8

 数日後、小日向陽介、西野新一、綾幻の三人は、新一のマンションの一室に集まっていた。里美は実家に帰してある。

 大地が転落したベランダに面したリビングが、今日の術式の場所となる。部屋の調度はすべてどこかにやられていた。

 別室を借りて着替えた綾幻がリビングに姿を現した。先日と同じで腰に赤い組紐を提げた白装束であったが、それ以外の小道具は一切なかった。

 綾幻は二人の目の前に正座すると、じっと陽介の目を見た。

「あ、ああ。ぼくは席をはずすよ」

 陽介は腰を浮かしたが、新一がそれを引き止めた。

「いてくれ」

「いや、しかし……」

「陽介」

 新一は静かに続けた。「おれはこれを、おまえの目の前で乗り越えなくちゃいけないんだ」

 陽介は無意識に眉根を寄せるほんの一瞬だけ、その言葉の意味を考えなければならなかった。その意味に思い至ると、陽介は思わず場違いな声を上げてしまった。

「おまえ、ばかだな、まさかそんなこと気にしているのか」

 陽介は本気であきれた。

 高校時代のある日の出来事が、そして新一たちの結婚式当日の出来事が、同時に、また鮮明に陽介の脳裏に蘇った。その記憶の両方で新一は同じことを言っていた。「必ず里美を幸せにする」と。

――ああ、そうだ。あのときおれは笑って言ってやったんだ。「おれに言うなよ」って……

 陽介はなぜだか無性に照れくさくなって、赤面してしまうのを感じた。

 新一が綾幻に向き直った。

「こいつは、ここにいていいんです」

 綾幻が新一の目を見、ただ頷いた。

「それでは西野さん。あなたの意思を確認する前に、いままでのことをご説明する必要があります。それには、わたしの仕事の正確な内容も知らなければならないでしょう」

「なんでしょう?」

「わたしの仕事は、いわゆる霊障を解いたり、霊自体を除霊したりすることですが、わたし自身は霊の存在に懐疑的です。わたしの解釈では、霊とは空間に刻まれた情報です」

「情報?」

「空間が、ちいさな矢印の集まりでできていると考えてください。記録メディアがNとSや、ONとOFFで情報を構成するように、空間はその矢印の向きで情報を、ときに“記録してしまう”のではないかと考えています」

「それはエーテルみたいなものなの?」

 陽介はつい口をはさんだ。そのうえ、まず本来なら知識の共有を確認しておかなければならない程度には特殊な用語をいきなり使ってしまった。

「さあ、どうかしらね。もしエーテルだとしたら、それはアリストテレス的でもあり、デカルト的でもありそうね。物質は常にその中を移動しているはずなのに、それは少なくとも見かけ上その場を動かない。夜眠るときあなたの目の前にあったそれは、翌朝目が覚めた時もあなたの目の前にある。六時間前に地球があった宇宙空間にではなくね」

 ところが陽介が気を遣うまでもなく、逆に想像していたよりも理解しがたい答えが返ってきたので、とりあえず頷いておいた。

「すべて説明しようとすれば一晩かかるでしょうし、わたしの経験だけに基づいたなんの根拠もない想像ですから、あまり価値のある説明ではありません。そのうえで非常におおざっぱに言えば、脳内で起こっている電気的な瞬きは、場の矢印の向きとしてコピーされるのです。本来、矢印の変化はすぐに元に戻るけれど、強い光が長く残像となるように、強い思考の影響はより長く続く。雷の化石……閃電岩をご存知でしょうか。珪砂の豊富な土地に落雷したとき、地中を走った稲妻が砂を高熱で溶かして、稲妻のかたちそのままのガラス細工を形成することがあります。固定された矢印は思考の化石のように、空間に埋もれているのです」

 もしそれが本当であれば、その思考の化石も稲妻のような形をしているに違いない。陽介は、枝分かれして互いにつながる脳の神経細胞のかたちを思い描いていた。

 しかし、それは現実的だろうか。陽介は疑問を口にする。

「たかが神経細胞の電気信号にそんな力が?」

「閃電岩は、別名雷管石といってね、中空なの。まったくただの偶然だとは思うけれど、中空という構造は非常に暗示的なのよ」

 綾幻はそう言いながらすっと立ち上がり、腰の紐を手に取りながら陽介の背後に回った。

「なに? なに?」

 陽介は座ったまま頭だけ回して綾幻の姿を追っていたが、綾幻が紐で綾取りをしだしたあたりで視界から外れてしまった。

「失礼」

 綾幻の言葉と同時に、こつっと、腰のあたりに軽くなにかがぶつかった。少し考えて、それが綾幻の足の親指であると理解した。

「立ってみて」

「あ、うん」

 陽介は言われるままに立ち上がろうとした。

 立てない。

 立てないどころか、下半身が切り離されたように、なにも感じなくなっていた。

「な、な、なんだこれ?」

「動かせないわよ」

「ええ?」

 陽介はあわてた。身じろぎしようとしてバランスを崩し、その場に転がる。「わわ!」

 いわゆる“沈”したカヌーを必死に起こそうとしているような動作で、上半身だけじたばたする。足は正座の形のままだ。

「たすけて、たすけて」

 綾幻は陽介の背中に手を伸ばすと、先ほど足の親指で突いたあたりより上に指を当て、ちいさく呼気をほとばしらせながらその指ですっと下に向かって払うようなしぐさをした。

「あ、動く」

 陽介はなにごともなかったように動くようになった足を動かしてから、叱られた子供のように座りなおした。

 陽介は同じような目にあった悪漢を二人目撃していたことを思い出していた。

「ひ、ひどいな」

「痛くしないだけましでしょ」

 綾幻は、あっけに取られている新一に向きなおった。

「すべてはオカルトのテーブルでのお話。荒唐無稽と言われても知らない。非科学的だと言われても反論するつもりもない。ただ、普通な状態の電気信号ではないのだと考えています」

「それは?」

 新一が聞いた。

「わかりません。でもたとえばわたしたちのような職業の者は、いわゆる“気”というものを扱います。いま小日向さんに使ったようなものです。“気”は、鍛錬によって肉体的な変化をコントロールし、人体に張り巡らされた神経細胞に、電気信号と同時に別の力を乗せて送っているのだと解釈しています」

「肉体的? 精神的ではなくて?」

 綾幻は頷いた。

「よく誤解されるけれど、“気”のみなもとは精神力ではなく、もっとフィジカルなものです。わたしたちはその“気”で矢印に干渉できます。死に際に矢印を変化させたものが“気”と同じか同質のものであると考える方が自然でしょう。 “気”には、案外神経伝達物質などというものも、関わっているのかもしれません」

「死に直面した人間に、通常とは違うなんらかの肉体的変化があったとして、それは想像できる。“気”がその仕組みを意識的にコントロールしたものだというのも理解するとして、しかし霊体験する多くが日常の場面で、なんの訓練も受けていないような人だが?」

 新一がそう問うた。

「ラジオ放送には大掛かりな設備が必要ですが、受信するだけならば非常に原始的な装置で可能です。電源すらいらない。それと同じです」

「鉱石ラジオのことを言っているようだが、それと同じ?」

「はい。霊の話をすると霊を呼ぶといいますが、あれは呼んでいるのではありません。もとからそこに刻まれていた情報を知覚できるようになったに過ぎない。おそらく、恐怖と連動している伝達物質が関わっているのだと想像しています」

「恐怖ね」

「もしかしたら、人間がもっと野生に近かったころ、同属の誰かが命を落としたような場所に近づかないための能力だったのかもしれません。暗闇や危険な地形に警戒すると、無意識に体内で変化が起こる。そこに断末魔の痕跡が残っていれば、それを知覚できる状態です。そうやってそこが本当に危険な場所であるか感じ取っていた、というのも面白い想像ではないでしょうか」

「ふむ」

「卑近な例では、たとえば子供のころ、人気のなくなった放課後の学校を不気味だと思ったことはありませんか?」

「まあ、その程度なら誰しも経験する気のせいでしょう」

「ああいう場所には半日程度、大勢によってかき乱された場の矢印の乱れが残っています。もはや意味をなさないざわつきですが、それを感じ取ってしまうと、現実には無人の空間に、人の気配を感じて不安になるのです」

「なるほどね。わかるような、わからないような話ですが、話を進めるには、それをもう前提として受け入れるよりなさそうだな」

 新一は言った。賢明だ。「つまり、人が死ぬときの思考は、形となって空間に残っていると。死に至るまでの短い記録。空間に書き残されたそのメッセージに、ある種の人間が交わったとき、脳細胞が干渉し、メッセージを再生させることがある、ということですね」

「おおむね」

 綾幻はそう言って頷いた。もとよりすべてを理解する必要はないということだろう。

「NFCのパッシヴタグのようなものなんだろうか」

 新一が、ひとりごとのようにつぶやいた。

「NFCって、スマホなんかについている非接触なんとかのアレ?」

 陽介のその問いかけに新一がうなずいた。新一は電子部品メーカーに勤めているので、もしかしたらそのような商品も扱っているのかもしれない。

「どういう仕組みで空間に情報が記録されるのか、本当のところはおれにはわからない。ただ、その再生原理はなんとなくわかった気がする。きっと非接触近距離通信技術のパッシヴタグが外からの電波を回路内で整流してエネルギーを得て、メモリーに抱えている情報をリーダーに返すのと同じような仕組みなんだ」

「ははあ」

 やはり陽介にはよくわからなかった。

「そのNFCというものと、痕跡の再生原理に共通点があるかどうかは知りません。ただ、ある種の能力の持ち主は、脳がその痕跡の元となった情報を再生できる。その程度に思っています」

 綾幻が言った。

 新一はしきりに頷いていた。新一の頭の中で、なんとなく理解が始まったようだった。

「再生って、それは頭に浮かぶイメージなの? それとも目に見えてしまうほど……」

 陽介の言葉に綾幻が頷いて言った。

「人によってはね。見える、と認識するのは目ではなく脳だもの」

 新一が、綾幻の言葉を引き取るようにつぶやいた。

「幽霊……の、誕生……か」

「それがいわゆる地縛霊というものです。地縛霊と呼ばれるものはすべてこれだと、基本的には解釈しています」

 綾幻はさらに「語弊を覚悟でざっくり説明すれば」と前置きして続けた。

「思考はニューロンの発火の軌跡として、閃電岩のように空間に埋もれています……」

 ある事象を認知したときのニューロンの発火パターンは千差万別であろう。人間の脳は器官として他人と同一でも、ニューロンの接続は人それぞれ異なる。同じ事象でも、異なる基板上の異なる回路として生成されるわけだ。

 したがって、仮にそれを知覚できたとしても、自身の「回路」と照らしたところで解読することはできない。言語が違うのだ。

 おそらくは子供部屋に散らかったひらがなブロックのようなものだ。文章どころか単語を構成するかもしれないという可能性に気が向くことすらないであろう。

 それどころか風景の一部にとけてしまい、それが文字であると認識すらできまい。

「ああ」そこまで聞いた陽介が、思わず声を上げた。「そうか、データレコーダ……ピーガラガラだ!」

 綾幻は何度か頷いた。

 再会を果たしたときの、陽介と綾幻の会話にあったデータレコーダの例えだ。磁気テープの磁気配列はパソコンにとっては情報であっても、人間の目では読み取れない。音に変換して耳から聴くことができたとしても、それを意味のある情報として認識できない。

「よほど素質のある人でも、せいぜい突然涙がこぼれたり、漠然とした不安や、えもいわれぬ不気味な雰囲気に戸惑う程度でしょう。“共感”には“解読”が必要なのです」

「情報をもとの規格で完全に再生できるのが、きみたちプロの霊能者?」

「除霊屋」

 綾幻は陽介の発言を訂正した。「もっともその職業だって、世間で通りがいいからそう名乗っているだけで、わたしの理屈に従えば、消去屋と言ったほうが近いかしらね。それと、私たちにも完全な再生は無理」

 古代文字の解読と同じで、情報の解読を行うには、ある程度ひとまとまりの「文章」が必要となる。それが「走馬灯」なのだという。

 想像ですが、と前置きして綾幻は続けた。

 死と直面した瞬間のニューロンの発火は、どうやら長期記憶として最も安定しているといえる想い出に「漏電」して記憶を発火させ、いわば生活史のダイジェストのようなものを当人の脳裏に見せるらしい。それがいわゆる走馬灯と呼ばれる現象で、やはり場に痕跡として焼きつくことがあるという。

 綾幻たちのようなある種の能力者は、知覚しているかいなかにかかわらず、そういった走馬灯もいっしょに読み取っていて、解読のヒントにしている可能性があるということだ。

 もちろん、それらの条件が整ったとして、解読は容易なことではない。頼りは走馬灯のボリュームと、解読する本人の脳のバックグラウンドでフル回転する想像力と共感力だ。

「たとえば温泉に浸かって心地よいという他人の感覚は、あくまでもわたしにとって心地よい温度で再現される。アイスクリームを食べておいしいという感覚は、それが甘くておいしいのか、冷たくておいしいのか正確にはわからない。こんなにおいしいトマトは食べたことがないと感激した感覚は、わたしにはフィルターがかかってしまうから正確な感情の共有はできない。もしかしたら、そもそもトマトで再現されないかもしれない」

「トマトにフィルターがかかるのはなんで?」

 陽介が問うと、綾幻は軽く睨むような視線をこちらに向けた。

「嫌いなの」

「ああ、なるほど」

「その程度には不確かなのです。だから再現も検証もできない。場に残された痕跡、固定されてしまった矢印の“閃電岩”には客観性があるだろうから、それがもし科学的に観測できる時代がきたら、あるいはオカルトから抜け出せるのかもしれません」

 一通り綾幻の話を聞いた新一が言った。

「霊はいない、と。その正体と考えられるものについても、なんとなくわかったよ。で? 綾幻さんの仕事の正確な内容というのは?」

「何度も言うように、場に焼きついた痕跡はそれ自体感情でも思念でもありません。『かなしい』という感情が残っているのではなく、『かなしい』と文字で書くように刻まれているのです。つまり意思のようなものを持った霊などではありえないということです。だから憑依することも、霊障をもたらすこともありません。霊障とは、再生してしまった情報をもとに無意識に物語を作り上げた再生者が、その物語に自ら縛られてしまった状態だといえます。悲劇を読んで、感動し涙するように」

「強迫観念みたいなもの?」

 陽介が問うと、綾幻が答えた。

「そのものよ。その自縛を、医者とは違う方法で解消してあげるの。たとえば、花と人形を供えれば、憑依した霊をもとの場所に置いてくることができる、とか」

 綾幻は陽介の目を見て言った。一年前の陽介の件について言っているのだ。「あるいは死者はもうあなたをゆるしているという暗示をかけて、強迫観念から解放してあげるわけね。実際に場に焼きついた思念の痕跡が影響していようといまいと関係がない。いわゆる対症療法ね。それが、幻術士としてのわたしの仕事」

「他にも?」

「除霊屋としての仕事。霊は存在しないのだから正しくは消去屋ね。霊障のあるなしに関わらず、場に焼きついた痕跡そのものを消し去ることです。このふたつの仕事が、まったく別のものであることは、もうおわかりいただけますね」

 言葉の前半は問いかけた陽介に、後半は新一に顔を向けて綾幻は言った。

 新一は頷いた。

「そこで、確認したいのです。あなたがなにも知らぬまま除霊、つまり大地くんが残した痕跡を消すことは可能です。ただし、先ほども申したとおり、里美さんの件は別です」

「どういうことです?」

「このままでは、おそらく里美さんは自責の念から、死の強迫を受け入れてしまうでしょう。いわゆる祟り死にという結末です」

「自殺……ということですか?」

 綾幻は頷いた。

「里美を救えないのですか」

「それには、あなたが全てを知る必要があります。そのうえで、里美さんを救うのは、あなた自身です」

 新一は怪訝な表情を見せた。

「よくはわからないが、何でもしよう」

「つらい選択ですよ」

「大地を失い、里美まで失いたくはない」

 綾幻は、なぜか悲しげに頷いた。

「承知しました。里美さんが何を見ていたのか、それをお見せします」

 綾幻はあの不思議な儀式を始めた。水盆はなかったが、あの奇妙な音は口から発していた。あやとり紐を出し、右手薬指と人差し指に絡めて新一を指した。

 おそらく、あの音は催眠導入のような効果のある幻術の技なのだろう。水盆の音があれば、早く確実な催眠導入が可能となるとか、そのようなことに違いない。もしかしたら、あの口から発する音も、極端な話し省略可能なのかもしれない。

 綾幻の幻術の肝は、あのあやとりにあると陽介は見ていた。

「ベランダを御覧なさい」

 新一と陽介は、言われるままにベランダに目を向ける

 新一が驚いたように口走った。

「だ、大地……!」

「み、見えるのか?」

 陽介は言った。自分には見えないのだ。「ぼくには見えないぞ」

 陽介は綾幻を振り向いた。

「見せてないもの。必要ないでしょう」

 新一は信じられないものを見るような目で、誰もいないベランダを見ていた。やがて「あっ」と声を上げて一瞬腰を浮かすと、その場に力なくうなだれてしまった。

 しばらくそうしたのち、新一はうつむいたままくぐもった声を上げた。

「里美から聞いていた話どおりだよ……」

 声を荒らげる。「それで! わざわざ映像でおれに見せる必要がどこにっ……」

 綾幻は落ち着いたまま言った。

「ときに人は、自分すら騙す嘘をつくのです……それを、知ってもらいたかった」

「なに?」

 綾幻はベランダの窓を開け、音を奏で始めた。居間とベランダを行ったり来たりしながら、次つぎにあやとりの形を変えていった。まるで舞のようであった。

 そしてやがて足を止めると、つぶやいた。

「やはり……」

「なにが、やはりなんだ」

「里美さんも救いたいのですね?」

「ああ。くどいぞ」

 綾幻はしばらく沈黙した後に言った。

「では、ここで本当はなにがあったのか、お見せしましょう」

 綾幻はあやとり紐を右手の人差し指と薬指に巻きつけ、新一の背後に回り、その手を新一の頭に置いた。

 新一の耳元で綾幻がなにかをつぶやく。

 直後に目を見開く新一。

「なんだ……どういうことだ……」

 新一は、目の前のなにかを目で追うようにしていた。

 新一の視線の先を追ううちに、術にかかっていないはずの陽介にも、そこで大地が走り回っているのが見えるようであった。

 すぐに新一はソファの上、ちょうどそこに座った人の顔を見るような角度で視線を送った。

「えっ? なにを言っている。聞こえないぞ」

 新一は焦れた様子で言う。完全に幻覚に入り込んでいるようであった。本当に、そこに誰かがいるような素振りだ。それだけに、陽介にも見えてしまう気がする。あるいは陽介の才能であるかもしれなかった。

 ソファには里美が座っているのだ。そしておそらくはぶつぶつとなにかをつぶやいているのだろう。先日の里美の様子を見れば、容易に想像できた。

 新一は顔を上げ、視線を高くした。里美が立ち上がったのだ。

 新一はソファに回り込むように視線を送る。そこで一瞬視線を下げ、再び元の高さに上げた。

 新一は腰を浮かせた。

 綾幻は新一の頭から手をのけ、新一の前にまわり、見たこともないあぐらのような座り方で構えた。

「おい、なにをする里美……」

 陽介は全身に薄気味の悪い汗をかきだしていた。

 新一の視線はゆっくりとベランダのほうへ動いてゆく。

「なんだ? どうしたんだ、新一。里美がどうした?」

 陽介は予感めいたものを感じて、吐き気を伴う恐怖に打ちひしがれていた。

 見えるのだ。いや、目に見えるというのとは違う。額の内側に小さなスクリーンが付いていて、その映像が脳裏で現実の視界と合成されるような感覚だ。

 なにが写っているのか、おぼろげながらわかってしまう。

「里美……!」

 立ち上がろうとする新一を、綾幻は片手で制した。それは文字通りのことで、腰を上げた新一の額に軽く手を当て、押さえ込んだのだ。それだけで新一は浮かした腰を落としてしまった。

 新一は反射的にその手を払いのけようとしながら片膝を立てた。

 すると「後の先」を取る武術家のようにほぼ同時に綾幻も膝を立て、その膝で新一の立て膝を外側から押し倒すように体重をかけた。同時に新一の払いのけようとした手を自分の腕でかわしつつ、肩を押した。

 新一はバランスを崩して押されたほうの手を床に突いて、身体を斜めに倒した。新一はそのまま力をなくしたように言った。

「う、うそだ…」

「この場に焼きついていた、大地くんの記憶です」

「里美が、大地を……」

 新一のその言葉に、陽介は綾幻を見た。

 綾幻はだまって頷いた。

 もっとも、新一のそのつぶやきだけで、陽介の悪い予感は肯定されてしまったのだが。

 綾幻は新一の身体を起こし、その肩に手を乗せたまま言った。

「人の魂とは、時間と同じようなものなのではないでしょうか。カコは既に無く、ミライは未だ無い。この瞬間は、消え行くイマのなごり。その儚いイマに私たちは生きているのです。だとすれば死とは、イマがカコとなって消えてしまい、永遠にミライが訪れないコト。人が死んで残るものなど、なにもないのです。ただ、人は死の間際、その瞬間をまるで映画のフィルムのようにその空間に焼き付けてしまうことがある。死に至るまでのわずか数フィートのフィルム。そのフィルムが映写機にかけられるたび、死を繰り返し映し出すのです」

 その言葉を聞いて、陽介は小さな声で言った。

「そういえば、自殺者の霊は永遠にその場で自殺を繰り返し、苦しみ続けるというね。だから自殺は恐ろしいことなんだって」

 その陽介の言葉を受けて、綾幻は新一に語り続けた。

「霊の存在を認めないわたしはそれを否定しますが、フィルムを再生してしまうわたしたちにとって、それは真実であるともいえます。目の前で、彼らが死に至る数フィートの映像が、何度も繰り返されるわけですから」

 綾幻は続けた。「苦しむのは、それを垣間見、それに囚われた生者です。しかし生者が苦しむとき、すなわち情報が再生されたとき、死者もまた苦しむのかもしれません。それを確かめることはできませんが、少なくともその場に残り、際限なく繰り返される映像は、だれも幸福にはしないでしょう」

 綾幻は続くひと言ひと言を、感情を込めたセリフのように語りだした。

「苦痛から開放されて、楽になった。来世ではきっと、幸福になれる。天国が受け入れてくれる。またそちらで会える……」

 再び新一に目を向ける。「そうした現世での苦しみや死別に苦悩する生者に納得を与えるために、死後の世界という概念はあるべきです」

 新一は泣いていた。

「成仏、させてやってください……」

 霊を否定すると言っている綾幻にあえて「成仏」と言う言葉を使ったが、おそらくそれはいま現に生き、そしてこれからも生き続けなければいけない里美のために、自分のために、ということなのだと、陽介は感じた。

「わかりました」

 綾幻も、成仏という言葉を否定しなかった。

 綾幻は舞った。

 この舞は、死者のためのものであろうか、生者のためのものであろうか。

 あるいはただ単に消しゴムで紙面の文字を消すような、無感情な作業なのかもしれない。しかしあまりに物悲しく、美しい舞であった。

 口元からあの神秘的な音を奏でながら、舞の一部のようにあやとりの形を次つぎに変化させてゆく。

 あやとりを操る腕の動きは、紐を指に絡げて引く、絡げて引くの繰り返しなのでどことなく中国武術の演武か太極拳のような手の動きであったが、優美であることに違いはなかった。

 やがて舞を終えると、綾幻はその場にふわりと正座した。

「大地君の記憶の記録を消しました。この空間にはもはやなにも残っていません」

「ありがとう……」

 新一は頭を垂れた。

「痕跡は消せます。生者を惑わす幻影も消せましょう。しかし、罪の意識は、わたしに消すことはできません。あとは、あなたと里美さん次第です」

「わたしに、どうしろと?」

「それは、あなたが決めればいいこと」

「わたしは……」

「ゆるすべきだとは言っていないわ。ただ、里美さんを救えるとしたら、あなただけです」

 新一は陽介に視線を送った。

「陽介……」

 陽介は、首を横に振ることしかできなかった。

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