始まりは唐突で、なんの前触れも兆候もなく

「あの、上野うえのさん……ですか?」


 それは俺がいつもの珈琲屋で文庫本片手に一服していたときのことである。話の始まりは唐突で、なんの前触れも兆候もなく、いきなり誰かが俺に声を掛けてきたところから始まる。実際、俺はとても驚いた。文庫本を片手にノールックで持ち上げかけていたコーヒーカップは中身がこぼれ掛けたのだが、寸でのところで何かの法則が働いて縁のギリギリで止まった。危ない。ちょっとした動揺だったが、思わず思わぬ惨事を招くところだった。

 

 俺が湯気をまだ保ったままのカップを置いてから声の方を見上げると、そこには一人の少女がいた。俺が瞬間的に美しいと思ったその少女は、セーラー服を身につけていた。ということは、学生?


 誰だろう。


 俺はすぐにその少女の名前を探したが、出てこなかった。つまり、親しい知り合いや以前関わった依頼主である訳ではなさそうだ。前者は忘れたくはない名前で、後者は忘れてはいけない名前。では、その他に女子高生に知り合いはいただろうか。いや、少なくとも俺の知り合いには、こんなにも可愛らしい少女はいない。

 

 視点を変更。どこの学生だろうか。

 

 この辺りでセーラー服を着ているのは近所にあるあのお嬢様女子高校しかない。よって、俺はそこだろうなと思い至った。では、そのお嬢様が俺に何用だろうか。特段女子高生に、ましてや階級や生まれた家庭の違うお嬢様にナンパされるような格好の良さを持ち合わせているわけでもない俺である。自称探偵を名乗り、噂を垂れ流していることを鑑みれば答えは自ずと出る。以上より俺は彼女が依頼者だと断定した。

 

 その少女はそわそわとスクールバックを自分の前で握りしめ、不安で居心地が悪いような、そんな困った顔をしていた。その顔立ちは幼さを隠し切れずに残ったままで、髪の長さは先がぎりぎり肩に到達しないぐらいのショートヘア―。無論、染めてなどいない綺麗な黒髪。前髪に小さな髪留めを差しており、左右が反り返ったくせ毛が特徴的。腕の肌はやたらと白く、スカートはちょいひざ上ぐらい。化粧はしていないし、眼鏡もなし。


 第一印象をまとめると、謙遜的なお嬢様。


「ええ、そうです。上野です」

 

 一通り思索してから、少女の問いに俺はようやく答えた。警戒すべきことが多すぎる身の上である都合上、すぐに他人を疑ってしまうのは俺の最大の短所。そのおかげでできてしまった不安を増長させるようなしばしの沈黙。俺が彼女の期待した通りの名を名乗ると、その緊張した表情は幾分か和らぎ、少女は少し安心した顔になった。いや、美少女か。


 俺は彼女に席に掛けるように促した。彼女は素直に従って腰を掛け、そのままスイッチが入った。目尻を下げ、頬が紅潮しながら口元が綻ぶ笑顔は男の十人のうち三人を一目ぼれで落とし、四人を勘違いの恋に落とし、残り三人をそのまま恋の奈落へ落としてしまう威力を持っていた。俺はそれをまともに受けてしまう。


「――世の中にはいるもんだなぁ」


 星は荷物を横にぽんっと置いて、店員が差し出した水をくいっと飲んでから一度に捲し立てるように話し始めた。


「ふう。ああ、良かった。その、ここのコーヒー屋さんにいるかもしれない上野さんって人なら相談に乗ってもらえるって聞いたので。あっ、私桜ケ丘藤女子高校二年の加賀山かがやまあかりって言います。星って書いてアカリって読むんですよ、おかしいですよね」


 と、少女は自分を笑って、また笑った。


「いや、おかしくはない。実際に――」


 実際に星と書いてアカリと読ませる人名漢字は存在する。星にはただ宇宙に浮かぶあれの意味の他に、時や時間の意味も含まれているということを多くの人が知らないように、ただ人名漢字としての読み方を知らないだけで、別におかしくはない。俺は少し与太話をしようとしたが星は座り直すなり、急に前かがみになって本題に入った。


「あのですね、実は私の友達に美月ちゃんっているんですが、彼女、悩みがあって最近上の空なんです。彼女は立派なお嬢様なのですが、美月ちゃんの両親も元気がないって心配してて。だから――」


「ご注文はございますか」


 突如、話は遮ぎられた。店員が注文を取りに来たのだ。話の腰を横から思いっきり折られたのだから、それは不機嫌になっても仕方がないのだが星はただ驚いていた。それはきっと、日本人離れした綺麗な白髪とそのたどたどしくも、不愛想で淡泊な接客から外国人にしか見えない店員に驚いていたのだろうが、店員の方もどうやらタイミングをずっと計っていたものの、星の話す勢いに押されていたらしい。見ればわかる。


 やれやれ。


 いつものこととは言え、この人見知りな接客も、白っぽいエプロンをつけただけの簡素な制服も俺にとっては見慣れたもの。我を取り戻した目の前の少女は咳を一度切って、指を一本立てながら注文をした。


「アイスコーヒーで。あとガムシロ一つおねがいします」

「そこです」

「……えっ?」


 窓側のテーブルの端にはメニューや爪楊枝、フォークなどが並べられており、その一つにプラスチック容器に入ったガムシロップがいくつか小さな籠の中に入っていた。少女が次に店員の方を見た時にはもう不愛想な店員はもういなかった。


「あの人は十六夜さん。接客こそそつないが、彼女の入れる珈琲は絶品だ」

「へえー。上野さんはここの常連さんなんだ」

「ええ。星さんが聞いた通り、いつもここにいます」


 ブラックしか飲めない俺にとっては、ここ以外の珈琲には顔を歪めてしまうようになってしまったからな。他に通うところがないのさ。


「あ、それでですね」


 加賀山星は何事もなかったかのように数秒前を再開させる。

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