幻術士 除霊屋綾幻

藪住

プロローグ

 締め切ったベランダの窓を通して、子供たちの遊ぶ声がマンション敷地内の広場から小さく届いてくる。

 日差しが大きく傾く時刻だ。厚手のカーテン越しに差し込む濁った午後の光が、明かりを点けていないリビングを満たしていた。

 一部だけ開いたカーテンの向こうに、雛壇状の棚が見える。ハーブの鉢植え用にとベランダに設置したものだが、いまだにそこに鉢が並んだことはない。

 西野里美は、リビングのソファに座っていた。いつそこに腰を下ろしたのかは覚えていない。何時間こうしているのかもわからない。淀んだ空気は時間の流れまで停滞させているようであった。

 里美はいまにも崩れそうにうなだれ、なにかをぶつぶつとつぶやいている。頭髪には櫛も通しておらず、顔には明らかにやつれた影が落ちていた。

 童顔の里美は二十七歳という実年齢よりも若く見られることが普通であったが、いまは逆に十は老け込んで見えるありさまだった。

「ママ」

 画質の悪い静止映像のようなリビングに再び動きを与えたのは、里美を呼ぶ幼児の声であった。

 里美は弾かれるように身体を起こし、振り返った。

 リビングの入り口に、三歳程度の男児が立っていた。里美の息子、大地であった。

「大地!」

 里美は転び寄って我が子をかき抱いた。「ごめんね、大地ゆるして!」

 抱いた、はずだった。

 大地は消え、気付くと里美は空を抱いていた。

「だいちぃ?」

 里美は夢遊病者のように立ち上がると、ぐるり、ぐるりと首を巡らせ、うつろのような危うい目で辺りを見回した。

「だいちだいちだいちだいち……だあいちぃ」

 神経質になだめるように、あるいは早口でささやくように子供の名前を呼んだ。

「ママ」

 再び、里美の背後から大地の声がした。

 振り返ると、大地は窓の外、ベランダに立って里美を見ていた。

 その姿を見た里美は、虚ろな態度を豹変させて目を見開き、ほとんど悲鳴のような金切り声で息子の名を叫んだ。

「いやあっ、だいちぃぃぃぃ!」

 里美は窓に飛びつき、開けようとする。開かない。動転していて錠がかかっていることに気付くまで、いくばくかの時間がかかった。すぐさまクレセント錠のハンドルに手をかけるが、これがどういうわけか溶接された部品のように動かない。

「だいちっ、そこでじっとしていなさい!」

 大地は必死に錠を外そうとする母親に窓ガラスの向こう側から視線を送っていたが、やがて興味を失ったように背を向けた。

「いやっ! だいちっ、ママを見て! こっちを向きなさい! それに乗っちゃだめぇ!」

 大地は母親の声には耳を貸さず、雛壇状の棚に手をかけた。つたない動作で一段よじ登る。

「やめて、ダイチー! 下りて! そこから離れて!」

 里美はサッシが音を立てるほどクレセント錠のハンドルを掴んで力任せに揺さぶった。小柄な里美のどこにそんな力が秘められているのか、錠よりも先に窓そのものが桟から外れそうな勢いであったが、無情にもハンドルが動くことはなかった。

 その間にも大地はもう一段上に登ってしまっている。最上段に足をかけ、そこに登りきると、今度はベランダの縁に手を掛けた。広場の子供の声に誘われるのか、大地は下を覗き込んだ。

「あああ、だめぇ!」

 頭の重い幼児が、不安定な足場で前のめりに頭を下げれば、次にはなにが起こるか明らかだった。

 がたっ、と棚が手前に蹴られ、何事もなかったように元の位置に収まったときには、すでに大地の姿はなかった。

 もしかしたら、里美は一瞬意識を失ったかもしれない。

 いくばくかの精神的空白ののち、窓枠に縁どられた無人のベランダが、ひどくまがまがしい絵画のような迫力で里美に迫ってきた。

「いっ……いやあああっ!」

 里美の悲鳴は刃物のように鋭かった。悪夢の帳ならば引き裂くことができたかもしれない。

 しかし幼い我が子が転落したという現実は消し去ることはできなかった。

 次の瞬間、里美は本当に意識を失っていた。

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