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 神奈川県は藤沢市。そこが小日向陽介と西野夫妻の地元であり、小田急線藤沢駅は陽介が一時期電車通勤をしていたときの折り返し通過駅である。

 新一の依頼から数日間、陽介は久しぶりの電車通勤を続けていた。

 今日も陽介は帰宅途中の藤沢駅で下車した。本来ならば片瀬江ノ島方面に折り返す車両にそのまま乗車して家路を辿るのだが、藤沢駅前のとあるコーヒーショップに立ち寄るのである。

 そのコーヒーショップは占い師と初めて出会った場所であった。

 陽介は付近のファストフードショップの店内を何軒か窺い歩き、最終的にそのコーヒーショップでコーヒーを飲みながら窓の外を眺めつつ、占い師が通りかからないか、あるいは入店してこないか一時間ほど待つのである。

 自分にできることは限られており、時間も無尽蔵ではなかった。無策ではあるが、なにも手がかりがない以上、そこに通うしか手はなかった。

 ただ、JRを含む鉄道三社が乗り入れる接続駅である。人の流れはそれなりに多い。仮に占い師の活動拠点がここ周辺であったとしても、再会はまさに雲を掴むような話であった。

 やがて、コーヒーショップが見えてきた。歩道に面したガラス張りのカウンター席は客で満席だ。近づくにつれ、カウンターの客の容貌が判別できるようになる。

 陽介はその中のある女性客に目を凝らした。

 ダークグレーのパンツスーツ姿のその女性客は、指を絡めた両掌をテーブルの下で膝の上に乗せ、窓の外を眺めていた。

 デコルテジャケットというのであろうか、逆三角形に大きく開いた胸元と、七部袖から出ている腕の白さがひときわ印象的だ。

 更に距離が近づくと相貌の仔細が見えてくるが、記憶の輪郭が甦るほうが早かった。

 眉の上で切りそろえた前髪と、耳を隠す程度の長さで頬にかぶさるサイドヘアは一見ショートヘアの印象だ。しかしあのときと同じなら、そこそこ長い髪を後ろでシニョンにまとめた髪型のはずだった。

 目じりの上った大きな目は無表情で、視線はともすると冷たいが、やや高い位置にある筆で短く払ったような眉が、どことなくのんびりとした印象を与えなくもない。

 彼女だ。

 間違いない。あのときの占い師だ。

 占い師を発見し、いまさらながら気付いたのは、自分の気持ちの高揚である。

 実は初めて女占い師と出会ったあと、そのたった一度の出会いが忘れられず、しばらくこのコーヒーショップに通っていた時期があったのだ。あのとき、陽介は間違いなく女占い師に惹かれていた。

 とうとう女占い師には再会できず、あきらめてここに通うこともやめてしまったが、ほぼ毎日、二ヶ月ほども通ったであろうか。

 あれから約一年。用事があって藤沢駅を利用するときは、最近でもこのコーヒーショップまで足を運ぶことはあった。ただしそれはなかば「いつもの店」という習慣のようなものだった。

 この店が頭に浮かぶときに彼女のことを思い出すことはあっても、当時の熱などとうに冷めたと思っていたのだが、それが見事にぶり返したようだった。

 しかし当時あれほど通って会えなかったのだから、もう二度と会えないものだと思っていたのだが、これほど簡単に見つけることができるとは。

「よかった」

 ようやく出会えた。自分の気持ちはさておき、これでとにかくも新一に面目が立ちそうだ。

 しかし歩みを速めようとした陽介は、二歩、三歩と足を進めて立ち止まってしまった。

 ようすがおかしい。

 男がふたり、女占い師の背後に立っていた。彼らは彼女になにか話しかけているようだった。しかし彼女は黙って窓の外を眺めている。

 すると男の一人が女占い師の座っているイスとテーブルに手を掛け、彼女の顔を覗き込むように顔を近づけた。あきらかにからんでいる。

 女占い師はまるで男たちが見えないかのように、すっくと立ち上がり、出口に向かって歩き出した。

 男たちも後を追うようについてゆく。男たちの顔はあきらかな威嚇の表情をしていた。

 店内の何人かは三人の動向に眉根を寄せながらも注目している。どうやら男たちが怒鳴り散らしているらしい。

「このアマ、どういうつもりだよ!」

 出口の扉が開くなり、男の怒号が聞こえてきた。

――ああ、ヤバイ……

 せっかく見つけた占い師であったが、陽介は日を改めたい気分でいっぱいだった。揉め事は苦手だ。暴力沙汰は輪をかけて苦手だ。高揚感も雲散霧消していた。

「おい、断るにしたってなにか言ったらどうだよ」

「ガン無視って、なめてんのかコラ」

 男たちは口々にわめき散らしている。女ひとりに派手なすごみようだが、さしずめ人目のある場所であからさまに無視されたことに激昂し、つい出してしまった大声に引っ込みが付かなくなってしまったのだろう。

「ムカツク女だな、さらうぞ、あぁ?」

 なんとも物騒な言葉であるが、あながち単なる脅しとも思えない。そういうことを割と簡単にやってのけそうな連中ではあった。

 係わり合いを避けるように、三人の周りだけ人の流れが避けていた。

 しかし、よほど肝が据わっているのか、女占い師は表情ひとつ変えずにそこに立っている。

 逆に情けない話だが、陽介は自分が暴力的、非暴力的に関わらず、あの場に颯爽と乗り込んで事態をなんとかできる技量を持っていないことを自覚していた。

「どうしよう、どうしよう……」

 自分でも気付かぬままそう声に出してつぶやきながら、それでも陽介は一歩、さらに一歩と足を進めた。勇気を振り絞って、というよりは、これも無意識だった。気付いたときには人の流れの岸まで来てしまっていた。

 ちょうどそのときだった。

 男の一人が女占い師の手首の辺りを掴もうとした。掴もうとして、悲鳴を上げる。

「ぎゃあ」

 男は女占い師の手首を掴もうとした腕を抱え、地面に倒れて身もだえていた。

「どうした」

 もう一人の男が倒れた男に聞いた。

「コ、コイフ……ハニア、モヘエウオ」

「なんだって?」

 よほどの激痛なのか、倒れた男はろれつが回っていなかったが、なにか持っている、そう言いたいらしい。

 倒れた男に気を取られたその男の一瞬の隙を突くように女占い師は動いた。

 彼女の動きは鮮やかだった。まるで互いに接する円が一方の円周を転がるように、その身を回転させながら男の背後に回り込んだのだ。バレエか社交ダンスのターンのように優雅にも見えたが、たとえ男が彼女を注視していたとしても、彼女の移動先を予測できなかったに違いない。

 女占い師は男の背後を取ると同時に男の身体のどこかを右拳で突いたようだった。バレエのような動きであったはずが、気付けばまさしく格闘技の打撃技を放った後の姿勢になっている。足を開いて根の張ったように力強く踏ん張るその姿はなんとも勇ましい。しかもその動きには破綻が一切なかった。

 彼女の手の中になにかがあるようには見えなかったが、右手の指は妙な形に結ばれていた。じゃんけんのチョキを閉じて握ったような形だ。

 気付くと地面に転がる男は二人になっていた。男たちは寒さに震えるように全身をかじかませている。

――なんだ?

 なにが起こったのか。陽介は目を白黒させた。小柄な若い女性に、あらぶる大の男が二人、なすすべなく地面に転がされたのだ。

 女占い師は身体を自由にできないようすの男たちを無表情な眼差しで見下ろしながら、静かに言った。

「少なくとも十分はまともに動けないはずよ。三十分もすれば普通に動けるようになるから、そのままそこで寝ていなさい」

 男は女占い師の足首をつかもうと腕を伸ばそうとするが、苦痛を叫んですぐに腕を縮めてしまう。ゴムかバネにでも動きを阻まれているようだったが、体を伸ばそうとすると激痛が走るのだろう。

「むちゃすると、筋を痛めて一週間は難儀するわよ。それと、今後わたしをどうかしたいのなら……」

 女占い師はそこまで言うと倒れている男のそばにしゃがみこみ、耳元でなにかささやいた。

 男の苦痛の声は無念の唸り声に変わり、不思議と体を動かそうともがくのを止めておとなしくなった。

 女占い師は立ち上がり、陽介のいる方に向かって静かに歩き出した。自然と人垣が割れる。

 女占い師は歩きながら、ふと視線をこちらに向けた。

 目が、合った。

 彼女は三歩ほど陽介と目を合わせたまま歩くと、すぐに自分の歩く先に視線を戻した。そして呆然と立ち尽くしている陽介の横を通り過ぎようとしたとき、なにかに気付いたように立ち止まり、耳を傾けるように少しだけ陽介のほうに顎を向けた。

「あなたは、なにか用?」

「あ、い、いや」

 女占い師は、今度はきっちりこちらに顔を向け、値踏みするような目でしばらく陽介を見つめたが、再び元の方向へ歩き出した。

 陽介はあわてて呼び止めた。

「ち、ちょっと待って。きみ、あのときの占い師だよね」

 女占い師は立ち止まって振り返った。

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