Stage 4-3
とくんとくん、と鼓動が響く。感じたことのない高揚と蜜のような甘く濃密な心地が、浜奈を全身を支配した。旅路にあっても高貴な香の薫りが漂う袖に顔を埋めて、ほうっと溜息をつく。ここでゆっくり呼吸をすることさえ、贅沢に思えた。
円扇を贈ってきた男の腕は、一寸の隙もなく浜奈を捉え、端正な顔が耳元に寄せられる。
「今日は歌は詠まないよ。そんな言葉にすらできないほど、君を愛おしく思ってるから」
葛城王の長く色気のある指先が、浜奈の頬に触れた。
「私で……いいの?」
夢を、見ているようだった。後宮では味わったことのない甘美な心地。仕事では誰よりも有能で、ただ呼吸をするように難題を片付けてきた女官の浜奈が知っている快楽には、常に緊張感と達成感と、使命感が混じっていた。それが、浜奈の全く知らない感情に取って代わられた。
もう何もいらない――。
仄暗い空いた納屋の中で、まるで庶民の逢引のように、葛城王と浜奈はぴったり寄り添いながら小声で囁きあった。若い皇族と貴族の娘には似つかわしくない、愛の空間だった。
御墓に乗り込むことを諦めた東征隊は、朝日を浴びつつ、岬の台地を北上した。愛知郡の役所を訪ねて、休息を取るためだ。
太政官の印が押された特別な証明書の効果は絶大で、関所でも取り調べなく通過でき、寺社や国府や郡家では宿泊場所が供与される。交通手段である馬は緊急事態のためのものだからさすがに貸してはもらえないが、それでも藤原京しか知らない未熟な旅人たちには余りある特権である。しかも、彼らが何者で何をしようとしているのか、一切探られることはない。それも、この証明書のお陰だった。
全員が宿坊で雑魚寝する形で爆睡する様を見たら、彼らの親たちは卒倒するに違いない。
そしてその夜、葛城王は浜奈を郡家の端に位置する納屋に連れ出したのだ。
「倭建命は尾張で運命の人と出逢ったんだよ」
「宮簀媛ね」
賢い浜奈は葛城王の言わんとしていることを理解し、頬を朱く染めた。そして微笑みを葛城王に向けると、ふいに唇が塞がれた。
初めてだった。楓は口づけなんて挨拶みたいなもんでしょと冷めた口調で言っていた。もしかして、そんなにたくさんの男と口づけをしたことがあるのかと、浜奈は自分のことのように恥ずかしくなったことを思い出した。
しかし、葛城王の口づけは挨拶なんかではなかった。初めてだとかそんなことにはお構いなく、情熱をぶつけ、浜奈を味わおうとした。
「俺の宮簀媛……」
葛城王が唇を離し、浜奈を見ると、彼女は何度か瞬いた。あの完全無欠な女官の戸惑い恥じらう様子に、葛城王はチョロイなと微笑んだ。
その微笑みに嫌な嘲笑などは含まれず、余裕のある男として、有能な女官が落ちた姿を愛おしく思っているのだ。
葛城王の手が浜奈の頬から胸元へ、そして裳の下に潜む柔らかな脚へと移動すると、浜奈はビクッと身を震わせた。
「ね、この先に行ってもいいかな、宮簀媛?」
「待って……わ、私、心の準備が……」
「もうここまで来たのに?」
浜奈は次に起こることを想像し、動揺して葛城王から顔を背けた。厄介な仕事や調整から目を背けたことはなかったのに、恋になると自分がわからなくなる。
葛城王と結ばれたい。口づけも、できれば永遠に楽しんでいたいと思った。でも、結ばれるのは今じゃない……。
私、許しを得ていないから。――誰に?
一通り逡巡した浜奈は、葛城王の「俺の宮簀媛」という囁きを聞いて、弾かれたように顔を上げた。躊躇う理由がわかったのだ!
「あのね、宮簀媛が倭建命と結ばれるのは、倭建命が東征を終えて尾張に帰還してからでしょ?」
先に自分を神話の英雄になぞらえたのは葛城王だ。浜奈の言い分を退ければ、その意味がなくなってしまう。葛城王は変なところで律儀だった。
「確かに、あの二人は結婚の約束をしただけだったね」
「そうなの! だから、私たちもそうすべきじゃない?」
浜奈はうっかり大胆なことを口走ってしまったと、口元に手を当てたが、葛城王はにっこり極上の笑みを返してきた。
「全ての秘宝を手に入れた暁には、君の身も心も俺に明け渡してほしい。今はその唇だけで我慢するよ」
葛城王は約束の代償にと、浜奈を力強く抱きしめ、夜明けまで流星のごとく口づけを降らせたのだった。
秋依は無性に苛ついていた。
郡衙の宿坊の周りを行ったり来たりして落ち着きが無い。その辺に転がっている木箱を蹴り飛ばしてやりたい衝動に駆られたが、官物を破損してはいけないと思いとどまる。
高嶺の花だということは、とっくにわかっていたことではないか。
夜中に、浜奈が葛城王に手を引かれて人気のない納屋の方へ歩いて行ったところを目撃してしまった秋依は、一睡もできずに床の中でのたうち回る羽目になった。
「なんか憔悴してるけど、大丈夫か?」
食堂で朝餉を取っていると、後から来た老に心配された。だが、口の堅い老と言えども疲労困憊の理由を明かすわけにはいかず、秋依は「珍しく寝付けなかっただけだよ」と答えた。老はそれ以上深くは追及せず、「今夜はよく眠れるといいな」と言い残し、必登の隣へ座った。
秋依にとって決定的な打撃は、当の本人、つまり浜奈の屈託のない笑顔だった。
朝餉が終わり、出立の準備をしている最中、浜奈は秋依に寄ってきて、声を落として告げたのだ。
「秋依、私、葛城王と婚約したんだ。ほら、宮簀媛は倭建命と尾張の地で婚約したっていうでしょ? もちろん今は秘宝を得ることに集中しなきゃいけない。だからそういう関係であることはなるべく忘れようと思うんだけど」
あまりにもさらりと言うものだから、秋依は最初、何を言われているのかわからず数拍の沈黙が流れた。
そして、残酷な現実を告げられたのだと知ると、その場から全力で逃げ出したい気持ちになった。しかし、浜奈には何の悪気もないし、親しい友人となった秋依に喜んでほしいのだ。
「よ、良かったね。まぁ、何か相談があれば俺でよければ聞くからさ」
やっとの思いでそれだけ吐き出した。浜奈はにっこりえくぼを見せて笑っている。
「ありがとう! でも、そんなに気にしないでね。任務中は恋愛のことは脇に置いておくから」
そういえば、と秋依は思った。確か葛城王は大納言の娘と婚約しているのではなかったか。しかも、その娘は後宮の女孺で浜奈や楓の後輩らしい。
いいのか、浜奈。葛城王は二股かけてるんだよ。だって、大納言の娘との婚約なんか解消できないだろ。いや、貴族は何人も妻がいるのはおかしいことじゃないけど、どう考えても浜奈が正妻の地位に就けるわけがないじゃないか。目を覚ましてくれよ〜。
浜奈が去った後も、秋依はその場に立ち尽くして悶々と考えた。さっき、良かったねと言ってしまったが全然良くない。最悪だ。浜奈だって婚約者が自分の後輩だって知ってるだろうに。なんで、後宮の最有力出世頭の才女の君が、そんなこともわからずに軽率に婚約なんかするんだよ……。いつもの冷静さはどこ行ったんだよ。
秋依は密かに心に誓った。この婚約を妨害してやる。
むしろ、俺が浜奈と結婚する!
尾張国愛知郡を出発すると、あとはひたすら東海道を東へ進み、伊豆国へ向かうだけだ。しかし、道は単純だが、その間には三河国、遠江国、駿河国、相模国が横たわり、徒歩で進むには長い長い時間がかかる。
単調な旅路になり、仲間の関係も微妙になってしまうのではないかと秋依は危惧したが、郡家を出て半刻もしないうちに予期せぬ出会いが待っていた。
「腹減ったぁ」
葛城王と必登と並んで先頭を歩いていた千夏が、さっきから同じ言葉を連呼している。千夏は今日もバッチリ男装をキメて、背筋を伸ばして歩いていた。
「今朝、あんなに食べたのに? 千夏、ほんとは女じゃないだろ。俺と同じくらいの量だったよ」
必登が苦笑しつつ言うと、千夏は、
「お、あたしのこと男に見えてきたか。でも残念ながら、付いてないぞ」
と何の躊躇いもなく答えて笑った。
「あのなぁ、千夏。そういうことは言うもんじゃないよ。君はまがりなりにも大伴家の姫なんだからさ。まぁ、その男装は百歩譲って許されるとして、言っていいことと悪いことが――」
「わーったよ。必登は父さんみたいだな」
「……う。せめて、兄さんって言ってほしいな」
千夏と必登は不思議と仲が良い。元来、必登は熱血漢ではあるが度量が広い男なので、異質な姫が闖入してきても、すぐに適応してしまった。来る者拒まずだ。
そして、千夏が衛門大尉である必登に興味を示したのは、ある意味当然のことかもしれない。葛城王も文武両道だということで千夏は親しみを感じていたが、やはり生粋の武人の必登は別格だった。
「なぁ、必登。その大刀、ずっと使ってるのか? すごいかっこいい」
「元は隼人の鍛冶職人に鍛えさせたものらしい。親父が
「いい親父さんだな。あたしも父さんに大刀をくれって何度も言ってるのに、手渡されるものは簪とか琴とかだぜ? あー、それにしても腹減った」
もう何度目かの空腹を訴える言葉が呟かれた時、どこからか食欲をそそる匂いが漂ってきた。千夏は魚が餌に釣られるように、列を離れて匂いのする方へ歩き出した。
「千夏、どこ行くんだよ」
必登が追い掛けたので、仕方なく全員そちらに向かうことになった。
「なんていう迷惑な奴だ……葛城、あんなのを仲間に加えて本当に良かったのか? 今からでも追い返した方がいい」
老はうんざりした口調で葛城王に提案したが、葛城王は「まぁ、いいじゃないか。君に武器を持たせても、彼女より役に立つわけじゃないだろう?」と案外、厳しいことを返してきた。笑顔のくせに、さらっと核心を突いてくるのが葛城王の怖いところだ。
匂いの源に近付くと、さらに鼻歌まで流れてきた。聞いたことのない旋律だが、楽しげな雰囲気は伝わってくる。
「あ、この匂い、知ってる気がしない?」
浜奈が秋依に訊いた。確かにそう遠くない以前に……。
「美味そうだな、その汁。一杯いくら?」
千夏が声を掛けた先には、若い男が川べりで小型の鍋を煮炊きしていた。外気の寒さに比例してもくもくと白い湯気が立ち込めて、良い匂いを振り撒いている。
男は突然の「客」に驚きながらも、鍋をかき混ぜる手を止めて立ち上がった。
「売り物じゃないよ。腹減ってんなら一杯やるけど」
「やった! あたしだけもらうのも悪いから、こいつらにも一杯ずつくれない?」
「え……? ……って、えええーー?!」
男は図々しい千夏のお願いに驚いたのではなかった。振り向いたら、何人か若者たちが立っていて、そこに秋依と浜奈がいたから驚愕したのだった。
「広人! お前こんなところで何鍋かき混ぜてんだよ?!」
「それはこっちのセリフだ! ここは俺の故郷の里だよ。衛士の任期が切れて、ちゃんと帰郷したんだ」
そうか、そういえば広人の故郷は尾張国だった。でも、まさかドンピシャで広人の故郷を通過するとは思っていなかった。
浜奈は広人との再会を喜び、早速、皆に紹介した。
「どーも。
「そうだったのか。残念ながら、俺は君のことは知らなかった。でも、俺の指揮下で動いてたんだろう?」
「まぁ、そーいうことになりますね」
たとえ庶民からの徴兵であっても、必登は自分の指揮下にいた若者に偶然出会い、胸を熱くした。
「で、どうして皆さん方が愛知郡くんだりにいるんですか?」
「それは話せば長くなるんだよ、というか話せない、かな」
秋依が葛城王を覗うと、彼は必登に耳打ちした。必登がちらと広人を見た後、何度か頷く。そして、必登は再び元部下に向かい合った。
「広人、俺たちの仲間にならないか?」
「待ってよ! また多くするわけ?」
広人が口を開く前に、楓が抗議の声を上げた。
「彼は衛士だったんだよ。一通りの訓練はこなしてる。武器を扱える者が多くて困ることはない。それに、広人は食事を作ることができるという我々にはない能力を持ってるんだよ」
そう、葛城王が目を付けたのがまさに衛士の訓練の中に組み込まれていた調理という技術だった。
徴兵された衛士たちは自炊が基本だし、野営訓練もある。だから、簡単な狩りもできるし、獣をさばくこともできる。それができなければ、生き延びられないということだ。必登は幹部なので、さすがにそこまではやらなかった。
「それもそうだ。今はまだ官道沿いで国府や郡家で食事の調達ができるけど、今後はどうなるかわからないからな。元衛士がいるのは都合がいいと思う」
合理的な選択を追求したがる老がそう言えば、楓は反論できなくなる。楓だって調理できる人員がいてくれた方が助かるのだから。
すると、もう一人、武器を扱えて自炊が得意な人物がしたり顔で老に言った。
「せんせー、自分であたしの存在価値を認めたね! いやぁ、賢い先生のことだからちゃんと気付くと思ってたけどな!」
「うっ……」
千夏を追い返したいと思っていた老は、墓穴を掘ったことにガックリと肩を落とした。
「あのー、なんか勝手に話が進んでるみたいだけど、俺、何の仲間にされようとしてるんすか?」
広人が困ったように、頭を掻きながら言った。
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