宮沢賢治だと濡れたように真っ黒な上着

 マザーから今後の任務を俺の一任で遂行してもよい許可を得た俺は本題もそこそこにマザーと雑談を始めた。


「そういえば、メンバーって全部で何人いるの?」

「メンバーというのは、子供たちのことかしら」

「ああ。マザーの子供は俺を含めて十二人いるけど、孫を含めたらどのくらいになるのかなって。もしかしてもうひ孫とかいる?」

「そこまで繁栄していないわ。全部で三十九人いることになるわね。一番多いのは十六夜ちゃんの五人。一番少ないのはあなたの一人ってことになるんじゃないかしら」


「けっこういるんだな……」


 俺が知っているのはそのうちの三分の一も満たないって訳か。よく思い直してみれば俺の兄弟の全員が顔見知りってわけじゃないと思い当たる。多少の入れ替わりもあったし、普段共に行動しているわけではないから何となくしか知らないやつも中にはいるのだ。十六夜は珈琲ショップで顔を合わせているからたまに話すことぐらいならあるが、基本的には個人が個人的に依頼を請け負って解決し、どうしようもない時若しくは白と交戦した時、あとは最後の世界の視点を変遷する時にチームで対処することがある。


「ねえ、シャドウ」


 唐突に俺の名前ではないコードで呼ばれたので、反射的に身構えてしまった。「なんです?」と俺は何でもない風に、悟られないように返事をした。


「黒になる物って何かわかる?」


 ……え? それはいったい、どういう意味だ。なぞなぞなのか?


「ほら、腹黒いとかよく言うじゃない。あのひと黒いのよ、とか。そういう黒だって言われるもの何か思いつく?」


「ああ……そうだな。そういえば、会社の利益とかで黒っていうよな。赤字とか黒字とか」

「そうそう」

「他には、そうだな……。お歯黒とかは、直接的なだけか。ええと、死人に黒々とハエが集る」

「そうよ、その調子」


 やっと要領がつかめてきた。


「黒い鏡のように光を奪う、黒い地面が影のようだ、黒煙に覆われたようだ、暗闇と間違えて踏んでしまいそうなほど真黒、にくいほど真黒、インクをぶちまけたような黒、石炭みたいに、なべ底みたいに黒い、死んだように黒い」


「宮沢賢治だと?」


「濡れたように真っ黒な上着!」


「さあ、もう少し」


「黒い瞳、ごまの蠅、あいつは白じゃない黒だ犯人だ! ブラック企業、ブラックマーケット……ブラックカード」


「あなたの切り札ね。」


「お先真っ黒とか?」


「それは真っ暗ね」


「ええと、じゃあ――」


「あなたが私の誘いを受ける前に、言ったこと覚えてる?」


 俺がマザーに? 俺がマザーに誘われた時っていうのは、そう、確かあの珈琲屋に初めて行った時だ。


 ***

 

  それはとても天気のいい日だったことを覚えている。雲という雲を追い払った空は青い色が薄くなって白に近かった。俺は空き講の時間だった正午を二時間過ぎた頃ぐらいに、友人に紹介されたその珈琲屋に足を運んでみることにしたのだ。読書をするのに最適な環境だと言うので心を躍らせながら俺はその戸を開けた。雰囲気の良い鈴が鳴り、俺は控えめなメイドウエイトレスに先導されて一番奥の席に座った。なるほど、ここの席であれば窓の向かいの街路樹から差し込むほど良い太陽が心地いい場所だと、俺は思った。雨が降ればそれもなお、読書を捗らせてくれる雰囲気と静けさをもたらしてくれるように思える。店内に流れている音楽はものすごく控えめなジャズで、時折聞こえるサックスがここにジャズがあることを教えてくれた。


「どうぞ」


 俺はブレンドコーヒーを注文し、それが運ばれるまで三ページ文庫本を読み進めた。コーヒーが来たのでいったん閉じてそのまま何も加えずに口をつけた。さすがにブラックだと苦い。だが、俺はその苦さに驚いていた。なんと砂糖を入れていないのに甘いのだ。いや甘いという表現は正しくないのかもしれない。正確には旨味成分とか、そういうのだと思うんだけど、でも俺にはその黒い中に甘さを感じたのだ。


 もう一口運ぶ。


 ほっとした。そしてまた俺は感激した。これは中毒になるかもしれない。そんなここ数日では最高の気分だった。


「いらっしゃいませー」


 店内にお客がやってきた。しかし、店内は静かに賑わっているため空いている席が少ない。来店した優しそうな中年のご婦人はメイドウエイトレスを制して俺の方へとハイヒールを鳴らしてきた。


「もし。気を悪くされなければ、相席しても構いませんでしょうか」


 俺は突然の申し出に対してあからさまに戸惑ったが、その控えめな態度を無下にする気にはなれなかった。これもまた何かの縁だと思い「はい」と答えた。


「いい趣味しているのね。学生さん?」

「はい。キタノ大学の経済学部です」

「そう。突然お邪魔しちゃってごめんなさいね。どうぞ、読書を続けてくださいな」

「あ、はい」


 ご婦人は紅茶をレモンで注文していた。それが机に運ばれてくると、仄かに俺の鼻にもその香りが届いた。紅茶独特の暖かい香りに、今度来たときに注文してみようかと思っていた。その時だった。


 どこか遠くでクラクションが長くなっているのが聞こえた。文字列から思わず目線を上げると、その直後に俺は衝撃を受けた。


 大きな衝突音。遠くに聞こえていたはずの警笛が目の前にあり、その発信源が壁を突き破って俺へと向かってきた。徐々に周囲の音はそのクラクションだけが耳に入るようになり、世界がゆっくりと動くようになった。もちろん俺は動けない。


 俺は死ぬのか。そう思った。だが、死ななかった。結論から言うと俺は死んだことになるのだが。


 ……この言い方は非常に語弊があるな。というわけで、少しばかりこの時のことを説明すると、現実世界の俺はここで死んだ。そして俺自身、つまり魂を持っている方の俺は体を動かせないままだったのだ。目の前の車もその慣性の法則から外れて進むことを停止し、壊された壁やガラスの破片もまた重力に反抗的になり、宙に浮かんだままだった。


「これは、いったい……」


 そしてご婦人、後のマザーはこう言ったのだ。


「ほんと、いい趣味しているのに残念だわ。でも大丈夫。私があなたの裏側になってあげる。影人かげひとさん。まだ生きてみたかったら、私についてきなさい」


 こうして俺はマザー子供になった。ついて行った先のマザーのアジトで俺は親となる女性にキスをしてこの能力を得た。そして、俺はマザーのアジトで能力得る前にこう言ったのだ。


「マザーって呼べばいいんだっけ? じゃあ、マザー。一つだけ。マザーのいう黒ってなんなんだ?」


 ***

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