Stage 5-1

 松明の炎だけが周囲を照らす頼りである。夜明けと言っても、空はほとんど闇に覆われて薄雲の隙間から星が見え隠れしていた。

 しかし、歩き始めるとあっという間に東の水平線から茜色に染まり、闇から群青色、紅藤色、そして最後には明るい白藍の空が広がった。

 1刻半の道のりを東へ進むと、視界に白く輝く砂浜と松並木が飛び込んできた。ここが天羽衣伝説で有名な三保だ。西側の背後は久能山の断崖絶壁で、印象的な景色を作り上げている。

「うわぁ、きれいな色……」

 松林の間を通して見える目の前に広がる紺碧の海に、浜奈は絶句した。光の加減で、時々、硬質な濃藍の波が揺れる。そして、砂浜からは富士の山が一望できた。国府よりもぐっと迫って感じられる。

「東国にはこんなに美しい土地があるんだな。藤原の地とは全く違う」

「圧倒されるわね。自分がちっぽけな存在に思えてくる」

 若者たちはしばらく波打ち際で潮風の中に立ち尽くし、誰一人として言葉を発しようとはしなかった。

 そして、やっと宝天が後ろを振り返り、松林の方を指して言った。

「この松林のどこかに羽衣の切れ端が引っ掛かってると言われるのですが、見つけるのは至難の業でしょうね。あくまでも伝説ですし」

 そうは言うものの、宝天の顔はどこか期待しているように見え、大人びた口調を取り払った純粋な少年の瞳をしていた。

「試しに浜の先まで歩いてみようぜ? ひょっこり天女が現れちゃったりしてな」

 あまり長居はできないが、折角、伝説のある景勝地に足を運んだのだから堪能しなければ損だ。一行は思い思いに松林の下をそぞろ歩いた。

 浜奈は浜辺の中間地点辺りまで来ると、楓と並んで松の根本に腰を下ろした。ごつごつした根が地面から盛り上がっていて、腰掛けるのにちょうど良いのだ。不思議な気持ちがした。あの紺碧の大きな水たまりに引き込まれて、自分が海と一体になっていくような感覚。海を眺めていると、心に溜まった心配事や嫌な事が全て洗い流されていくような気がする。

 浜奈はふと楓の袂に覗いている横笛に目をやった。

「ねぇ、楓。ちょっと何か演奏してみてよ。こんな景色の中で、風流だと思わない?」

「いいわ。浜奈のお願いなら楓様が一曲奏しましょう。どの曲がいい?」

「『吉野仙女』がいいな。吉野じゃないけど、羽衣伝説にはぴったりだもん」

 楓は浜奈に微笑むと、横笛に朱に染まった官能的な唇を当てた。

 最初の音が棚引く薄雲のように流れ出すと、浜奈と楓の周りの空気が一気に変わった。何人もの天女が仙界から地上に降り立ち、優雅に、時に挑発的に華麗な舞を舞う様子が目に浮かぶようだ。

 笛の音色は他の仲間の耳にも届き、皆が自然と集まる。必登は相変わらず、雷に打たれたように不動の姿勢で演者に見入っている。仙女に惚れたただの人間の男にしか見えない。

 そしてこの時、奇妙なことが起きた。

 楓の演奏が盛り上がり、それに従って音が風を引き寄せたとしか言いようがない現象が発生したのだ。集まってきた風は周りの白砂を巻き上げ、浜奈は片腕をかざして目を防護した。

 少し風が収まったので目を開けて見ると、浜奈の目の前に見知らぬ女性がいた。幾重にも巻かれた薄絹の衣が長く風に靡いていて、そして両足は地に着いていなかった。

「あなたは……?」

 気付けば楓の演奏は途中で唐突に終わっていた。皆、固唾を呑んで成り行きを見守っている。微妙に宙に浮かんでいる女性は、無言で浜奈に手を差し伸べた。その手を取っていいものか、一瞬躊躇った後、浜奈は思い切って手を伸ばした。ああ、この人、天女なんだ――。女性が名乗らなくても、浜奈は理解していた。

 天女は浜奈を立たせると、右手を首の後ろに持って行き、すっと肩に掛けてあった衣を引き抜いた。衣はまるで空気のようにふんわりと薄く、藤色にも若菜色にも見えた。天女は衣を両手で持ち、少し浜奈との距離を縮めると、浜奈の両肩に掛かるように乗せた。濡れたような漆黒の睫毛に縁取られた大きな瞳が、浜奈をじっと見つめる。

「四神の秘宝を、荒ぶる神々から守って。その羽衣は必要な時にあなたを助けてくれます。今はただの領巾ひれでしかありませんが、あなたが強い意思を持った時――」

 天女の言葉が途切れた。何が起きたのかわからない。天女はもはや永遠に次の言葉を継ぐことができなかった。胸の下で胴体が二分され、ふっとずれたかと思うとその体は粉々に打ち砕かれた硝子片のように雲散霧消してしまったのだ。

「っ、きゃーーーっ!!」

 甲高い叫び声が麗らかな浜辺を劈き、凍りつかせた。浜奈と楓の前に、何か大きな影が躍り出る。

 黒檀色をした大きな獅子が、紅蓮の炎のような赤い長い髪をした女を乗せ、ぐわっと咆哮した。女は片方の口元をつり上げ、こちらを見下ろしている。

「失せろ、妖魔!」

 その声と同時に、宝天の錫杖が浜奈の頭を目掛けて振り下ろされた妖魔の棍棒を押し止めた。すかさず、千夏が妖魔に矢を放つ。妖魔はチッと舌打ちして仰け反り、寸でのところで矢をかわすと、そのまま浜奈の隣にいた楓を攫おうと腕を伸ばした。

「楓っ!」

 指先まで炎に包まれたような妖魔の手は、楓の鼻先をかすめて虚しく宙を掴んだ。一瞬の差で、必登が横から飛び出して楓を体ごと抱えてかわしたのだった。

 妖魔は四方向から武器を突き付けられていることに気付き、黒獅子を高く跳ね上がらせると疾風のごとく消え去った。妖魔が消えていった空間からは、瘴気が燻っている。

「何なんだ、あいつ……」

 ようやく弓を下ろした千夏が、肩で息をしながら呟いた。

 葛城王と広人はまだ警戒し、剣と槍を構えたままだ。必登は抱きかかえていた楓を支えながら身を起こし、無事を確かめた。

「怪我はないかい? 砂だらけにしてしまって、ごめん」

 必登の手が楓の髪に付着した白砂を振り払おうとすると、楓は素早く立ち上がった。

「ありがとう。大丈夫よ、これくらい」

 手を振り払うようにして、楓は必登から離れた。

「痛みがあったら言ってくれよ」

 必登は心の底から身を案じているというように、深い眼差しで楓を見つめている。不安も痛みも全て包み込むような瞳。

 抱きかかえられていた間の必登の手の暖かさが妙に思い出され、楓はツンと顔を背けた。

 ようやく、葛城王と広人が武器を下ろした。禍々しい気はひとまず消えたようだ。

 秋依は警戒に当たっていた葛城王の代わりに、すぐさま浜奈の元へ駆け付け、ごく自然に浜奈の背に腕を回して体を支えてやった。

 浜奈は怯えた様子で、肩は小刻みに震えていた。

「大丈夫だよ、浜奈。君には指一本触れさせないから。しっかりして。掌蔵くらのじょうの君なら後宮や帝を守るために、毅然とした気持ちになれるはずだ!」

 多少厳しいことを言ったと思ったが、それが浜奈の心の琴線に触れたのか、浜奈はぱっちりと瞳を開いた。

「ごめんなさい。そうだよね、これからの冒険では何が起きるかわからないのに」

 秋依は浜奈の手を短くぎゅっと握ってすぐに離した。

「みんな、ここから立ち去ろう。先に進んで、早く朱雀を見つけないと。浜奈は天女にもらった羽衣をなくさないようにね。海沿いは風が強い」

 葛城王は秋依の言動に、密かに微笑んだ。浜奈への愛情は歌垣での一時のものではないらしい。それに、こんな状況でも冷静だ。

(ふぅん、結構面白くなりそうじゃないか)

 もちろん浜奈は葛城王に骨抜きになっているが、隠れた恋敵というものがいれば、それはそれで退屈しなくて良い。

 ともかく、一行は景勝地を離れ、目的地の伊豆国へ向かうことにした。

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