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「最近車の運転が怖くない?」

 不意のことであったので、言葉の内容を把握したわけではなかったが、自分の真後ろで声がしたものだから、小日向陽介は反射的に振り返った。

 背後に、声の主と思われる小柄な若い女性が立っていたが、瞬時に知った顔でないことがわかった。

 仮に美しさを売りにするようなタレントを含めたとしても、知っていれば記憶の検索で真っ先にはじき出されるような美形だったからだ。

 女はなんとなくこちらを見ているような気もするが、陽介は自分のことであるはずがないと思い、もとの方向を向いて歩き出した。

「ちょっと、あなた」

 再び声をかけられる。陽介はゆっくり歩きながら、自分の進行方向にそれらしい人物がいないか確認する。返事をしたら自分のことではなかった、という経験は何度かあるが、若い美女が相手では恥ずかしさ倍増である。

「あなたよ」

 陽介は肩を叩かれた。これはもう疑いようがない。あきらかに自分が声をかけられている。

「ぼく?」

 立ち止まり、振り向いて自分を指差し、陽介は言った。

 小柄な女が頷いた。

「なにか?」

「最近、車の運転が怖くないかしら?」

「はあ」

 女が一歩距離を詰めてきた。

 車の保険かなにかの勧誘であろうか。グレーのパンツスーツ姿だし、鞄は提げていないがどう見ても戦闘態勢のキャッチセールスだ。

 陽介は訝しんだが、女は構わず話しかけてくる。

「いままでそんなことなかったのに、最近よくヒヤッとする場面に遭遇したりする。そう思っていない?」

 言われて確かに思い当たるふしはあった。そもそも陽介は車通勤だったのだが、最近ついていないのか注意力散漫なのか、運転中ヒヤリとすることが多かったので、電車通勤に変えていたのだ。ここ数ヶ月のことである。

 しかし、わけがわからない。だからなんだというのか。

 女がさらに一歩距離を詰めてきた。

 近い。もし女の踏み込みがあと数センチ深かったら、無意識に一歩あとずさってしまっただろう。相手がいくら小柄な美女でも、初対面の人間相手には本能がざわついて警戒してしまうぎりぎりの距離とタイミングだ。

 女が陽介の顔を見上げた形になる。身長180センチの陽介の、肩のあたりが頭の高さということは、女の身長はせいぜい百五十センチ程度だろう。

「たまたま遭遇した交通事故現場で、人が跳ね飛ばされる瞬間を見たわね」

 女がそこで言葉を区切り、ちいさく「だん!」といいながら首と目線を使って目の前の何かを追うように視線で山なりの弧を描いて見せた。

 陽介は釣られるように女の目を追った。

「その人がどうなったか、気になっている。それ以来危ない目に多くあっているはずだわ」

 陽介は眉根を寄せた。確かにそのとおりだったのだ。

「なんで、それを知っているの?」

「見えるのよ」

「見える?」

 女が、呆けた顔でオウム返しに聞き返す陽介の右肩のあたりを顎でしゃくった。

 陽介は誘われるようにその方向を振り返る。人通りはあるが変わったところはない。そしてなにかに気付いたように慌てて女に向き直った。

 女は肩の「向こう」を指しているのではないのだ。

「おいおい、いきなり声かけてきて、気味の悪いこと言うなよ。きみ、だれ? レイノウ者かなにか?」

 そこで初めて女は名乗ったのだ。

「幻術士、除霊屋綾幻」

「じょれい……除霊?」

 つぶやいてしばし考える陽介だが、すぐにはっとして言った。

「いや、悪いけど、ぼくそういうのアレだから……」

「お金を取ろうってんじゃないわ。ボランティアよ」

 陽介は右手のひらを挙げて制し、作り笑いを見せてその場を立ち去ろうとした。

「わかっているはずよ、このままじゃ危ないわ。わたしはどうすればいいか教えたいだけ」

 綾幻がすこし口調を強めてそういった直後である。

 夜の街に、どこからともなく一羽のカラスが飛来した。まるで夜空の闇の一点が雫となって落ちてきたようであった。

 カラスは「アアッ」と一声鳴き上げたかと思うと綾幻の頭上で大きく羽ばたいて減速した。

 綾幻はカラスに視線を投げると誘うように頭を引き、勢いよくひじを振り上げた。カラスはふわりと、その水平になった二の腕辺りに止まった。

 唐突に、その場の空気が変わった。夜の繁華街である。異常な空気を感じた人々が人垣を築き始めていた。

 そこそこ大きさのあるカラスは威嚇するような黒い瞳でこちらを見ている。大きなくちばしを開き、再び一声鳴き上げた。

 綾幻も睨むような目つきでこちらを振り向いた。もう一方の手は握り締めたこぶしを下ろし、まさに仁王立ちである。すさまじい迫力であった。先ほどまでとは打って変わった、青白く生気のうせたような顔で、その瞳だけはなにかを訴えるように強い光を放っていた。

――これは、使い魔? 式神? インチキ宗教の勧誘どころじゃないぞ……

「あなた!」

 綾幻が声を上げた。鬼気迫る表情とはこのことだ。思わずたじろぐ陽介に、追い討ちをかけるように綾幻は続けて叫んだ。

「追い払って!」

 一瞬の間があった。

「えっ?」

「カラス! 怖い!」

 陽介はしばらく考えたが、すぐに状況を理解し、持っていたカバンでカラスを脅かして追い払った。

「笑わないで」

 顔に生気を取り戻した綾幻が言った。陽介は自分でも気付かぬうちに微笑んでいたらしい。

「いや、失礼」

「で、私の話を聞くの? 聞かないの?」

 やけくそのような綾幻の言い方であった。

「変な勧誘ならお断りだよ」

 そういってはみたものの、デート代くらいならだまされてやろうか、程度には思い始めていた。ただの勧誘とは違う雰囲気も、確かにあったのだ。

「きみ、あんみつとか好きでしょ」

 陽介はそう誘って歩き出したのだった。

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