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それが、約一年前、小日向陽介と綾幻が出会ったときの出来事だった。
綾幻が陽介の手を取りながら語るごとに、なにかに刺激されるように陽介自身の記憶も鮮明によみがえってきた。綾幻はカラスのくだりは語らなかったが。
「よくそんなに細かく憶えていたなあ」
「わたしじゃないわ。あなたが憶えていたのよ。お望みなら、あなたが一歳だった頃の記憶だって読み出してあげるわ」
そのひとことで陽介は合点がいった。どういう作用が働くのかわからないが、綾幻は手を握った相手の思考や、記憶まで読み取ることができるのだろう。綾幻の言葉をそのまま信じるのであれば、おそらく本人が忘れてしまっているような遠い記憶までも。
「そうか、ぼくの記憶を……なんか、怖いね」
陽介はほんのわずかであったが、握られた手を引いた。
オカルトを恐れたわけではなく、間近に綾幻と目を合わせてしまった動揺が、肌を通して綾幻に伝わるのを恐れたからだった。
相手がオカルトな能力の持ち主でなくとも、また生理学や心理学の専門家でなくとも、そういうものは割とわかりやすい「情報」として伝わるはずだ。
しかし綾幻は単純に心を読まれたことに対して陽介が不快感を抱いたのであろうと思ったらしい。ことさら無表情に言った。
「大丈夫よ、なにからなにまで読めるわけではないわ、ふつうはね。新聞を読むときを想像してもらえるといいわね。読みたい記事の見出しを探して読む。他の記事は目に入っているけど、内容まではわからない。印象深い単語が目に飛び込んでくることがあるくらい」
そして話題を戻す。「言われたとおり、形代を花といっしょに現場に添えたのね」
あのとき、綾幻から人型に切った和紙を渡され、それを花と一緒に事故現場に還すよう指示されたのだが、それが良いきっかけとなった。
いい加減満員電車にも飽いていたころだったし、綾幻の指示を実行したあとすぐに自動車通勤を再開したのだった。
その後は運転中に危険な目にあったり、過剰な不安を感じたりするようなことはなくなったが、それを気分的なものと一笑することもできる。ただ、陽介の目撃した事故の詳細と、それ以降運転中に違和感を持っていたことまで綾幻が言い当てたことは、容易に理解できることではなかった。
綾幻は陽介の手をもてあそぶようにしていた。なにか他の記憶を探っているのだろうか。
綾幻の能力を信じきってはいないとはいうものの、やはり空恐ろしい。
また、陽介はほとんど他人といってよいはずの女性とこうしていることに背徳めいたものも感じ、どこか居たたまれなくなってしまうのだった。はたから見れば、言葉以外から愛を感じ取ろうと言わんばかりに恋人の手を握る女にしか見えないだろう。単純に照れくさい。
「そ、そうなんだ。それ以来、運転で危険な目にあうこともなくなってね、助かったよ」
たまたま人がはね飛ばされる事故を目撃してしまった心理的な衝撃が、はねられた被害者の最期の思念と強く結びつき、その霊をつれてきてしまったのだと綾幻は言っていた。
「正直、半信半疑だったけど、世の中にはそんなこともあるんだね」
陽介がそう言うと、綾幻はやや首をかしげた。
「そんなこと?」
「幽霊とか、まじないとかさ」
綾幻が小さく首を振った。
「どうかしら」
「え? どうって、きみが事故現場で霊を拾ったんだって言ったんだよ……第一きみ、浄霊が仕事だろ?」
「除霊屋よ。まあどっちでもいいけど」
綾幻はそう訂正してから続けた。「いわゆる霊現象と呼ばれる現象が本当にあるかと問われれば、イエスね。あなたも体験したでしょう。でも、それが霊の仕業か、あるいは霊が存在するかと問われれば、わたし個人の答えはノーだわ」
「よく……わからないな」
「たとえば昔のパソコンは、カセットテープを記録メディアにしていたでしょ?」
でしょ? と同意を求められても、陽介はそれについてよく知る年代ではない。綾幻にしたって見た目からいっても陽介とそう変わらないはずだ。仮に綾幻が自身の漂わせる貫禄に見合った年齢だとしても、ひと世代上だとは到底思えない。
「ああ、あまり詳しくないけど、そういうの見たことある気がするなあ」
データレコーダとかいったか。
音楽カセットテープは使ったことはないが知っている。
しかしそのカセットテープがパソコンの記録メディアに使われていたのは、パソコンがまだマイコンと呼ばれていた時代、陽介が産まれているかいないかの頃の話である。雑誌かなにかで読んでかろうじて知っている程度であった。
「そのデータをプレイヤーで音声として再生すると、ピーガラガラってノイズになって聞こえるのよね」
「うん」
実際に聞いたことはないが、そういうものなのかもしれない。ファックスのデータ送信音と同じようなもののはずだ。
「つまり、そういうことよ」
「えっ? えっ?」
霊の話だったはずがパソコンの話題になり、そこで突然結論に至ったので、陽介は面食らった。「つまり、どういうこと?」
「時に人間の強い思念は場を変化させ、そこに刻まれる。わたしはそう思っているわ。なににしても、あなたが体験したことは、あなたにとって真実。そういうことよ。少なくとも、わたしはそういうコトワリの成り立つ世界で、なんの矛盾もなく仕事ができている」
綾幻が握っていた陽介の手を離して、話題を変えた。「さあ、あの一件は解決しているのね。どうやら今回はあなたの友人に助けが必要なようだけど?」
「うん?」
陽介は水を向けられ、戸惑った。
綾幻は察したようだ。
「配達してくれるピザをわざわざ取りに行かないでしょう?」
「ああ……」
陽介はなぜ用件についても記憶を読まなかったのかと疑問に思ったのだが、それに対する綾幻の答えがピザの配達のたとえだった。
「それになんとなくわかるとは思うけど、こっちの世界はただでさえ論理的とか科学的とかそういった意味での正確さというのが苦手だわ。記憶ひとつとっても時が過ぎればあいまいになり、時には改ざんされることすらある。さっきのはあなたとわたしの共通の記憶だったから、ほぼ正確に理解することができたけどね」
陽介は再び綾幻に促され、大地の事故死を含め、西野家族に起こったことのあらましを伝えた。
すべてを聞き終わった綾幻は陽介の申し出を快諾した。
「わかった。本人に会いましょう」
「そう。よかった、ありがとう」
「都合のいい日時は、明日連絡ちょうだい」
綾幻が話をまとめるなか、陽介は少し落ち着きをなくしていった。事前に聞かなければならない大事なことがある。
綾幻はそんな陽介の様子に気付いたようだった。
「どうしたの?」
「いや……あの、料金なんだけど」
「わたし、あのときあなたからお金を取ったかしら?」
「無料なの!?」
言ってから、恥をかいたと思った。無料のわけがない。それに安っぽい言い方だ。
ところが綾幻はそれを肯定した。
「ええ、御代はいいわ。言ったでしょ、困っている人を助けたいだけだって」
「でも、今回はこちらから依頼しているわけだし」
「そうね。まあ本来ならいくらか頂く話だけど。でも、取れるところから取っているからいらないわ。それに、縁があるとも言ったでしょう。そういうのないがしろにすると勘が鈍るのよ、この業界」
本来なら再会も難しかったはずだ。それをなんの因果かこうしてたやすく再会を果たせた。そうした因縁をないがしろにするということは、綾幻の言う業界を支配するその「コトワリ」をないがしろにするということなのかもしれない。綾幻はそういうことを言いたいのだろう。
「いや、高かったらどうしようかとしか考えていなかったから……でも、タダだとかえって遠慮が出るな。それに……」
陽介は言いにくそうに口ごもった。
「おざなりにされても文句も言えないし?」
綾幻はこんなときにもまったく口調を変えなかった。
「いや、そんなわけじゃ……」
「いいのよ」
陽介は半ば図星を突かれて動揺し、多少なりともそれは表情に出たはずだが、綾幻はそんなもの意に介していないようだった。
「はっきり言っておくけど、こちら側はデリケートな世界でね。失敗することもあるわ。そんなときは、そう思われるかもしれないわね」
陽介は恐縮した。
「後でそう思われるのは構わないけど、事前に疑念を持たれるのもやりにくいから、成功報酬であちらが納得する金額を出してもらえればいいわ」
「相場は……」
陽介はおそるおそる聞いた。
「わたしには関係ないわ。このくらいなら出してもいいという金額が、あなたたちにとってちょうどいい金額よ」
綾幻はあんみつを一口ほおばって続けた。「そうね、たとえばあんみつ代とか」
そういうわけにもいくまい。しかし、ここで料金の提示がされないのが最もたちが悪いのだ。
半信半疑で依頼する側から見れば、えたいのしれないものに対する出費は抑えたいのが人情であるから「安い」に越したことはないわけだが、逆に言えば自分の抱える問題はそのえたいのしれないものに頼らなければならないほど「高い」問題でもある。
陽介は自分の知識と記憶から該当する情報を必死に検索した。
そういえば、すでに亡くなってはいるが、かつて何年にもわたりテレビで特番を組まれるほど一世を風靡した霊能者が、地元では五千円から一万円の見料で活動していたと、実際に観てもらった人から聞いたことがある。
秦野のとある女性神職者が占術師として活動していて、数十分の相談で一万円から数万円包む人もいる、という話も聞いたことがあった。
かたやいくらでもぼったくりが可能と思われる有名霊能者。かたや神職のサイドビジネス。
「価格帯」的にそれほどの隔たりはないようだが、除霊となれば占いとは違い多少大掛かりな儀式めいたことをするに違いない。
有名どころの占い師の数倍、あるいは桁がひとつ上と考えるのが妥当だろうか。
「考えているわね」
気付くと、綾幻がわずかに下まぶたに微笑みを感じさせるような表情で陽介の顔を見ていた。「これだけ近くであまり思いつめると、素でも聞こえてしまうから気をつけてね」
「マジか」
「あの日だって、コーヒーショップで後ろの席に座っていたわたしに、まる聞こえだったのよ。ラッシュはもういやだ。車通勤に戻ろうかって」
そして、少しあわてたように柔和な表情を消した。
思えば、再会を果たした当初よりも、綾幻はやや饒舌になってはいなかったか。
なににせよ、綾幻が心を読む能力を持っていることは間違いなさそうだった。
仮に陽介にその勇気があったとして、綾幻と個人的な関係を進展させるにはかなりの覚悟がいるというのは、想像に難くなかった。
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