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 後日、小日向陽介は西野夫妻と藤沢駅で待ち合わせ、綾幻が指定した場所に向かっていた。陽介は新一に頼まれ、今日の除霊に同席することになったのだ。

 里美とは久しぶりの再会であった。しかしそのあまりのやつれように陽介は言葉を失ってしまい、挨拶もそこそこで道中に会話はなかった。

 綾幻が指定したそこは、駅より十数分の住宅地に建つ個性的な外観の低層デザインマンションであった。

 エントランスのインターホンで綾幻を呼び出すと、ロビーラウンジで待つよう言われた。

 シンプルモダンなラウンジのソファに腰を落ち着けると、陽介は改めて里美の顔を見た。子供ができてからも変な風に所帯じみることなく、少女時代の快活さと若々しい外見をずっと保ってきていた里美であったが、いまは見る影もなかった。

 陽介は言葉を選びつつ、里美をいたわった。

 里美は力なくではあるもののきちんと受け答えはしていたが、会話を重ねれば重ねるほど、彼女の精神はささくれてゆくようだった。

 里美の胸の内で、乱れた感情がぐるぐると対流しているのがわかる。

 うっすらと口を開けた壷を神経質に傾け、かろうじて平静を保っている上澄みの薄い薄い層をこぼすようにして話しているのだろう。

 いつ上澄みの下の滓があふれ出してもおかしくはないほどの緊張感が、陽介にも怖いほど伝わってきて、それ以上会話を続けられなかった。

 ほどなく、奥のエレベーターの扉が開く音が聞こえた。陽介は音のした方向を一度振り向き、顔を戻しきる前にもう一度振り向いた。

 白装束の綾幻が歩み寄ってきていた。

「お待たせしました。まずは斎場へどうぞ。ご挨拶はそれから」

 綾幻は白衣白袴に手甲脚絆の白足袋といういで立ちで、一見お遍路さんを連想させる装いだった。しかし陽介は袴に収められた上衣や宝冠巻きの白頭巾を確認して、さらに近い装束に思い至った。浅間大社のみそぎが、たしかこのような装束で行われていたはずだ。

 いずれ山岳信仰にゆかりのある装束であろうが、シンプルモダンのインテリアのなかではそんな些細なことはどうでもよいくらいに浮いていた。

 陽介は非日常な光景に面喰いながら、他の二人と一緒に綾幻についていった。

 ところで綾幻はエレベーターを呼ぶとき、非接触型のカードリーダーにカードキーを当てていたが、かごに乗り込むと操作をしなくても二階で止まった。かごは前後両開きで、再び乗り込んだ側の扉が開いたが、反対側も開くようだった。

 降りるとすぐ脇に非常口の鉄扉がある小さなエレベーターホールになっており、その先はもう玄関ポーチだ。

 外観は五階建てであったが、かご内の表示ランプなどからみて、エレベーターを挟んだ四世帯のメゾネットマンションのようだ。

 陽介は目を白黒させていた。

――分譲にしても賃貸にしても相当だよな、ここ。霊能者ってそんなに儲かるのか?

「どうぞ」

 三人は玄関を入ってすぐの部屋に通された。そこは六人がけのテーブルとイスが置かれただけの簡素な部屋だった。

「ご無理言って申し訳ありませんでした」

 西野夫妻と綾幻それぞれが簡単な自己紹介をした後、新一が綾幻に頭を下げた。

 無理、というのは、里美が自宅マンションでの除霊を強く拒絶したため、場所を変更せざるを得なくなったことについてだった。

 大地の一件が霊の仕業であれなんであれ、綾幻がしようとしていることはその場の「なにか」を消し去ることに他ならないはずだから、それは現場での仕事になるはずだった。

「まあ、いろいろケースがあり、手段もいろいろあるものです。仕度が整うまでお待ちください。お茶でも持ってまいりましょう」

 一礼して部屋を後にする綾幻に、陽介はあわてて声をかけた。

「あっ。て、手伝おうか」

 綾幻は陽介を横目でしばらく見つめ、無表情に言った。

「……じゃあ、そうしてもらおうかしら」

 綾幻に連れられたキッチンのカウンターからは、手前のダイニングから伸び上がるように広々とした吹き抜けのリビングが見えた。

 そこにはイスひとつ置いておらず、床面ほぼいっぱいに畳が敷いてあり、小さな祭壇のようなものが設えてあった。

 ポットの湯を用意しながら綾幻が唐突に言った。

「何を訊きたいの?」

 陽介は、ぎくりと肩を揺らす。

「えっ? なんのこと」

「特に手伝うようなことはないわよ」

「そ、そうだね」

 聞きたいことは山ほどある。綾幻は自分たちの日常とはかけ離れた世界に住んでいる。そういった人間と話す機会などめったにないのだから。

 ただ、そういう職業的なことだけを知りたいのかといえば、そうではなかった。

 とりあえず、陽介は当たり障りのなさそうなことから聞いてみた。

「離れた場所から除霊ってできるものなの?」

「できないわよ」

「え?」

「できない。あたりまえじゃない」

 あまりにも綾幻がさらりと言ってのけるので、陽介は面食らった。

「じゃあ、なんで」

「まあ、彼女を外出させてその間に、って手もあるけど……あなたの留守中にちゃちゃっと終わらせておきました、もう大丈夫ですよ、では済まないことのほうが多いのよ」

「ふうん」

「ただ、この手の依頼は、現場に赴く必要がない案件のほうが多いのも事実」

「どういうこと?」

「いわゆる除霊屋としての出番が必要ないってこと。こんなこと言ってはなんだけど、自称霊感持ちに限らず、見ちゃう人のほとんどは当人に原因があるの。単なる疲労やストレスに始まって……」

 綾幻は陽介の目を見て、ひとつひとつの単語を口にしながら、うなずきつつ指を折ってゆく。「精神疾患、クスリ、アルコール、自己暗示、集団暗示、ヒステリー。変わったところではこっくりさん、絶食、ハイウェイヒプノーシス。あと、罪悪感とかね」

 ひと言ごとに微妙に表情が変わるのだが、それがまたなんとも魅力的だ。

 陽介は気恥ずかしさから逆に視線を逸らすことができず、なかば照れ隠しに綾幻の刻むリズムに自身のリズムを合わせ頷きつつ、表情もつられながら聞いていた。

「里美のは、ただの罪悪感?」

「どうかしらね」

「ふうん」

 綾幻は、はっとしたように無表情に戻るとお茶の仕度を続けた。

 陽介は、ときどき饒舌な綾幻が垣間見えることに興味を持った。綾幻はそのような自分に気づくとわざと表情を消して口をつぐんでしまうように見えるが、むしろ人懐こさが彼女の本質ではないかと思えてきて、笑みがこぼれてしまった。

 陽介はリビングの祭壇に目をやった。

 綾幻は、霊は存在しないと言った。「思念が場を変化させる」などという綾幻の主張も、似非にしろ科学を装っており、オカルト的ではあるがスピリチュアルではない。

 しかも霊現象の原因が当人にあるなどと言い出すに至ってはもはやオカルトですらなく純粋に心の医療の領域ではないのか。

 それでは、あのいかにも宗教的な祭壇にどのような意味があるというのだろう。

「あれはただの舞台よ。特に意味はないわ」

 陽介の内心を見透かしたのか、綾幻は言った。

「どういうこと?」

「霊が憑いたと訴える人が望む舞台ってこと。それは心療内科のソファではないし、何の変哲もないマンションのリビングでもない。宗教的なお膳立てをしたほうが手っ取り早いのよ」

「なんかヘンだね。霊を信じていないきみが除霊なんて」

「いったでしょ。霊はいない。でも霊現象と呼ばれるものは現実にある。Mr.マリックがコインを瞬間移動させる超魔術は現実に見ることができるけど、超魔術が本当にあるわけではないでしょう」

「とことん古いなあ」

「失礼ね」

「まあでもなんとなくわかってきた気がするよ」

「なら、その程度でやめておくのね」

「なぜ」

「しょせん、その程度のものだからよ。この業界の出来事は、わたしたち自身ですら現象の再現性を保証できないし、科学者が出てくるまでもなく、同業者同士ですら現象を検証することができない」

 陽介には綾幻のその言葉が若干投げやりに聞こえた。

 陽介は何度か大げさに首をひねって考えるような素振りをした。そしてわざとしかつめらしい顔でつぶやいた。

「きみは実存主義になるのかな、それとも実証主義なのかな?」

 綾幻が、わずかに口元をほころばせた。

 陽介はその微笑みに目を奪われた。少しは心を開いてくれたようだ。陽介はもう一歩踏み込んでみようと思った。

「自宅はきっと鎌倉辺りだよね。ここには住んでいないんだ?」

 綾幻は目だけをこちらに向けた。口元に薄く笑みを残したままだったから、いたずらを企んでいるような表情に見えたが、ただ表情を固めただけだろう。その証拠に、その目を逸らすと同時に、綾幻は再び無表情になった。

 陽介は慌てた。

「ああ、いや、詮索するつもりはないんだ。あの日、海を見ながら帰りたかったって言っていたろ? だから江ノ電を使うのかなと思って。それに大船駅からなら鎌倉駅まで横須賀線が出てるし、それで……」

「さっきも言ったとおり、いわゆる除霊の必要ない事案も多いわ。一見して心や精神が病んでいそうな人が、憑依されたといって人が変わったように霊の言葉を口走ったり、何もない虚空を指差して霊が見えると怯えたり、あなた自宅に上げたいと思う? わたしは怖いわ」

 妙に現実的で身も蓋もない言葉だったが、オカルティックな世界に身を置きながら、現実に留まっていることができるよう、自分の論理に厳格であろうとしているようにも見えた。

「確かにそのとおりだけど、変にリアリストだね」

「で、それを聞いてどうするの?」

 綾幻が問いただした。プライベートを詮索した失態をうまくはぐらかせたと思ったが、そうはいかなかったようだ。

「べつに、どうとは……ただ、住んでいないにしては立派過ぎるなあと思って」

「一応地元だし、商売の本拠にしようと思っていたから、ほかとは別格なの」

「ほかって、ほかにもあるの!?」

「なによ」

「いやあ、随分と儲かる仕事なんだねえ」

「そんなわけないじゃない。ここは面倒がないように買ったけど、ほかは借りものよ」

 さらりと買ったと言うが、若い女性がぽんと買える物件とは思えない。まして、職業幻術士でローンが通るとも思えない。世間的には十分儲かっているといってよい。

「わたしの仕事の依頼主に、宿泊施設の経営者や不動産業、地主や物件のオーナーが多いことは想像できると思うけど、中でも大きな商売をしている人は常に問題を抱えているから、わたしみたいなのを囲いたがるの。ホテルの一室だったりマンションの一室だったりを提供してくれるのよ」

「はあ」

「さっきあなたが疑問を口にしたとおり、わたしの仕事は基本現場仕事。地方のことも多いから、好意には甘えることにしているの」

 あたりまえのように綾幻は言うが、一般人である陽介には理解を共有できるような話ではなかった。

「依頼主が満足する仕事をすれば、口コミでその地方からの依頼も増える。中には今回の依頼みたいにこんな舞台が必要な案件も多いから、お言葉に甘えたほうがいろいろと都合がいいのよ。それにそういった人たちの中には土地の有力者も多いから、余計な揉め事がおきたとき力になってくれるし」

 土地の有力者というのもいろいろだろう。地主や政治家、商売の名士から、藤沢駅で綾幻に絡んだ男たちが恐れるような「有力者」だっている。

――ははあ、なるほど。あのとき綾幻がやつらの耳元でささやいたのは、地元の「有力者」の名前だったんだな……

 あのとき自分の痛めつけた男たちが転がっているのもかまわずに、近くの店に入ろうとした余裕はそこからきていたのだろう。陽介はそら恐ろしくなってしまった。

「さ、これを持っていって。仕度ができたら呼ぶから」

 綾幻は盆に乗せた緑茶と茶菓子を陽介に差し出した。

 陽介は言われるままにそれを持って新一たちがいる部屋に向かった。

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