Stage 5-4
太陽の光が水平線の彼方から顔を覗かせるか否かという時間には、一行は動き出していた。
淡々と富士川を船で渡り、予定通り沼津まで徒歩で、そして狩野川の上流へとまた船で進む。物流のため行き交う船は少なくない。人を運ぶ船も定期的に往復しているので、大仁へは楽に到着することができた。
問題はここからの山道である。
大仁には幸い商人用の休息小屋が数軒あり、ほとんど掘っ立て小屋同然だが、1晩夜露をしのげるだけマシだった。ここで夜を明かし、体力を温存して亀石峠を越えることにする。
翌日、薄い靄が出ている中、山道を登り始め、なんとか峠に辿り着いた。休み休み来たが、誰もが額に汗を浮かべ肩で息をしている。
「すっごい疲れた……でも、ほら……」
大きく深呼吸した浜奈が指差す方を見ると、眼下に紺碧の大海原が広がっていた。朝靄も晴れて、少し日差しも強くなった。
「爽快な景色だな。大和の山々じゃ、こうはいかない」
浜奈の隣に立った必登が言った。必登は妹の頭にそっと掌を乗せて、軽く数回叩いた。よくここまで来たなという労いである。
するとその場に、横笛の音色が響き渡った。楓が道端の切り株に腰を下ろし、おもむろに吹き始めたのだ。どうしてそういう気分になったのかはわからないが、雄大な景色を目の当たりにして衝動に駆られたのかもしれない。だが、その判断は正しかった。
「なんだか疲れが和らいだ気がするよ」
俺もそんな気がしてた」
葛城王と老の会話に、他の皆も頷いた。楓の横笛を聞いていたら、体が軽くなったような感じがしてきたのだ。酷使してきた足の痛みもいつの間にか消えている。
熟睡してすっきりと目覚めた朝のような爽快さを得た一行は、急斜面となっている峠の東側を意気揚々と下った。海岸ぎりぎりまで迫る山を横目で見つつ、日暮れまで歩いて網代という土地までたどり着いた。
穏やかな小さな漁港があり、自分たちで釣った魚と漁民が道端に並べている新鮮な貝や干物や雑穀を買い求めると十分な食事にありつけた。まともな寝床はなかったが、使われていない堂を借りることができた。
再び波打ち際の道を北上し、ようやく熱海の町が見えてきた。町といってもそれほど大きくはない。海辺に近い土地には漁民らの家が連なり、山際に向かってちらほらと商人や農民の住まいが建っているというほどだ。
「じゃあ、早速、温泉に行こうか!」
歩き通しにも関わらず元気な第一声を発した千夏は、当てもなく砂浜を踏みしめて町中に向かっていく。
「もう、千夏ったら、待ってよ。私たちの目的は温泉じゃなくて朱雀の宝なんだよ!」
「わかってるって。そもそも朱雀は海じゃなくて熱源の近くに生息してるんだろ。だったらここで優雅に潮騒に耳を傾けてる暇はないってこと」
考えなしに行動しているようで、千夏の言うことはだいたい合理的だ。しばらく共に過ごして、秋依は大友家の奇妙な女人をそう評価するようになった。
(やっぱりあいつら俺たちの後をついてきてる)
峠を越えるまで一時的に姿をくらましていた例の烏と狐が、再び姿を現した。快晴ではあるが睦月の空気は身に応える。ふかふかそうな毛皮に覆われた狐が羨ましいと思いつつ獣たちの様子を見ると、狐と視線がぶつかった。
狐は大きな瞳を瞬きさせ、可愛らしい少女のように首を傾げている。上空を旋回していた烏が突然、カアとひと鳴きしたので、秋依は少し驚き降下してくる烏に意識を向けた。その時、秋依はどういうわけか烏が自分を励ましているように感じたのだった。
「とりあえず、情報収集をしましょうか」
最も若い宝天が建設的な意見を提案してくれるおかげで、目的が雲散霧消することはない。宝天が目指したのは寺だった。
山というほどの高さではないが、隆起し木々に覆われた土地の中腹に位置するその寺は海厳寺という。僧侶見習いの宝天が海厳寺の坊主に丁寧に挨拶と一行の紹介をすると、宝天が修行をすることになっている妙法寺と海厳寺は住職どうしが懇意にしているらしく、秋依たちが遠く藤原京からの客だということもありすぐに仏堂に案内してくれた。
「伊豆国は都からすれば辺境です。どのような目的であれ、ここまで無事にお越しになったのは御仏の加護あってこそかと。粗末な寺ですが、少しでもおくつろぎください」
「いえ、我々を受け入れてくださってありがたい。もしご迷惑でなければどこか空いている僧房か小屋を夜露しのぎに貸していただけないでしょうか」
第三者と何かを交渉するのは葛城王の役目だ。なにしろ王族だし、見た目としても人を信用させるには十分な威厳さを備えている。
智円という名の寺で2番目に地位の高い僧侶は葛城王のお願いを二つ返事で応諾し、僧房を貸し出してくれることになった。ただし、女を僧房に宿泊させることは禁じられているので、少し不便ではあるが、寺に隣接する市の管理棟の一角が用意されるそうだ。
宿の心配がなくなったところで、葛城王の隣に座っていた浜奈が智円に尋ねた。
「伊豆国の伝承で、熱海に朱雀が現れるという話をご存知ですか? あるいはそれに類似するような言い伝えがあれば……」
あらかじめ宝天から勅命で若手官吏らが各地の伝承を収集する任務で旅をしているという偽の、いや建前の目的を告げていたので、智円は特に驚きもせず浜奈の問いに答えた。
「はっきりと朱雀かどうかはわからないのですが、一部の海域が非常に熱く、魚が生きていけないという場所があり、その原因が妖魔の吐く炎なのではないかという噂は有名です。箱根の湖には龍が潜んでいるという話も聞き及んでいますね」
「宝天は東国に鳳凰が舞い降りる熱源地帯があるっていう噂なら知ってるそうだけど、やはり伝承は一筋縄ではいかないなぁ」
葛城王は腕組みをして溜息をついた。たったそれだけの動きでも、ほのかに優雅な香りが後方に控えている秋依の元にも漂ってきて、格の違いを実感させられる。
それはさておき、伊豆国はなかなか興味深いものだと思う。寺に引き籠っていても赤い守護神はやって来てはくれない。秋依たちはひとまず外を散策することにした。
智円が言っていた熱すぎて魚が死んでしまう海域は不思議なものだった。うっかり流れに乗ってその海域に紛れ込んでしまった哀れな魚たちが、白い腹を見せて虚しく海面を流れていく。広人が気合を入れて真冬の海に入ってみたところ、少し泳いで沖合に向かうと冷たい海水と熱湯が混じる場所にぶつかり、まさに温泉のように気持ち良い熱さだったと報告してくれた。
しかし、この日の収穫は特になく終わった。広人だけが温泉に浸かれたような結果となり、女子たちがうるさく文句を言っていた。
翌日は海側ではなく山側を調査することにした。緩やかな坂をゆっくりと進んでいくと、至る所で地面や重なった岩の隙間から湯気と熱湯が噴出しているのを目撃した。間欠泉だ。柵も何もないので近づきすぎると危険極まりない。人の背の高さまで熱湯が飛び出す場所もある。
「すげぇな」
一番単純な感想を漏らした千夏はどういう仕組みなのだろうかと好奇心に任せて穴を覗き込もうとし、慌てて必登に腕を掴まれて後退させられていた。
「千夏、気持ちはわかるけど火傷したら取り返しのつかないことになるよ。君のきれいな顔が台無しになってしまう」
「そうか。ありがとう」
真面目な必登は真剣に女の友人をたしなめたが、周りでその言葉を聞いていた仲間は様々な表情で互いに顔を見合わせた。勇ましいじゃじゃ馬娘に対して、普通の女子を気遣うような言葉を使い、しかも正面切って顔がきれいだと評したのだ。
「あいつだから言える言葉だな」
「そうだね」
老と葛城王は心中複雑な思いで言い合った。その後ろでは浜奈と楓がそれぞれ驚きと嫌悪をもって会話を交わしている。
「ねぇねぇ、千夏ったらちょっとびっくりしてるよ。あんなこと言われて、必登に惚れちゃうかもね」
「あなた、時々、すごい乙女思考に切り替わるわよね。あの筋肉バカに惚れる女がどこにいるのよ。それに千夏は乙女っていうより少年だし、そんな関係に陥る余地は皆無よ、皆無」
そんなに力説しなくても、と浜奈は苦笑したが、もしかして楓は嫉妬してるのではないかと思い、意地悪く楽しくなってしまった。
(案外、楓もわかりやすいなぁ)
だが、それについて指摘することはしないでおこう。自尊心の高い美女を怒らせると大変だ。
そして、話題の中心となった千夏は、特に変わった様子なく必登と広人の武人組とけらけら声を上げながら談笑し、歩き出している。いつの間にか、その横を烏と狐がちょこちょことついてきていた。
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