エピローグ

 西野新一から後日、里美を連れて警察署に自首すると、小日向陽介のもとへ連絡があった。

 新一は里美を連れて里美の実家へ赴き、事情を説明したという。

 里美を実家に預け、自身の実家にはひとりで赴き、両親に説明したということだ。

 細かくは聞かなかったが、新一の実家ではかなり大きな騒動となったらしい。

 新一自身、もう二度と両親と顔を合わせることはないだろうと言っていた。

 陽介は新一から自首の一報を受けたとき、自分も付き添いたいと言った。言った直後に、もはや二人の問題に関わるべきではないと後悔したが、新一は陽介の申し出を受けた。但し、二人の前には現れず、陰から見守っていてくれということだった。

 陽介は出頭の日時を聞き、その時間に合わせて警察署の向かいの路上で、目立たぬように待つことにしたのだ。

 事前に聞いていた時間より二十分が過ぎたときだった。

 警察署の車寄せにタクシーが一台入っていった。

 まず新一がタクシーから姿を現した。

 新一が気遣うように車内を屈み見ていると、やがて里美が姿を現した。

 相変わらず血色は悪かったが、里美の表情からは神経質な陰気さが消え去っているように見えた。自己嫌悪や罪悪感、迷い、そんな行き場のなかった負の感情を、償いというひとつの方向に向ける決心ができたのだろうか。

 タクシーが去った後も、二人はしばらくその場に立っていた。

 うなだれる里美の肩を抱く新一は、なにか語りかけているようであり、里美は肩を震わせて泣いているようであった。

 やがて二人は、エントランスに向かってゆっくりと歩きだし、警察署の中に消えた。

 二人が消えた瞬間、陽介は唐突に胸の中でなにかが勢いよく膨らむのを感じた。

 それは喉からせり上がってきたが、あまりにも大きかったためか、喉につかえて出てこなかった。

 一瞬送れて感情が追いつき、喉につかえたものが嗚咽であることに気付いた。

――もう、戻れないんだな……

 陽介の脳裏には、中学生時代の三人の記憶が蘇っていた。

「過去は等しく、戻れないものよ」

 不意に背後から綾幻の声がしたので、陽介は驚いて身体ごと振り返った。

「な、なんでここに」

 そこに、パンツスーツ姿の綾幻が立っていた。

「西野さんから今日のことについて連絡があったの」

 陽介は少し後退って、綾幻から距離を置いた。

「わたしは聞いていないわよ。言ったでしょ、近くであまり強く思うと、素でも聞こえちゃうって」

「迷惑な能力だなあ」

 陽介は極力無感情を装って言った。

 綾幻は微笑んだ。里美に見せたのと同じ、あのやさしさを感じさせる微笑であった。

「かつての幸せに戻れないんじゃない。過去が幸福でも不幸でも、あるいは平凡で変化のない過去であったとしても、戻れることなんてない。なにひとつないの。あなたのそれは、ただの感傷よ」

「ドライだなあ」

 陽介は再び警察署のエントランスに目を向けた。だがその視線はもっと遠くを見ていた。「里美とは幼なじみでね。新一とも中学生以来の付き合いなんだ。あの二人のことはよく知っている。元には戻らないとしても、新一ならきっと里美をあのまま見捨てるようなまねはしないだろう」

「……という、願望ね、あなたの」

「きびしいなあ」

「現実よ」

 陽介はため息をついた。

「現実ね。除霊屋のきみが言うのも可笑しいな」

「そうかしら」

 綾幻は歩き出した。

 陽介はその背中をただ見送っていたが、我に返ったようにして声を投げかけた。

「いつか科学で解明できる日がくるのかな」

「なにが?」

「きみたちの能力」

「興味ないわね」

「どうして」

「天文学も物理学も知らなくたって、夜の次は朝がくることをわたしは知っている。それだけ知っていれば、また一日を始めることができる」

 綾幻はさっさと歩いてゆき、立ち止まる気配がない。

 陽介は迷い、迷いながらも追うことに決めた。足早に綾幻に追いつき、その背中に話しかける。

「ところで、あのあやとりはなに?」

「非、科学よ」

 綾幻の言葉は、とことんそっけない。だが不機嫌、というわけではなさそうだった。

 陽介は次の言葉が繋がらずに再び困惑したが、すぐにどうでもいいと考えるようになった。

 陽介の思い込みかもしれないが、二人の間には悪くない空気が流れていたのだ。

 立ち去る背中だって、よくよく考えれば自分を誘っているようであったし、いまだってまるで恋人同士が散歩を楽しんでいるようだ。

――まあ、やたらと早足なんだけどね……

 陽介は大またにゆっくりと足を運んで綾幻についていった。右やや後方から、歩く綾幻の後姿を眺める。

「興味あるなあ。聞かせてよ」

「歩きながらの雑談で、意味のある説明ができるとは思えないわ」

「じゃあ、お茶でも飲みながら」

 綾幻は足を止めず、少しだけ顔をこちらに向けて陽介をいちべつすると、口を開いた。

「東洋の護符に、記号のようなものが書かれているのを見たことはあるでしょ? 西洋魔術にもシジルという記号がある。あれはいわば回路図で、それを三次元化したものが手印。魔術のサインと陰陽道の九字が有名かしらね。私は個人的に書家石川九楊の書に非常に興味をひかれているわ」

 よく舌が回ると思うような、とんでもない早口だ。「だから洋の東西を問わず神や仏に祈るとき手を合わせたり指を組んだり、体のどこかに触れたりするのにはちゃんと意味があるのよ。気を流す回路を作ってやっているの。回路に気を流すと、ちょっとだけ不思議な能力を使えるようになるの」

「あ、いや……」

「鍼灸のつぼと同じで正確さは必要だし、だれでもできるわけじゃないからそれはやがて形骸化してしまった。それを復活、発展させようとしているのがわたしたちの流派。より複雑な回路を作るのに必要なのが、あのあやとりという……」

「ちょちょちょ、そんなにぼくとお茶したくない!?」

 陽介はとうとう強引に割り込んでしまった。

 早足で歩きながら早口でまくし立てた綾幻は小さく笑って歩き続ける。

 陽介は眉根を上げて肩をすくめた。

 綾幻の後頭部の、結い上げるというよりは緩くくるりとまとめたシニョンに無意識に視線をやりながら、陽介はここ最近ずっと考え続けてきたある一つの事柄に思いをめぐらせた。

 それについて考えると、まるで冒険前夜の少年のように、高揚感で胸が踊るようだった。

 我ながら楽観的だとは思うが、希望とか夢とか、明るく暖かな未来が待っているような気がして、それを思い描くだけで、幸福感に包まれるのだ。

 しかしその妄想は、ため息とも自嘲ともつかない綾幻の短く吐いた息の音でさえぎられた。

「ひとが求めるのは心が通うほど理解しあえる相手よ。本当に心が読めてしまえば、いっときたりとも一緒にいたくはなくなる。自分が読まれる立場ならなおさら。そうじゃない?」

 陽介は後悔した。また心の声を聞かれてしまったのだ。

 正直に言って、陽介は綾幻に惹かれてしまっている。綾幻と親密になる未来を想像して胸を高鳴らせている。

 だが綾幻は最初のため息で「聞こえてしまう」ということを陽介に再確認させた上で、その幸福な未来は幻なのだと、後に続けた言葉で警告しているのだろう。しかし本当のところは違うと陽介は思った。

「わたしと親しくなるには覚悟が必要よ」

「そうやって、自分から距離をとっているんだ」

「なにが言いたいの?」

 おそらく綾幻のような能力者は人を傷つけることより、その逆の方が多いだろう。相手に心を許せば許すほど、本心を知ってしまったきのダメージは大きいに違いない。

 これまで綾幻が人の好意を素直に受け入れ、繰り返してきたであろう悲劇を想像した。

「ぼ、ぼくの覚悟は問題じゃない。きみが傷つきたくないんだよ」

 陽介にもなにがなんだかわからなくなっていた。ただそこまで言ったら、もはや言いたいことを言い尽くすしかないという感情に追い立てられ、気ばかりが焦りだした。

 ただ、格好よく口が回らない。そこまで器用ではない。歯止めを失った歯車が、がたつきながらも回転を早めていくようなものだった。

 そのとき、綾幻が歩みを止めて振り返った。その目がびっくりしたように丸くなっていた。

 その目を見てさらに焦る。カラオケなら間違いなくサビで高音が出なくなるような高さから声が出た。

「ボ、ボクは……」

 咳払いをして仕切りなおす。「ぼ、ぼくは能力者じゃないから人の心は読めないよ。でも想像することはできる」

 綾幻はキツネにつままれたような表情のままでゆっくり元の方を向き、再び歩きだした。

「き、きみ、ときどきおしゃべりになるよね。自分の住む世界を、ひいては自分自身を理解してもらいたいんじゃないかな。そ、それにホントはきみ、すっごく人懐っこいんじゃないかな。でも、怖いんだ、人と近くなるのが。だから、そうやって意識して無愛想をつくろっている」

 それだけのことを一気にまくし立てたわけではない。たどたどしいながらもゆっくりと、ひとつひとつのセンテンスが伝わるように話した。

 陽介の語りかけにつられるように、綾幻の歩みが徐々に緩やかになっていった。

 陽介はあらためた口ぶりで言った。少し落ち着きを取り戻していた。

「人は人に傷つけられると、臆病になるよね。どうしてかな?」

 しばらく待ったが答えが返ってこなかったので、陽介はさらに続けた。

「傷ついても、また人に惹かれてしまうことを、知っているからなんじゃないかな」

 その言葉を聞いて、綾幻がぱたり、と歩みを止めた。

 少しの間、ただ立ち止まっていた綾幻は、やがて小さく肩を震わせ始めた。みるみる耳が赤く染まっていった。

「綾幻さん?」

 陽介は再び一気に狼狽した。どうしていいかわからず、おろおろとするありさまだった。

「綾幻さん?」

 陽介はもう一度呼びかけながら、綾幻の前に回り、その顔を覗き込む。

 綾幻が両手を口に当てた。

「ぷっ!」

「ぷ?」

 陽介が事態を飲み込むより速く、綾幻が突然笑い出した。どうやら笑いを堪えていたらしい。

「けだし名言だわね」

 綾幻はまだ笑いながら言った。今日まで綾幻が見せたことのない質の表情だった。底抜けに明るく、屈託のない笑顔だった。

 陽介はその笑顔に感動を覚えつつも若干心外になり、口を尖らせた。

 綾幻はひらひらと手を振った。

「ごめんなさい、ばかにしているわけではないのよ」

 再び綾幻は歩き出した。今度の歩みはゆっくりとしたものだった。後ろ手に組んで、それこそ景色を楽しみながら散策するように。

 そしてなにかを思い出したように、また笑いだした。

「なにか深読みしたみたいだけど、本当にわたしはあなたを心配しているのよ。わたしといれば、あなたはきっと傷つく。いずれ耐えられなくなる」

「どういうこと?」

「あまり近くで強く思ったり、思いつめたりすると聞こえてしまうといったでしょ?」

「うん」

「でもその強さ、深刻さというのは、思い余って人を殺めてしまうほどの激情をすんでの所で押さえ込んだり、それこそ人生に行き詰まって今日死のうかどうかくらい悩んだりしている、いわば心の叫びが聞こえてしまうということよ」

 綾幻はそこまで言って振り返り、また立ち止まった。「でもあなた、これまでの人生で心が叫んだことある?」

「いや……どうかな」

 心が叫ぶ。見かけないこともない陳腐な表現だ。しかしそれが実際どういうものか、自分がかつて経験したことがあるかと問われれば、即答できない。

「あなただけじゃない。ひとの心は、そうそう叫ばない。だからそうそう聞こえない。普通はね」

「よくわからないんだけど、それって極端な話、ぼくの場合、ほんのちょっと集中しただけでその思考が外に漏れちゃうってこと?」

 綾幻は頷いた。

「マジか……」

 綾幻はくすりと笑って再び歩き出した。

「人の醜い内心が垣間見えたり、自分に向けられた隠された悪意が意図せず聞こえてしまったり、私が能力のせいでしょっちゅうそんな経験をして傷ついてきた、みたいな想像していたんでしょ?」

「うん、まあ……」

「そんなに深刻な問題じゃないの。人間関係に支障が出るほどじゃない。でも心配してくれてありがとうね」

 完全に口説きにいったのだが、あしらわれたようだ。

 空回りしていた歯車が盛大に車軸から外れて吹っ飛んでいった気分だった。

 口説きのネタが勘違いでは、なんともしまりが悪い。

「漏れるといっても、さすがに普通の人には聞こえたりしないわよ」

 綾幻は気遣うように言った。思考が漏れやすいという事実は確かにショックではあるが、いま落ち込んでいる理由はそこではない。しかし綾幻はかまわず続けた。

「でも、たとえばだれかの後ろ姿に何気なく目をやった瞬間、その人が振り返って目が合った、なんて経験、多くない?」

 そんな経験はしょっちゅうだった。他人のそういった話をまれに聞くことはあるが、あるあるネタのつもりで会話に乗っかると、微妙に退かれる程度には高頻度で経験している。

「すこし勘が良い人なら、自分に向けられた意識をざわつきとして感じることがある。それを気配というの。ざわつきとしてではなく、明確な意図が感じ取れる場合もある。殺気なんていうでしょ? あれは殺意の気配というわけね。あなたの場合、思考がオープンなのかも。人の思考は独り暮らしのトイレに例えるとわかりやすいわ」

 綾幻はそう前置きして少しだけ説明してくれた。

 たいていの人はトイレの扉も玄関の扉も閉めて用を足す。中にはトイレの扉を開けて用を足す人もいるだろうが、陽介の場合はトイレも玄関も扉を開けっ放しなのだという。

 能力者は玄関の外にいても、ちょっと耳を澄ませば陽介のトイレの独り言が聞こえてしまうというわけだ。

「わたしたちは段階を追って心を読むの。まずは玄関を開けて中に入ってみる。さらに必要なら、トイレのドアも開ける。ただわたしたちの侵入に抵抗を感じて、追い出した上で鍵をかけるひともいるわね……どうしたの?」

 綾幻が陽介の様子に気付いて話を中断した。

 陽介は力なく首を振った。

 ショックだった。たしかに口説き損ねたのはショックではあった。

 しかし希望も湧いてきた。綾幻は自分で言っていたではないか。「耳を澄ませば~聞こえてしまう」と。

 綾幻はたわいもない陽介の考えが聞こえてしまうほど、陽介を意識していたのではないか。

 陽介はそう解釈した。

「その話、詳しく聞きたいなあ。やっぱりどこかに寄って行かない?」

 綾幻は陽介の言葉を聞いて、あきれたというように眉をハの字にして小さく笑った。

「タフね」

 数歩、歩く。「いいわよ。あんみつくらいならおごられてあげる」

 陽介も微笑んだ。

「それと、本当はおしゃべりっていうのは当たっているしね。安く見られるからなるべく無口を装っているけど。でも幻術士には必要なスキルでもあるのよ」

「へえ」

 そして綾幻は歩きながら振り返り、こう言ったのだった。

「それにしても、その情熱をこんなオバサンじゃなくて、ほかのもっと若い子に注いだらいいのに」

「えっ?」

 陽介が言葉の意味がわからずに混乱するようすを見て、綾幻はいたずらな笑みを見せた。

 普段、貫禄めいた落ち着きのある物腰の綾幻であったが、多く見積もってもせいぜい陽介と同い年程度だろう。純粋に外見だけでいえば二十歳そこそこでも通用するほどなのだ。

 その程度の年齢を自虐的絶対評価で「オバサン」ということはあるかもしれないが、綾幻の「オバサン」は相対評価のニュアンスだった。つまり陽介よりも年上、しかも「オバサン」と自称するほど年が離れている、とでも言いたげだ。

 年下ということはあっても年上ということはまずありえない容姿なのだが……

「えっ?」

 綾幻の秘密はまだまだ多そうだった。


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幻術士 除霊屋綾幻 藪住 @yabusuma

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