Stage 4-4
「ほんとに俺たちにくっついてきて良かったのか?」
三河国府に到着し、宿坊に荷物を置いた後、秋依は広人と市の酒場に来ていた。他の仲間たちは既に寝てしまったり、国府の食堂にいる。
「面白そうだと思ったから、自分の意思で参加してんだよ。ま、こんな秘密の計画にお前が巻き込まれてたなんて、全く思いもしなかったけどな!」
広人は秋依の杯に酒を注いで、軽く乾杯を交わした。まあまあの味だ。
本来、民は本籍地を勝手に離れることはできない。税を逃れるための逃亡や浮浪とされてしまうからだ。しかし、勅命の任務に参加するためなら話は別だ。郡司に例の証明書を見せると(ここでも効果テキメン!)、倉垣広人は帰還するまで税が免除になる措置が取られた。その代わりに愛知郡には、国から収入が補填されることになっている。
広人には養うべき家族がいなかった。だから、郡司から許可が下りると、広人は身一つで家を出てきたのだった。
「そんで? 浜奈とはどこまで進んだ? あの子がお前をこの任務に加えるように言ったんだろ?」
「……聞かないでほしい。進んだどころか、崖から落ちた感じ」
秋依は早くも卓子に突っ伏して情けない声を出した。
「おいおい、何があったんだよ」
「浜奈はこの任務が終わったら、葛城王の妻になる……本人が婚約したって言ってた。すっげー嬉しそうにして、めちゃくちゃ可愛い笑顔してた」
秋依は2杯目を飲み干すと続けた。
「でも、俺は決めた。絶対に婚約を阻止する。でないと浜奈は幸せになれないんだよ!」
「何で? いや、お前が幸せになれないってならわかるけど。葛城王って皇族だろ? 何不自由なく暮らせて、後宮の頂点に立てるのが約束されたも同然じゃないか」
「もし葛城王に別の婚約者がいなかったらね。大納言の娘が葛城王の正妻になることが決まってるんだよ」
そこまで言うと、秋依は再び突っ伏した。親友がここまで落ち込んだ姿を見たのは初めてかもしれないと広人は思った。
愛知郡から丸一日をこの一行と過ごしてみて、広人はどの若者も根が真面目で居心地は悪くないと感じていた。
千夏という女性がとんでもなく異質だが、彼女自身の性格は陽気だし、広人には前からの知り合いであったかのように気軽に話し掛けてくる。
秋依の恋敵の葛城王は、無敵だ。見た目は彫刻のように整っているし、会話も知的で優美だし、武官の必登とじゃれ合って剣を交わしている姿は無駄のない舞踏のようだった。自分が無敵であると自覚していることは明らかだが、他人を見下しているわけではなく、秋依にすら公平な態度で接している。
「秋依、お前の勝ち目はたぶんないな」
「親友に対してそんな冷たい言葉を……」
「だから前から言ってんだろ、実力行使って!」
「そうよ! 浜奈に最初に歌を詠んだの、あなたじゃない。浜奈の目を覚ましてあげて」
突然、秋依の隣席に香の匂いが漂った。視線を上げると、長い睫毛の絶世の美女と目が合った。楓だ。
「お姉さん、私にも同じのちょうだい!」
「宿坊にいたんじゃなかったの? まさか君がこんなとこに顔出すなんて」
「散歩のつもりで来たらあなたたちがいたのよ。それで? どうやってあの恋に溺れてる娘を自分のものにするつもり?」
楓の笑顔は、光が見えると思って開けた帳の向こう側の一面の雪のように冴えている。うっかり笑顔に釣られると大怪我をしそうだ。
秋依の警戒心を読んだのか、楓は真面目な顔になり言った。
「何も企んでないわよ。ただ、親友の浜奈にはちゃんと幸せになってほしくて。葛城王と一緒になったら一生泣いて暮らすことになるわ、あの子。多比能だってかわいそう。だからね、私は浜奈を葛城王から引き離す作戦を応援する」
楓は、別に葛城王が嫌いってわけじゃないわよ、と付け足し、運ばれてきた酒を飲み干した。
「とりあえず……俺は何があっても浜奈の傍を離れないようにする。浜奈が俺のこと異性としては何とも思ってなくても、彼女の助けになるように傍にいるよ。まぁ、折を見て葛城王は止めておけって言うつもりだけど」
「そうね。まだ旅は始まったばかりだし、浜奈の心に切り込む余地はないわけじゃないと思う。ま、いざとなったら私が葛城王を誑かして浜奈から気を逸らしてあげてもいいわ」
「……美女が言うとシャレになんねぇよ。あんたら本当に美の塊みたいなもんだからな」
それから3人は数杯のおかわりをして、遅くならないうちに国府に戻った。
和銅元年2月15日、ようやく厳冬から開放され、麗らかな陽光が感じられるようになった藤原宮では、かねてより準備していた遷都に関する詔が発出された。
それによると、「朕は遷都事業を急ぐ必要はないと思っているが、諸臣が遷都を重視することも無視できない。古代の殷や周の王がそうして国を安らかにしたのであれば、朕もそれに倣う。平城の地は青龍、朱雀、白虎、玄武の四神が適切に配され、3つの山が鎮護の役目を果たしている。ここに都を建設すべきだ。遷都に当たっては民を苦しめることのないように。また、適切な制度にし、負荷が加えられぬように」ということであった。
藤原宮で最も忙しい役所の一つは木工寮だった。
実は有能な技術者であった楽浪秋依の不在は、木工寮にとっては痛手で、木工頭などその辺の
(先輩、どこで何してんだろう。勅命の秘密任務って言うけどさ、お蔭で俺の仕事がごっそり増えちゃったじゃないか。先輩、時々頼りないけど、算術能力だけは本物だからなぁ……ああ、マジ迷惑。最近、ちっとも内教坊に遊びに行く時間もないし)
秋依の後輩の乙麻呂は、こうして大量の設計図を抱えながら毎日ボヤいているのであった。
遷都の詔が宮中の役人たちの目に触れている頃、東征隊は三河国、遠江国を経て、駿河国に入っていた。道中、あの狐と烏もしっかりと秋依から付かず離れず、くっついてきている。
国府の手前にやってきた時、浜奈が背伸びをしながら言った。
「んー、今日は気持ちがいいね! ほら、富士の山があんなにくっきり見えるよ」
「富士の高嶺に雪は降りける……か。まだしばらくは、山頂の雪は残ったままなんだろうな」
国府は駿河湾と目と鼻の先に位置していて、官道からでも広い海が一望できる。藤原京から出たことのなかった若者たちにとっては、全てが新鮮な景色なのだ。
尾張国から延々と東海道をひたすら歩いてきて、当然、疲労が蓄積されていたが、あの霊峰の堂々たる姿を見ると、なにか清々しい気持ちになる。老は感慨深く、旅情でも一首詠んでみようかと腕組みをした。
「旅の仮寝の……都し思ほゆ……」
ところが、言葉がまとまりかけたその時、ぐいっと誰かに腕を引っ張られた。その反動で、旅情の欠片が全て吹き飛んでしまう。
「おい、何すんだよ、千夏! 俺の一首が消滅したじゃないか」
もはや老の邪魔をする人物といえば、じゃじゃ馬娘しかいない。顔を見なくてもわかるようになってしまった自分が憎い。
千夏は富士の山をぼーっと見ながら突っ立っていた老の気を引き締めようと腕を引っ張ったのに、それを怒られるのが心外だという風に顔をしかめ、その次ににやりと笑って和歌を口ずさんだ。
「天の原富士の高嶺に降る雪の心深めて我が思ひけり。即席にしてはまぁまぁの出来だろ、先生?」
「それ恋の歌じゃないか。俺が考えてたのは羇旅歌なんだけど。……その歌なら、心積もりて
「そっか。でもさ、先生、あんまり往来でぼーっと立たない方がいいぜ? 他人の迷惑だしさ。荷車に轢かれちまうよ。先生って意外とドン臭いじゃん?」
迷惑な女に迷惑って言われた……。しかも、ドン臭い……。老は絶望的な気分になったが、千夏の指摘は正しかった。駿河国府の周辺には良い港もあり、比較的大きな市も開かれていて、人の行き来が激しい。旅人と違って、地元の人間にしてみれば富士の山の神々しさや海の広大さなど見慣れたもので、仕事中に立ち止まって眺めるものではないのだ。
気付くと老と千夏は、後れを取っていた。前方で必登が大きく手を降っている。早く来いという合図だ。
国庁に入り、宿坊を利用する手続きを済ませると、まだ昼過ぎということで、皆で国府周辺を散策することになった。
日陰に入れば風がまだ冬の残りを感じさせるが、十分な太陽の光はそれだけで心の緊張を解いてくれるものだ。駿河湾には小さな釣り船がちらほらと浮かび、海藻を採る海人の姿も見える。
市に向かい、しばらくは皆一緒に行動していたが、途中から別行動を取ることにした。浜奈と楓は茶屋で休むと言い、老はさっき千夏に邪魔された羇旅歌作成の続きを1人でするらしい。
「俺たちは釣りでもしないか? あっちにちょうど良さそうな岸があったし」
「よし、釣った魚を今日の夕餉にしよう。国庁の厨を借りれば調理できるからな」
秋依は釣が得意だった。子供の頃から、近所の川でよく釣っては家に持ち帰り、母親に褒められた。
秋依と広人が釣りをすると言うと、葛城王も必登もやってみたいとついてきた。自炊するという話を聞いて、千夏も加わった。
「餌をこうやって針に刺すんだ。取れないようにね。そうそう」
浜辺に釣り道具の貸家があり、人数分持ってくると、秋依は釣り初心者の葛城王と必登に丁寧に教えた。秋依は2人が餌をつけている間に既に1匹釣り上げ、後ろの方でこちらの様子を覗っていた狐と烏に投げてやった。
「お、千夏、うまいじゃん。どこで習ったんだ? 大伴家の姫だろ?」
「うちに昔からいる使用人とか、近所の兄様たちとか。こっそり外に遊びにいった時に教えてくれたんだ。大伴の人間だからこそ、女だって何でもできるに越したことはないから。あたしが釣ってきた魚って知らずに、父さん、食べてたもんなぁ。鹿の燻製だって、あたしが仕留めて燻製にしたやつなのに、ぜんっぜん気付いてなかった。ていうか、気付かれないようにやってたからなんだけどさ」
後ろ姿だけだと5人の青年や少年が仲良く釣りをしているように見えるが、千夏を正面からよく見ると、やはり顔の作りは柔らかく、弾けるような肌が女性のものだとわかる。それに、千夏の胸は浜奈よりもずっとふくよかで、晒を巻いていてもその膨らみは全然隠せていない。
姫の姿に戻れば、かなり可愛いんじゃないだろうか、と広人は予測したが、本人にそんな気はさらさらなさそうだった。
初心者の葛城王も必登も、それぞれ小振りではあったが1匹ずつ釣れたところで、秋依の背後に人影が現れた。
「すごいお上手ですね。皆さん、旅の方ですか?」
振り向くと、1人の僧侶がにこやかに佇んでいる。僧侶と言っても、幼く見える。声変わりの途中の声であることから、まだ少年なのだろう。
「ああ、そうだよ。ちょっと都からね。とりあえず伊豆国まで向かう途中だ」
秋依の代わりに葛城王が返答する。初対面の者と話す時は、まず葛城王がということになっていた。
「そんな遠路はるばる来たのですか……。申し遅れましたが、僕は宝天と言います。この近くの恩岳寺に属しています。まだ、見習いですが。あの……」
宝天はそこで言いにくそうに言葉を切った。何か言いたいことがあるらしいが、どうしたものかと迷っている。
「どうかしたの?」
秋依が笑顔で訊き返すと、宝天は顔を上げて秋依を真っ直ぐ見ながら言った。
「不躾で失礼だとは思います。もしご迷惑でなければ、僕も一緒に伊豆国まで行ってもいいでしょうか? そちらのお2人は武人とお見受けします。僕は護身の心得はありますが、武人には遠く及びません」
「つまり、君は1人で伊豆国まで旅をするのが不安なんだね」
「……はい。実は、伊豆国にある妙法寺というところにある物を取りに行かなければならないんです。ついでに妙法寺でしばらく修行をしてこいっていうおまけも付いていて……」
宝天の申し訳なさそうな顔を見て、真っ先に反応したのが千夏だった。ひょいと軽快に反動をつけて岸壁から立ち上がると、千夏は宝天に笑顔を向けた。
「うちら、ここにいるのは5人だけだけど、あと3人いるんだ。1人くらい見習い僧侶が加わったって別に困ったりしねーよ。なぁ、葛城?」
「まぁ、そうだな。俺たちは特に寄り道するわけじゃないし、行き先が同じなら問題ないよ」
どうやらまとめ役の許可が出たらしいとわかると、宝天はほっと胸を撫で下ろした。それにしても、目の前に立っている少年は、どこか変だ。声が全然男のものではない。
「あの、もしかしてあなたは、女人ですか……?」
「まあね。あたしの名は、千夏。右側から、秋依、必登、広人、そんで葛城。葛城があたしたちの名目上の指揮者だけど、あんまりそういうことは気にしてないから、あんたも遠慮しなくていいぞ」
「は、はぁ。女人は1人なのですか?」
「いや、あと2人いるぞ。すんげー美人とえくぼがかわいい女がね。そっちはちゃんと女の姿をしてるから安心しな」
僧侶として女性に慣れていないらしい宝天は、顔を赤くして俯いてしまった。
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