Stage 5-3

 どうにか夕餉の支度が整い、暖まった洞窟内で食べ始めた。

「明日の朝は富士川を渡る。沼津から熱海まで東西に進むのが最短なんだけど、ここの峠を女性を連れて越えるのは無理だ」

 必登が簡単な地図を見せながら説明する。

「伊賀から鈴鹿関に至るまで加太峠を越えたけど、あんな感じじゃないの?」

「箱根の山はその2倍以上の標高があるんだよ。しかも道は整備されてないらしいし、曲がりくねって迷う恐れもある」

 ではどのように東側に向かうかというと、沼津から狩野かの川を上り、大仁おおひとまで進む。それから下船して、東へ山間部を歩くのだ。この亀石峠なら箱根峠よりも低く、加太峠かぶととうげより少し高いくらいである。どんなにゆっくり歩いても3刻あれば十分、半島の東側に辿り着ける。後は、熱海を目指して北上するのみだ。

「了解。明日も早いから片付けたら寝るとするか」

 調理用の道具を洗って布で拭き、焚き火を消すと、一気に闇の帳が下ろされたように辺りが暗くなった。洞窟の中は小さな焚き火がそれぞれの通路にあり、夜でも暖かい。

 浜奈と楓は生まれて初めて洞窟の中で眠った。ひんやりとした地面は藁と敷物によって冷たさが少し緩和されているが、硬くて落ち着かない。自宅では羽を敷き詰めたような柔らかな寝床で寝ていたので、とても違和感がある。しかし、以前、秋依の家に遊びに行った時、秋依の寝床は冷たい床に敷物をただ敷いただけだと聞いたことを思い出した。

「無位の下級役人や衛士って、こことそんなに変わらない状態で暮らしてるんだね……」

 思わず浜奈が呟くと、楓が寝返りをうってこちら側に顔を向けた気配がした。

「秋依と広人のこと? 仕方ないわよ。そういう身分なんだから。ま、私たちも今、経験してるわけだし。……それにしても、この子、よくこんな場所で一瞬で寝られるわね。ほんとに大伴家の姫なのかしら。野生で育ったんじゃないかと思うわ!」

 浜奈は反対側で丸くなって横になっている千夏を見て、微笑んだ。

 この幼馴染はずっと昔からこうだった。天気の良い日、一緒に野山に遊びに行くと、千夏は早々と木漏れ日の当たる木陰を見つけては根本で丸くなって夢の中へ入っていくのだ。浜奈も真似をしてみるのだが、やっぱり木の根がゴツゴツしていて眠ることはできなかった。その代わりに、浜奈は千夏が起きるまで、可憐な花を手にいっぱい集めてきて花の冠を作ったり、木の枝に羽を休めに来た小鳥を眺めたりしていたのだった。

「楽しかったな、子供の頃。千夏はおてんばだったけど、10歳くらいまではまだ女の子の格好をしてたっけ。それでよく裳裾や袖を汚したり、破ったりして、おば様に叱られてた」

「当たり前でしょ。その年になったら、貴族の娘としての自覚が芽生えるものよ。私は母から横笛と琴をみっちり仕込まれたわ」

 楓は言いながら、懐の横笛を弄った。最初に母からもらった横笛はもう壊れて、今のは二代目だ。

 しばらく黙っていると、すぐ隣からも寝息が聞こえ始めた。

 話し相手がいなくなってしまったことがわかると、楓はゆっくり身を起こし、浜奈と千夏を目覚めさせないように静かに洞窟の外へ歩いて行った。

 意外と月明かりが明るい。風も凪いでいて、月の光がほとんど黒に近い濃紺の海原に吹き付けている。楓は清々しさを感じながら、洞窟から少し離れた場所へ移動した。そして、横笛を取り出すと、目を閉じ、繊細な息を吹き込んで静かに静かに音を紡ぎ出した。2曲めに入ったところで、楓は不意に人の気配を感じた。

 演奏を続けながら上半身を捻って後方を確認すると、長身の体格の良い男が距離を保って立っている。必登だ。

「何の用?」

 心地よい時間を苦手な人物に邪魔され、楓は短く言い放った。

「いや……。誰かが出て行った気配がしたから。女性が1人で外に出るのは危ないよ」

 偶然、楓が出て行く姿を見かけた必登は、護衛のつもりで後をついてきた。そうしたら、楓が横笛を吹き始めて、初めてその音色を聞いた時と同じように胸を射抜かれたような痺れた感覚に囚われ、聞き入ってしまったのだ。

 横笛から微かに流れてくる妙なる調べは、美しい乙女の溜息のようだった。銀色の月明かりに佇む楓は、月に住むと言われる仙女のように朧げに輪郭を浮かび上がらせている。きっと鋭い眼光を向けられても、必登は全く怯むことはなかった。

「邪魔してごめん。良かったら続けて」

「……高くつくわよ。楽師も顔負けの技量なんだから」

 事も無げに言ってのけた楓は、不機嫌をあからさまにしつつも演奏を再開した。1曲だけしか吹けなかったのでは、夜中に洞窟を出てきた意味がない。

 必登は瞳を閉じて、全身全霊を楓の音色に委ねた。甘さは感じられないが、切なく深い哀愁が漂う曲である。だが、不思議と悲しい気分にはならない。

 最後の1小節が終わると、余韻が波間に溶けていくように消えていった。

「俺はこの通り、無骨で風流の欠片もない。楽の造形も深くない。でも、その演奏がとても素晴らしいことはわかるよ」

「そう? 武官のくせに?」

 必登の穏やかな声の褒め言葉は楓の自尊心をくすぐったが、相変わらず、素っ気なく返事をしただけだ。武官ごときに何がわかるのよ。

 だが、冷たくあしらわれても、必登は微笑みを絶やさずに続けた。

「俺は……君の横笛が好きだ」

 君が好きだ、とはさすがに言えなかった。

 きっと楓は、妹の浜奈とは違って恋愛には免疫があるに違いないが、楓が武官の必登を好いていないことくらいはわかっている。賢く教養豊かな楓は、一流の文官の道を歩んでいる老のような知的な男を好むらしい。

 ところが、楓は別に老を男として意識しているわけではなさそうだ。これは必登にとっては幸運なことで、だから必登は焦らずにいられるのだろう。

 必登に横顔を見せていた楓は、敢えて必登に背を向けた。君の横笛が好きだと言われても、何と答えていいかわからないではないか。

 楓は必登から離れようとそのまま歩き出した。しかし、すぐに片腕を強い力で掴まれてしまい、立ち往生してしまった。

「ちょっと、離してよ」

 ほら、すぐに男はこうやって力ずくで女の動きを奪う。こちらの意思などまるで無視して……。優しい瞳のこの男も、本質的には他の男と同じなのだ。

 楓の脳裏に、同僚のある若い男に、人気のない建物で無理やり抱かれ、押し倒された記憶がよぎった。あの時は、近くを通りかかった浜奈と彼女の上司である尚蔵くらのかみ県犬養三千代が2人がかりで楓から男を引き剥がし、巡回していた兵衛に引き渡してくれたお蔭で何事もなかった。

 必登は名うての武官である。楓の抵抗などどうということもないはずだ。楓は力いっぱい必登を睨みつけようとして、「え?」と、目を丸くした。両肩が少し重くなったのと同時に、空気の冷たさが和らいだ気がする。

「まだ外にいるなら、俺の外套を貸すよ。寒いし暗いし、明日も朝早いから、ほんとは今すぐ洞窟に戻ってほしいんだけどね」

 必登が楓の腕を掴んで引き止めたのは、外套を肩から被せるためだった。

 楓が顔を上げると、必登はもう楓に背を向けて1人で洞窟に向かって歩いている。外套の下は旅の薄着で、いかにも寒そうだが、必登は両腕をぶんぶん回しながら軽やかに砂浜を進む。

「……何あれ。筋肉バカ丸出しじゃない」

 楓は呆れたように呟くと、必登の外套を胸元で握り締め、自分も早足で寝床に向かうことにした。

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