Stage 4-5

 決められた時刻に宿坊に戻った楓は、また1人旅の仲間が加わっていることに呆れたが、もはや何も言う気になれなかった。宝天は見習いではあるが、とてもきちんとしているし、雑事を率先して引き受けてくれるからだ。

 この日の収穫は、釣った魚が16匹、海藻、市で仕入れてきた山菜と青菜だ。あとは、国府から提供された雑穀。これだけあれば十分な夕餉ができる。

「そんじゃあ、魚を捌くよ。俺が手本を見せるから。千夏のやり方を真似てもいいよ」

 調理のことになれば、広人と千夏に右に出る者はいない。宝天も調理はできるが、魚や獣を捌いたことはなかった。今日は特に国府の宴会もなかったので、厨を使わせてもらうことができた。

「うわ、豪快な捌き方だな」

 千夏が手にした包丁で、ざくざくと魚の頭をぶった切り、内臓を素手で引っ張り出すのを見て、必登が唸った。めちゃくちゃ血が飛び散っている……。広人の捌き方はもう少し丁寧だった。ちゃんと鱗も削いで落としている。

 雑穀を蒸すのは宝天の仕事、山菜と青菜を切るのは浜奈と楓だった。

「いたっ」

 青菜を切り始めてから間もなく、浜奈の短い小さな悲鳴が上がった。左の指先から一筋の血が流れ落ちる。

「大丈夫ですよ。すぐにこっちの水ですすいで。包丁はあまり力を入れない方がうまく切れます」

 浜奈の怪我に気付いた宝天が、清水の入った柄杓を傾け浜奈の血を流してくれた。

秋依は遠目でハラハラしていた。包丁の怪我でも、浜奈が痛い思いをしているのはいい気分ではない。しかも、宝天が浜奈の左手を取って、そっと両手で包んだではないか。僧侶のくせに、どういうことだっ?! 秋依は内臓を取り出しかけていた魚を放置して、浜奈の元へ駆け寄ろうとした。

 ところが、秋依の心配は杞憂だった。宝天はすぐに真言を唱え始めた。

「おん、まゆら、きらんでぃ、そわか。おん、まゆら、きらんでぃ、そわか――」

「えっ、嘘……」

 ぱっくりと裂けていた傷がみるみるうちに塞がり、ズキズキしていた痛みもいつの間にか消えてしまった。

「すごい、宝天! ねぇ、みんな、宝天が私の傷を治しちゃったんだよ!」

「そんなすごいことではありません、浜奈さん。怪我に対する治癒の術は、見習い僧侶が最初に身に付けるものなんです。大僧正ともなると、死者を生き返らせることができるらしいです。それでもほんの数人しか、そんな大術を使える者はいませんけれど」

 宝天が治癒の術を使えるということは、東征隊にとってかなり有利になった。伊豆国どころか陸奥国まで一緒に来てほしいくらいである。

 そしてもう一つわかったことがあった。浜奈と調理はとんでもなく相性が悪いということだ。切り方を間違えたり、調味料を間違えたり、彼女に任せるとこの世のものとは思えない見た目の食事が登場してしまう。もちろん、味も異世界級だ。

「……たぶん、閻魔大王でも食べられないと思います」

 浜奈のいないところで、味見をして死にかけた宝天が青ざめた顔で秋依に伝えた。

 とにもかくにも、夕餉ができあがった。最終的には広人が味の確認をしたので、とても美味な皿が並んでいる。

「あー、すっごく美味しい。どうしたらそんなに上手くなれるの?」

 すっかりしょげている浜奈は、広人に訊ねた。

「俺は必要に駆られて調理するようになっただけで、粟田家の姫ができなくて恥じるようなことじゃないよ。まぁ、強いていうなら慣れ、かな。これから野宿したりする機会はあるはずだから、やってみればいいじゃん」

「そうする。広人は私の調理の師匠ね」

 後宮女官に尊敬の眼差しで見つめられた広人は、まんざらでもなさそうだ。

 すっかり大所帯となった東征隊は、宿坊で夕餉を取りつつお喋りに花を咲かせた。特に、宝天が聞かせてくれる駿河国の伝説は、思わず箸を止めてしまうほど引き込まれた。

「そうそう、一番有名な話をまだしてませんでしたね。天羽衣伝説というのですが」

 いつの時代のことかはわからないが、国府の東にある三保という土地に漁師が住んでいた。ある時、浜辺に出ると、一本の松にたいそう美しい薄絹の衣が掛かっているではないか。誰かの忘れ物かと思った漁師は衣を手に取ったが、突然、これまた美しい女人が現れ、自分は天女であり、その衣がないと天に帰ることができないと訴えた。漁師は天女を引き止めておきたいと思い、衣を渡さなかった。

 しかし、天女がさめざめと泣く姿を見て哀れに思い、何か舞を見せてくれたら返そうと言ったところ、天女は夢の様な舞を披露してくれたので、ついに漁師は衣を天女に返した。そして、天女は礼を言うと、高く高く天へと昇っていったのだった。

「それで、舞っている最中に松の枝に衣を引っ掛けてしまって、切れ端が落ちて残っているそうですよ」

「漁師も人がいいな。俺なら衣をさっさと隠して、天女を返さないようにする。だって、漁師は自分のものにしたいと思ったんだろう?」

「老らしい冷徹な考えだね。ま、俺もそうすると思うよ。美しい天女をみすみす逃したくないからね」

 葛城王は意味ありげに浜奈に目配せをした。すると、浜奈はうっとりとした視線を返してきた。酒を飲んでいるので、目がとろんとしていて、隙を見せていた。

「ねぇ、その衣の切れ端はどうしたの? 漁師が持ち帰ったのかしら?」

「わかりません。色んな言い伝えがあって、どれが正しいのか……。僕は母から、こういう話を聞きました。漁師は切れ端を取ろうとしたけど風に吹かれて飛んでいってしまい、諦めた。すると翌日、なくなったはずの切れ端が松の枝に揺れていて、再び漁師は手を伸ばしたけれども、また風に邪魔されてしまった。だから、今でも羽衣の切れ端は松の枝に掛かっているが、誰も手に入れることができないのだ、って」

 不思議な話があるものだ。では、今もその切れ端を見ることができるのだろうか。秋依が尋ねると、宝天は「じゃあ、明日、出発したらついでに三保の海岸に寄ってみましょうか?」と言った。

「面白そう! 羽衣があったらいいね」

 それほど時間的な損失にはならないということで、一同は宝天の提案に同意した。

「ところで、宝天。伊豆国に朱雀が隠れ住んでいるっていう伝説なんかはないのかな? 例えば、熱海の温泉地帯に」

「熱海の……朱雀の隠れ家? ええっと、東国に鳳凰が舞い降りる熱源地帯があるっていう話は聞いたことがありますね。それが熱海の話なのかはわかりませんけど、老さんのおっしゃる朱雀のことだという可能性はあります。それって、皆さんの旅の目的と関係あるのですか?」

「ああ、詳しいことは出立してからおいおい話すけど、朱雀に会わなきゃいけない」

 宝天は話せないことなら、無理におっしゃらないでくださいと言ったが、そういうわけにもいかないだろう。現地までその話を仲間内でしないわけにはいかないし、むしろ、治癒の術が使える宝天にそこまで同行してほしいと考えているのだ。

 明日は日の出とともに出立するため、夕餉はこれでお開きとなり、女性たちは別室へ戻っていった。

 宿坊の軒下では、狐と烏が躰を寄せあって丸くなりながら寝息を立てていた。

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