第1章 なじみだった飲み屋『大葉』(2)

≪影なき小説家ペイパーバック・ライター



 初めてこの店に来たのはいつだったか。ぐるっと店内を見回しながら記憶を遡った。


 あれはたしか、作家で食いだしてすぐのことだ。打ち合わせと称して編集者と呑んだあと、地元に戻ってもう一軒呑もうと、ふらりと入ったのがきっかけだった。もう何年も前なのに、しっかり記憶があった。


 なんとなく波長が合う店だなぁと感じ、なじみにした。不思議と、ここで本を読むとスッと頭に入っていった。


「はい、お待ちぃ」


 『ナカ』、つまりは焼酎が3分の1ほど入った大きめのグラスと、『ソト』が置かれる。『ソト』とはホッピーの瓶だ。


 ホッピーの瓶は、白ホッピーと黒ホッピー1本ずつ。これを右手と左手で持ち、焼酎のグラスに均等に入れて白黒合わせたパンダにするのが依本の好みだ。数ヶ月ぶりなのに好みを忘れないでいてくれたことがうれしかった。濃くならないように、大ぶりのグラスに溢れる寸前まで『ソト』を入れた。


 マドラーで静かにかき回してから、顔を近づけてすするように呑む。少し減ってから、グラスを持ち上げて呑んだ。薄いアルコールに物足りなさを感じると同時に、これでいいのだとも思う。


 以前はこんなゆるい呑み方などせず、『ソト』は『ナカ』と同じ程度の量しか入れなかった。当然アルコール分は濃い。それでグラスを干せば、『ナカ』だけをおかわりして残りの『ソト』を入れる。あの頃はなんであんな激しい呑み方をしていたのだろう。思い返すと不思議に感じる。


 毎日毎日酒浸りだった。文章で、本で金を稼いでいるんだぞという思い上がった気持ちも少しはあったに違いない。当然ないとは言えないが、と依本は思う。しかし思い上がりよりも追い込まれた気持ちの方が強く、机に向かうのを避けるために酒場にいたというのが本当のところだ。


 机に向かい、あるいはパソコンのキーボードの前に向かい、文章を脳みそから搾り出してゆく。その、作家として本来やらなければならない基本の仕事に向かうのが、イヤだった。なぜイヤだったのかというと、文章が頭から出てこなかったからだ。だから文章を書く以外に最も前向きな行為である、資料を読むということに逃げたのだ。この酒場に、次回作と目論んでいるものに関連する内容の本を持ち込み、酒を呑みながら読み耽る。それが、筆の鈍った作家が取れる唯一の、手ごたえの感じられる行為だった。


 しかし前向きな行為とはいっても、読むのと書くのとでは天と地ほどの開きがある。読むだけならどんな者にだって、どんな時にだってできてしまう。電車の中でだってバスの中でだって、寝る前のいっときだって。それが書くとなるとそうはいかない。書ける人間が、書ける状況を作り出して、そこで集中力を高めて、書き、初めて万人に見せられる文章を作り出せることになる。


 依本も当然、読むのと書くのとが違うことくらい分かっていた。分かってはいたが、どうしてもあの時期、頭から言葉が出てこなかった。だから一日また一日と自分をごまかしていた。資料を読んでから書こう、現地を見てから書こう、取材をしてから書こう、などと……。


 それが結局は宴作ということになり、潮が引いていくように依頼が減っていった。


 友人の作家は、プロになってから、無名時代よりもたくさん書けるようになったと言う。読まれるということが励みになり、机に向かうモチベーションが上がったというのだ。無名時代は、どうせ書き上げたところで誰からも読まれないという空虚感で、書く気が起こらないことがままあったということだ。


 依本はその言葉に、自分の才能のなさを思い知った。依本自身がその友人と同じ気持ちだったからだ。人目に触れる可能性などほとんどないのに300枚、400枚といった原稿を書き上げる。多大な労力をドブに捨てているような気持ちをどれほど感じたことか。そして書いているとき、書き上げたとき、いつも思った。もし自分がプロの作家で、人の目に触れることが確定している状況での執筆だったとしたら、この10倍も20倍も気分よく書けるだろうと。


 しかし意外にも現実は違っていた。彼はプロになる前よりもプロになってからの方が、執筆量が落ちてしまった。


 なぜだろうと、不思議で仕方なかった。気持ちだけは高揚しているのに、何故か、一向にページが埋まっていかない。


 無名時代にあこがれた、業界関係者との呑みの場にかまけたからというわけではなかった。いや、もちろんその影響もないわけではない。しかし受賞したばかりの、ベストセラーも持たない作家にさほどの誘いがあるわけない。それに、呑みに費やす時間なら、勤め人時代の方がよっぽど多いのだ。帰りに誘われればまず断わらなかったし、そのうえ勤務時間にも執筆を妨げられていた。それでも、けっこうな量を書いていた。


 つまりは、書く量が落ちたのは時間の問題でなかったということだ。


 それでは、なんなのか……。

 

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