影なき小説家(ペイパーバック・ライター)

勒野 宇流 (ろくの うる)

第1話 なじみだった飲み屋『大葉』(1)

≪影なき小説家ペイパーバック・ライター



 駅で編集者と別れた依本は、馴染みにしていた「大葉」の暖簾をくぐった。


「いらっしゃ……、なぁんだ、ヨリさんか」


「なんだはないだろ。客だぜ、おれは」


 オヤジの迷惑顔も気にせず、つかつかと入っていってカウンターの端の椅子に座った。


「生ちょうだい」


 依本は仕込みのアルバイトに声をかけた。アルバイトはオヤジの顔を見て、オヤジがしかめ面ながらも頷いたのを確認してからジョッキを取った。


「ヨリさんよぉ、まだ開店時間前だぜ。それにさ、ツケだって忘れてないでしょうね」


「そのツケを払いに来たんだよ。しばらく空けちゃってスミマセンでした、ホント。だからさ、まぁ五分くらいのフライングは大目に見てくれよ」


 そう言って依本は大ジョッキの泡に口をつけた。


「そうか。てぇことは、ヨリさん仕事入ったの?」


「うん、ちょっとしたやつだけどね。依頼が来て前払い金も入ったからさ」


「ふぅん。やっぱりヨリさんは才能あんだなぁ。あんな呑んだくれてても、仕事が向こうからやってくんだからよ。おれ実は、ヨリさんもうダメだと思ってたよ」


 依本はオヤジの、褒めているのかけなしているのか分らない言葉を受け流して、前に向きなおってジョッキに口を付けた。


 才能かぁ、と依本はボソッと呟く。もしちゃんと才能があったとしたら、新人賞を取った後も次々と作品を生み出して、ジリ貧になることはなかったはずだ。この数年間で自分に突出した才能がないことは、充分に思い知らされていた。


 開店時間になり、店内に薄く音楽が流れる。演歌のような民謡のような。まるでそれを合図のようにサラリーマンの3人組が入って来て、汗を拭きながら大ジョッキを頼んだ。


 もう一組入ってきて店内が活気付いたのをタイミングよしと見て、依本は串焼きを数本注文した。


「他に焼き物の注文が入ったとき、一緒でいいからね。それと生おかわり」


 空のジョッキを持ち上げながら焼き場に入っているオヤジに言い、2本目のたばこに火をつける。ふうっと吐き出した煙が、焼き場の煙と混じり合った。


 そして文庫本を読み出す。


 まだ仕事も収入もあった頃、ここには毎日のように顔を出していた。それどころかほとんど実入りがなくなっても居着き、ツケで呑んでいた。その当時、この店では、本を読み耽りながらの一人酒というのが定番だった。


 行きつけだった店に久々に顔を出すというのは、なんとも不思議な感覚だ。全然変わっていないとも感じるし、なんだか以前とずいぶん違ってしまったようにも映る。自分の持っていたイメージと現況が、うまくかみ合ってくれない。


 フワフワした気分のまま、依本はひとり、時間をすごす。酒とつまみの注文をするときに軽口を交わすくらいで、あとはじっと自分だけの時間を味わっていた。いい感じに放っておいてくれるところが好きで、この店に居ついたのだ。


 客が増えて店はさらに賑わう。そんな中、じっと集中してページを繰っている。本の虫が高じたからこそ曲がりなりにも小説家になれたわけだから、気に入った本であれば、いつでもどこでもじっくり読み続けることができる。一気に1冊読んでしまうことだって珍しくない。


 しかし今読んでいる本は、自分の選んだ本ではない。依頼主である編集者が、資料として置いていった本だ。内容がむずかしいわけではないが、興味のあるものではないからなかなか集中が維持できない。依本は途中、何度か顔を上げて本を閉じた。


 それでも邪魔が入らないからか、そこそこのペースでページがめくられていく。2杯目のジョッキを空けた依本は、ホッピーに切り替えた。

 

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