Stage 4-1

 今にも泣き出しそうな鈍色の空の下で、暗い気持ちにならずに済んだのは、楓の横笛が鳥が羽ばたき春の訪れを喜ぶ楽曲を奏でていたからだ。その横では、浜奈と千夏がくすくす笑いながら何かお喋りに興じており、秋依は気付かれないように浜奈の姿を眺めていた。

「やべぇ。俺、自分がこんな船酔いするって思わなかっ――」

 最後まで言うことができなかったのは、必登が船べりから上半身を出して気持ち悪さの元凶を伊勢湾にぶちまけたせいだ。

「大丈夫、兄さん?」

 浜奈はお喋りを中断して兄を気遣ったが、演奏が楓は真冬の伊勢湾よりも冷たい言葉を必登に浴びせた。

「武官の名が泣くわね、衛門大尉殿? 部下たちがそのダッサい姿を見たら、幻滅よ」

「楓、それは仕方ないよ。船は騎馬とは違って、体力や剣の腕前に関係ないからね」

 秋依は必登の面目を保とうとした。楓は武官に厳しすぎやしないか。老と同じく秋依も、必登の優しい瞳がいつも楓に向けられていることを、なんとなく気付いていたので余計にいたたまれなかった。

 さて、千夏を加えた一行は無事に伊勢大山いせのおおやまを下り、桑名の津から対岸の熱田へ向かおうとしていた。

 両地点を陸路で移動できるようになるのは、ずっとずっと後の時代になってからで、今は湾が北部まで食い込んでいて広い海が徒歩の旅人を阻んでいるのだ。

「そろそろ熱田の津に着きますよ」

 船頭が告げると、必登は死にそうな声で、助かったぁと呟いた。

 着岸すると、身軽な秋依と千夏がまず下船し、荷物を受け取ったり、仲間が降りるのを手伝ったりした。

「気を付けて」

 秋依は思い切って浜奈に手を差し伸べた。波に揺られて小刻みに動く船は、慣れていないと立つのもままならない。

 浜奈は素直に秋依の手を取って、お礼を言いつつ岸に移った。その後ろから葛城王が船から降りたが、秋依の浜奈への気持ちを知っている彼はわざと秋依に満面の笑みを浮かべてみせた。

 な、なんて余裕なんだ……。考えてみれば、三角関係が成立しているにも関わらず、葛城王は秋依の参加を認めたし、千夏も受け入れてしまった。たぶん、葛城王はあんなチャラチャラしているくせに、懐は広いのかもしれない。と秋依は感心したが、葛城王が武智麻呂だけは相容れない存在としてツンツンした態度でいることは、もちろん知らない。

 葛城王が陸に上がると、人間はこれで全てだ。秋依はしゃがんで船べりを掴み、なるべく揺れを抑えようとした。

「ほら、これで飛び移れるよ」

 秋依が声を掛けた相手は、薄い焦げ茶色で足の先が白く、掴むとふわふわしていて気持ちよさそうな尻尾を持つ狐だった。例のごとく桑名までついてきた狐と烏が、こっそりと船に乗り込んでしまい、途中で荷物の間に隠れているのを秋依によって発見されたのだ。

 よくよく見ると、狐は綺麗好きな若い娘が髪を丁寧に櫛っているかのような美しい毛並みをしている。瞳は潤いのある黒い光沢に包まれ、一生懸命に何かを訴えていたが、残念ながら秋依には理解することができない。

 狐はほとんど揺れの収まった船底から岸へ一気に飛び移ると、秋依に向かってキューンと一声鳴いた。

「なんだか人間みたいだなぁ。狐と烏が仲が良いなんて聞いたことないぞ」

 しゃがみ込んで小さな獣たちを見つめている千夏は、好奇心の塊のように声を弾ませている。

 しかし、狐たちはすぐに人間の集団から逃げるように、そそくさと離れていき、低い茂みの中に身を隠してしまった。

「どうせまた勝手についてくるんだから、放っておくか。じゃあ、とりあえず、熱田の宮に向かうか」

 葛城王が眩しそうに見上げた先には、台地の上にそびえ立つ熱田の宮だった。

 

 長いこと外気に触れていたせいで、浜奈の耳は氷のように冷たく、ぎりぎりと痛みが出始めていた。真冬の旅はやはりつらいものがある。

 熱田の宮からは、眼科に伊勢の海が見渡せる。桑名から養老、大垣の付近までが海岸で、愛知郡熱田の地は細長い岬になっていた。船で海路を進む間には、いくつかの島を通過した。だいたい2刻ほどで行き来することができるが、悪天候の場合、遭難することもあると言う。

「浜奈、千夏、そろそろ中に入ったらどうだ?」

 正殿などとは別に敷地の端に設けられた接客用の建物の中から必登が呼び掛けた。楓は潮風が寒くて耐えられないと1人さっさと室内に入って火鉢の前を陣取っている。

 出された生姜湯を飲んで体が暖まってきた頃、「失礼しますよ」と、部屋にある中年男性が入ってきた。神社の関係者とひと目でわかる格式高い白い装束に身を包み、脇に小箱を抱えている。

「これはこれは、大宮司だいぐうじ。突然お伺いして申し訳ありません」

 葛城王は瞬間的にへらへらした表情を引き締め、丁寧に頭を下げて礼を示した。それに倣って秋依たちも挨拶をする。

 この中年男性の名は、尾張宿禰稲置おわりのすくねいなきと言って、代々この地の有力豪族として君臨してきた尾張氏の当主であり、熱田の宮の大宮司でもあった。

「早速ですが、宮簀媛みやずの御墓にまつわる言い伝えが書かれた文献はこちらになります」

 大宮司は小箱から文献を取り出し、汚れないように白い紙を床に広げてその上に置いた。そして、該当箇所の頁を開くと、葛城王の方へ差し出した。

「そもそも、熱田の宮は倭建命やまとたけるのみことが妃である宮簀媛に草薙剣をお預けになり、そのまま伊勢国で亡くなってしまったため、媛がこの地で剣を祀ったのが始まりです。宮から北西にほんの少し歩いていくと、媛の御墓、その手前には倭建命の御墓があります」

 東国遠征で葛城王たちがなぜ初めに熱田の宮を訪れたのかと言えば、『異伝東征古潭』によると、宮簀媛の御墓の地下に四神の秘宝の1つが眠っているためである。しかし、秘宝が具体的に何かは書かれておらず、宮簀媛の御墓を管理している熱田の宮になら何かあるのではないかと推測してやって来たのだ。

 当てずっぽうと言われれば否定できないが、どのみち大宮司に会っておく必要はあった。ただし、四神の秘宝を探しているという目的は伏せており、各地の御墓や御陵の言い伝えを整理するために勅命で若手官吏が動いているとだけ伝えた。

「『御墓の地下に世にも稀なる秘宝眠りたり。秘宝に願えば忽ち白き幻惑現れ、灼熱の地獄、死せる凍土を常春に変え、鋭きやいばをも柔らかき光に為さん。』 何だこのすごい力は。白き幻惑ってのがよくわからないけど、熱も氷どころか、剣や矢も無力化するってことか!」

 白き幻惑というのは、この秘宝を守る白虎と何かしら関係があるに違いない。武器を無力化できるとなれば、無敵ではないか。必登は武官として是非ともその秘宝を手に入れたいと思った。

「大宮司、実際にその秘宝を見たことがある人はいるんですか?」

 浜奈が尋ねると、大宮司は頭を振った。

「いいえ、誰も見たことがないし、あの御墓に入った者すらいないでしょうね。どういうわけか、見えない壁に阻まれて石室の入り口付近には近付けないようなのですよ」

「他に地下に入れそうな場所は?」

「私が知る限りではありません。もしあったら、とっくに盗賊が見つけて侵入してるはずです」

 そして、大宮司はふとあることに思い至って、恐る恐る若い官吏たちを見回した 。

「もしや、御墓の秘宝を見ようと、あの中へ入るおつもりなのですか?」

「え、いや、そういうわけでは……」

 否定をしたつもりでも、必登の視線があらぬ方を向いていることから侵入を試みようとしていることがわかってしまう。老は親友の馬鹿正直な反応に溜息をついた。ああ、こんな調子じゃ、いつまでたっても楓に「だから武官は」と白い目で見られ続けてしまう。

 後で交渉事や秘密事項に関わるやりとりは葛城王か自分に任せろと言い聞かせねば、と老は決意した。

 大宮司は若者たちが秘宝を見たがっているのだと憶測すると、慌てて制止した。

「どうかどうか、お止めください。あなた方のような前途洋々の若者たちが危険な目に遭う必要はございません。秘宝は秘宝のままで良いのです。宮簀媛の御霊みたまを静謐のうちに眠らせておくことが、我々の務めでございますから。万が一、あなた方の身に何かあれば尾張一族はどうにもこうにも……」

 何度も頭を下げ、父親のような慈愛を持って止めろと言う大宮司の姿を見て、皆ビミョーな気持ちになった。たぶんものすごい何か勘違いされている気がする。また必登が余計な反応をしないうちに、老がきっぱりと返事をした。

「大宮司、ご心配には及びません。ただ、文献を見せていただくのが目的ですし、我々は盗賊ではないのですよ」

 老の明確な態度に安心したのか、大宮司は「ええ、ええ、文献ならいくらでもご覧になってください」と柔和な笑顔を取り戻した。

 その後、大宮司が神事の準備があるからと席を立ち、秋依たちは提供してもらった文献を隈なく読んだ。

 熱田の宮を去る時、ずっと大人しく黙っていた浜奈が周りに聞こえないような声で千夏を呼んだ。

「ねぇ、千夏」

「ん、何?」

「確か尾張国守って、大伴の親族が就任してたよね」

「そう。大伴手拍おおとものたうち叔父さんだけど。冷たい感じの人で、あたしちょっと苦手なんだよねぇ。で、それがどうかした?」

「うん、ちょっと気になることがね……」

 浜奈は千夏の耳元に顔を寄せて、何事かを囁いた。

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