人に頭を下げられるのはどうにも慣れない
「その困ったことというのが、ちょっとした噂なんですよ。いや、いじめとかじゃないんですけどね、あまりいい内容の噂話じゃなくてですね。こちらがそのうわさを否定するとね、それがすぐに、意外にも、あっさりと受けいれられちゃうんですよ。先生に一度相談したこともあったんですけどね、ただの勘違いってことで済まされちゃって。それでもこれが止むことはなくて。今もなかなか。自分たちで努力しようにも、捻れそうな頭を持ち合わせていないし、できるのならすでにやっている。誰かに助けを求めようにも、周りは敵だらけだ。四面楚歌だ」
「お、おお」
俺は俺で圧倒されていた。それは話の内容でも、問題の深刻さでもなく、ただ話す勢いだ。彼女はすごい。若さとは何かと聞かれれば、俺はこの少女――いや、美少女を差し出すことにするだろう。二十代入りたての俺が若いと思ったり、思われていたのは錯覚だと思い知らされる。人は二十を超えると老いる一方なのだ。右肩上がりの十代に勝てる要素など微塵もない。その七変化する表情には全てに感情が乗っているのだ。
「そこで、私は助けてくれる人を探していた時に上野さんの噂を聞いたのです。それで、だから、」
だからこそ、最後に見せた真剣な表情との落差はよりはっきりと、明確に判別できた。それだけでこの依頼は受ける価値ありというものである。
「急な話で申し訳ありませんが、どうかお願いします」
彼女は深く頭を下げた。その喜怒哀楽を隠し切れない髪を重力に従わせて。
「いいよ、分かった。分かったから、顔を上げてくれ。頼むから。人に頭を下げられるのはどうにも慣れない」
「それじゃあ――」
星はそっと、視線を上げる。前髪はまだ額に張り付いている。
「もちろん、君の相談を受けることにするよ。解決に尽力しよう。まずはその噂の出どころと頻度、内容を調べることにする。多少踏み込んだ調べ方をするかもしれないが、構わないかな?」
「はい。私たちの現状が改善されるのであれば」
「いいよ、よかった。ああ、それよりも」
俺は声のトーンを一つ落とす。
「――なあ、俺の噂を聞いてきたってことはぶつは用意できているんだろうな?」
「ええ。はい、どうぞ……」
肩を少しピクリとさせた星は鞄から一つの箱を取り出した。真黒な紙製の箱。それを俺の前へと滑らせて来る。俺はそれを受け取り、たばこを詰めるようにトントンとしてから、中身を確認した。
「――いいよ。じゃあ、いこうか」
「えっと、どこへ……?」
「ん? 学校だよ。俺は探偵でもあるけど、学生でもあるからね。学生は学校に行くんだよ。学生だから」
「ええと。これから、講義だったんですね。すみません、長話で引き留めてしまって」
「いや、講義じゃないんだ。サークル活動だよ。今日はちょうど練習日でね、だから学校へ行かなくちゃいけない。もちろん、君の依頼を蔑ろにしたりはしないよ。でも、だからと言って俺の生活の習慣が変わるわけじゃあない。すまないが、明日からでも構わないかな。急ぎの問題が起きた時にはここに連絡してくれ。メールでも電話でも構わない」
「はい、分かりました。よろしくお願いします」
「いいよ。じゃあ、出ようか」
丸まった伝票を手に取り、頭を下げる少女に片手を上げるだけで制する。俺は普段よりも少しだけ多い会計を済ませるためにレジへと向かった。
***
二十分ほど前に着信が来ていたようで、全く気づかなかった俺は折り返しの電話を掛けた。それから、続けて二本ほど電話を掛ける。関係各所への根回しが終了したところで、今度はサークルのチャットを開いた。今日の練習には参加できない旨を伝え、散々に悪口を書かれた挙句に許可を得た。その足で約十分ほど。駅の裏側にあるショッピングセンターの向こう側からは子供たちの元気な声が聞こえてくる。正門から入り、玄関口で来客の対応をしていた用務員に用を伝えると少し待つように言われた。ランドセルを家へ持ち帰る子供たちに興味と好奇心の目で見られるのを笑顔で返していると、俺の名を呼ぶ声が聞こえた。俺が振り返ると、荒井先生は小さく礼をした。荒井先生に連れられて、客室に通された俺は挨拶もそこそこに本題に入った。
「先ほどは電話にすぐ出られずにすみませんでした。先生、今日はどうでしたか」
「うん。なかなか厳しいね。今日は鉛筆二本とハンカチ、筆箱の中にあった写真がなくなったよ。物を取られたのは相変わらず藍ちゃんの方で、大輝くんは手を出されることが多いみたい。きっと、かばっているんだろう」
「そうですか」
「僕も注意しているし、職員会議でも度々話されている。だけど、みんな恐れているんだ。自分の責任で事態が悪化することを。白日の下に晒された時に、自責を問われたくないんだろう。でも、だからといって彼女たちが救われないという理由にはならないはずなんだ。僕の教職自体はどうなったって構わない。それを賭して指導しても効果はきっと一時的なものだけで、これだけではどうにもならない。急に世の中が寛容になるわけではないから。個人の力には限界がある。だから君にお願いするしかないんだ」
「それだと、まるで俺に依頼するのはまさに最終手段であって、正攻法ではないように聞こえるんですが」
「実際そういうことをやってるじゃないか。真っ当ではない逃げるような対局ばかりで、向き合うことが辛くなった時の逃げ道ばかりつくっている」
荒井先生は黒色の手のひらサイズの箱を差し出した。俺はそれを詰めてから中身を検め、斜めに溜息を吐いた。
「明日から、俺の仲間がそちらに向かう予定になっています。最低限の下調べを行って問題がなければ、予定通りに実行します」
目の前だけ見ていると、それはそれは一つのことしか起きていないように見えるが、東西南北見渡せばすべての方角に異なる出来事が起きていることが分かる。目の前の事象をどうにかしたいのであれば、その隣の駒を考えなければいけない。無論、二手・三手先をもね。
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