとしているものに辛い点を付け、ボツにし、筆運びをぐっと重くしていた。
書けなくなった理由の一つには、まずそのことがあった。
依本は、でも、思う。書けなくなった根本的な理由は、もう一つのことだと。
グラスを傾けながら、串焼きをつまみながら、ぼんやりと考えているところに、ふと風が舞った。
いや、風など元々舞っているのだ。焼き台から絶えず、肉汁交じりの煙が流れている。
風が舞ったと感じたのは、カウンターの3つ離れた席に座った女の持つ雰囲気だった。
それまでカウンターにはL字型の最奥に老人が1人いるだけだった。端に座っていた依本はだれとも視線がぶつからないのをいいことに、しぜんとカウンターの列に目と体を向けていた。だから、特に目を向けるでもなく、座った女が視界に入った。なんとなく数秒間、じっと見つめてしまった依本だが、女の方は当然ながら前を向いてメニューを見ているので、目が合うことはない。カウンターに向かってなにか伝えたが、店の喧騒で声は聞こえなかった。
しゃれっ気のない「大葉」だが、時流だからか女の一人客もあるにはあった。このご時勢、串焼き屋に女の一人呑みだって驚くことではない。驚くことではないのだが、しかし女は妙に華やかだった。格好が派手だ、というわけではない。むしろ地味だ。灰色が少し入った黒いサマーセーターにジーンズ。肌の露出は少なく、シンプルな衣装に宝飾品は身に付けていない。齢は20代前半に見えるが、しかしアンチエイジング全盛のこの時代、これは分からない。依本は、自分が20代後半に見られないこともあって、見た目に惑わされない方だった。依本の場合はいつも上に見られる。女の場合は逆だろうと依本は思う。髪がショートなので、それだけで5つは若く見えるはずだ。どこといって派手さはまったくない女なのに、華やかな雰囲気を振りまいていた。その派手さを抑えたところが逆に、華やかに見える。
ジョッキを受け取ると同時に串の注文をよどみなくしているあたりは、こういうところに通い慣れている感じがする。しかし細身の体はとても酒浸りには見えないし、煙の立ちこめる串焼き屋に、洗濯できないセーター類を着てくるというのも不自然といえば不自然だ。
依本はホッピーのジョッキを見つめながら詮索していたが、ハッと我に返った。おいおい、そんなこと考えてどうなるっていうんだ。べつに言葉を交わそうとするわけじゃなし、そんなことをしているヒマがあったら1ページでも、資料の本を読めっていうんだ。せっかく仕事にありつけたんだぞ!
依本は自分自身を叱咤して、前に向き直り、視線を資料の小説に戻した。
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