1
小日向陽介は、座卓に視線を落としたまま、目の前に座る男の顔をまともに見ることができないでいた。余りにも気の毒だ。
座卓の上には小鉢料理がいくつかと、まったく進まない酒のグラスがふたつ並んでいた。四人がけの半個室の座敷ではあるが、二人でちょうど良い居心地になる、その程度の空間であった。
二十代も後半となった陽介が、親しい仲間とふたり、あるいは三人程度で落ち着いて飲みたいときに利用する居酒屋である。飲み代はそこそこ張るが、ばかみたいに飲み食いするわけでもないし、チェーンの大衆居酒屋の料理とは比べ物にならない旨いものをつまめる。なにより騒々しさがなくて雰囲気がよかった。今日のような込み入った話にはちょうどよい。
対面の男は憔悴しきっていた。脇に脱ぎ置いてある上着はうっすらとくたびれ、ワイシャツの襟にも張りがない。
男の名は西野新一。同じ中学校に通った陽介の友人であり、里美の夫。そして大地の父親である。
里美はもともと陽介の幼馴染だった。
特に実家同士が親しかったわけではないが、町内で商店を営んでいた里美の両親がたまたま陽介を気に入り、ことあるごとにお呼ばれをするような関係になった。
里美とは日常的に多くの時間を共に過ごすような関係ではなかったが、それでも花火大会や初詣など、イベント事の思い出は少なくない数を友人の一人として里美と共有している。
中学生時代、陽介の友人となった新一がそこに加わり、陽介だけが別の高校に進学すると、その手の思い出は里美と新一がふたりで築くことの方が多くなっていった。
ただ中学生時代に深めた友情が強く、また里美が積極的に取り持つようなこともあって、その後も三人の関係は親密であった。
大学を卒業後、新一はすでに就職していた里美と結婚。さらに二人のあいだに子供が産まれるとさすがに独り者の陽介とは生活のリズムが合わなくなり、最近では年に数回会うかどうかになっていたのだった。
数か月前の大地の転落死事故後、新一と顔を合わすのは初めてだ。
事故は当日、テレビの短いニュースで知った。すぐさま新一と連絡を取ろうとしたが電話は繋がらなかった。
翌日仕事帰りに新一たちの住むマンションに赴いたときも、気後れが勝って引き返してしまったのだ。
その後も新一とは連絡が取れなかった。実家への連絡を考えなくもなかったが、恐ろしくなってやめた。特に里美の実家には自分は絶対に連絡できないと思った。なにをどう話していいのか、まったく想像ができなかったのだ。
しばらく経って新一のほうから電話がかかってきた。
新一は、里美のことを考えてこれ以上身辺を騒々しくさせたくなかったため、知人一切との連絡を絶ったこと、葬儀は身内だけで執り行われたこと、「それでもお前にだけは連絡するべきだった」と、陽介に連絡するのをためらったことの詫びを伝えてきたのだった。
事故についての詳細も聞いた。
里美が洗濯物を干すために洗濯機とベランダを往復しているとき、つい開け放しておいた窓からベランダに出てしまった大地が、観葉植物用の棚に上り地面に転落したのだという。
かける言葉もなかった。
おもはゆくて口に出して言ったことは一度もないが、陽介は二人を生涯の友と思っている。多感な時期を共に過ごした思い出はなにものにもかえがたい。どうにかして力になりたかったが、どう声をかけるべきか、家庭も子供も持たない陽介には新一たちの傷心は想像を絶していて、なに一つ言葉が思い浮かばなかったのだ。
その後も気おくれがひどく、気がかりではあったもののどうしても陽介の方から連絡することはできなかった。
いまから数日前、会って話したいと新一から連絡があったとき、ようやくきっかけがつかめたとほっとしたものだったが、実際に話を聞いてみれば、やはり陽介には重すぎる話であった。
「それで里美、いまは落ち着いているの?」
「普段は少しぼうっとしているだけで、なにも問題ないんだ。ただ、ときどき大地のことを思い出して、半狂乱になる。薬も役に立ってないみたいだ」
新一はむしろ無表情に言った。ただ、疲れが色濃い。
「たいへんだなあ……」
「あれは不幸な事故だ。おれも里美をゆるそうと努力している」
そこまで言って、新一の表情が微妙に強張った。口調が変わる。「でもな、陽介。正直どうしようもない気持ちもある」
身体のなかの滓を、いらつきとともに吐き出すような声だった。
里美に対する新一の実家からの風当たりも相当強いようだ。この吐露に至るここまでの話を聞いてきた陽介は、心底同情した。
「しかし気持ちはわかるが、おまえがゆるさないなら、里美はどうなっちゃうんだよ」
「おまえならゆるせるのか?」
新一は陽介の言葉をさえぎるように、小さく鋭い声で言った。
陽介が押し黙ってしまうと、新一は力なく自嘲するように鼻で笑った。落ち着いた口調でつぶやく。
「あいつ、でる……って言ってる」
「でる?」
陽介はまったく何のことかわからずに、オウム返しをしてしまった。
「大地が」
一瞬考え、その意味を理解した陽介は眉根を寄せた。
息子が幽霊となって現れる。自分の不注意で息子を事故死させた呵責に正気を失いかけている妻が、そう口にすると言っているのだ。
どのような気持ちでいま新一がそれを打ち明けているのか、胸が苦しくなる思いだった。
「でるたびに、あの日のことを繰り返すらしい。何度も、何度も」
新一は、ぽつりぽつりと言葉をつなぐように喋った。「おそらく、罪悪感が見せる幻影だろうが、考えてみろ。里美は毎日自分を責めつづけ、寝ては悪夢にうなされ、起きては幻影に悩まされる……毎日、毎日……もう、限界だ」
「新一」
「ゆるそうにも、忘れようにも、それをさせてくれないんだよ」
言葉を失い、陽介はただ新一を見つめた。
しばらく沈黙が続き、再び新一が口を開いた。
「なあ、陽介」
そして明らかに迷いの表情を浮かべながら続けた。「おまえ……以前おもしろい霊能者の話、していたよな」
霊能者。その単語が新一の口から出ることがまず意外だった。
少年時代、オカルト好きの陽介がその手の話を振っても全く興味を示さなかった新一である。藁にもすがるという言葉があるが、人はここまで弱るものなのかと思い知らされた。
「ああ、あの占い師のことか。たしかに本業は浄霊とか言っていたけど……おまえ、そういうの信じてないだろう?」
「おまえが信用するんだから間違いないんだろう」
「そういう言い方はやめろよ。おれはネタとしてオカルトが好きなだけであって、信じているわけじゃない。あの時は歩いているところをいきなり呼び止められて、勝手に占われたんだ」
かなり前のエピソードだった。
陽介自身、あのときの人物を「占い師」と呼ぶのは、あえてのことだった。結果的に浄霊まがいのことを経験したので、本来なら件の人物を霊能者と呼ぶべきなのだろうが、そう呼ぶことはためらわれた。
占術とは端的にいえば、「身体的特徴や任意の人為現象などから抽出した特定の情報を、それぞれに体系化された理論に基づいて解釈し、一見無関係な事象を認知、予見する方法」である。
その理論に科学的根拠を見出すのは難しいが、その方法論は第三者が確認でき、基本的には誰でも習得して実践可能だ。この場合非科学的な力が本当に存在するかどうかは問題ではない。
当然のことながら「当たるも当たらぬも八卦」ではあるが、オカルトとしてならば了解可能なのである。
しかし霊能者となるとこれはもはや言った者勝ちで、多くの場合方法論もへったくれもない。「先日、酔った勢いで辻占いに観てもらったんだがね」というのは雑談のネタにもなろうが、話題の登場人物が霊能者ともなるとさすがに眉唾過ぎてはばかられる。
「でも当たったんだろ?」
「まあ……」
新一の口ぶりでは、その占い師の一件以降、陽介がスピリチュアルなことを信じるようになったかのようであるが、そういうわけではない。そういうこともあるのだなあという、ただそれだけのことで、それ以上でも以下でもない。トリックでした、と言われれば「ああそうでしたか」となる、その程度のことだ。
「コールドなんとかっていったっけ? 話術や偶然で説明できる範囲を越えているって、感心していたじゃないか」
「そりゃそうだけど……」
「信じないまでもオカルト好きを自称するおまえが、なんとなくでも認めたんだから、きっとそんなこともあるんだろう」
「そうだとして、どうするつもりなんだよ」
「紹介してくれないか、その霊能者を。たとえペテンでも、大地の供養が里美の気休めになるなら、それでいい。大地のためにも、里美はあのままじゃいけないんだ」
「なんだって?」
陽介は場にそぐわない頓狂な声を上げてしまった。
そういう流れにはならないはずの話題であるはずだったのだ。おそらく新一は忘れているのだろうが、当時陽介が新一に話した占い師のエピソードは、その能力が主題ではなかった。
新一も、陽介がその占い師の「何について」熱心に語っていたか思い出せていれば、あのときの陽介の占い師に対する評価は当然のことながら割り引いたはずだ。
しかし、それについてとてもではないが言い出せる雰囲気ではなかった。
「おれだって知り合いじゃないぞ。あのときたった一度……」
「たのむ!」
新一が有無を言わさず陽介の言葉をさえぎって頭を下げた。陽介はため息をつくしかなかった。
あのときの出会いはまったくの偶然だった。たしか一年ほども前のことだ。その占い師とは連絡先を交わしたわけでもない。
陽介はしばらく考えた。オカルトになど無縁な新一のことだ、よほど事態が切迫しているのだろう。力になってやれることがあれば、力になりたい。
「わかった、できる限りのことはするよ。心当たりが皆無というわけでもないが、ただ期待されても困る」
陽介はそういうと渋い顔をして続けた。「それと、たかが頼みごとなんかでおれに頭下げるなよ」
新一は頭を下げたまま黙っていた。
「次に立場が逆転するようなことがあってみろ、おれがおまえに頭を下げる姿を想像したら、不愉快でたまらない」
陽介はそういって微笑んだ。
新一の頬にも、力なくではあったが、ようやく微笑が浮かんだようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます