Stage 3-9

「浜奈、食料の袋は重いだろう? 俺が持つよ」

 隣に並んだ長身の影に気付き、浜奈ははにかむように見上げた。旅装に身を包み、もはや皇族の影も形もなくなっていたが、葛城王の品のある美しい顔立ちと深みのある声は相変わらず、浜奈の乙女心をとろかす。

「ありがとう。じゃあ、お願いします」

「君はそういう庶民的な衣装でも、可愛さが失われないね」

 葛城王は身を屈めて浜奈に囁いた。

「このまま身分とか捨てて、君とどこかへ逃げてしまいたいくらいだよ」

 刺激的な甘い言葉に、浜奈は何も言えず、ただ頬を紅色に染めるだけだった。すると、後方から楓の不満たらたらの声が響いてきた。

「あー、重いわぁ。衣類も意外とかさばるのよねー。ちょっと、葛城、私の分も持ってくれてもバチは当たらないわよ」

 さっきから葛城王が浜奈に甘言を囁いているに違いないと察知した楓が、これみよがしに妨害したのだが、楓のすぐ後ろを歩いていた必登が真面目に受け取って、楓に声を掛けた。

「気付かなくて悪かったよ。武官にとってはそれくらいの荷物、どーってことないから。さあ、貸して」

 葛城王を浜奈から引き離すことに失敗した楓は、内心、舌打ちをしたが、荷物が重かったのは事実なので、ありがたくガタイのいい衛門大尉に袋を2つも押し付けた。

「武官って便利ね。力技しか脳がないんだから運搬業も請け負えば?」

 武官を野蛮な人種だと軽蔑している楓は、特にお礼を言うこともなく、すたすたと歩いて必登から離れてしまった。

「後宮随一の美女を手懐けるのは、相当苦労しそうだな」

 にやにや笑いながら言ったのは老だ。

 氷高内親王と最後に図書寮で会った日から、ことあるごとに必登の視線が楓の方に引き寄せられていることに気付いた老は、武勇優れた友人の心が既に骨抜きになっていることを見抜いていた。

「えっ、別にそんなんじゃないよ。せっかく仲間になったんだから、親しくなりたいとは思ってるけど」

「だから言っただろう? 後宮の才媛相手に和歌の1つでも詠めないなんて、お先真っ暗だぜ。結局、歌垣でも不戦敗だったしな!」

「それは言うなよ。妹をどうにかする方が重要だったんだからさ」

「それもそうだな。でも、相手があの葛城王だったとはね……」

 必登は妹を老に勧めようとしていたが、彼女を狙う相手の格が違い過ぎて黙る他なかった。葛城王の女性遍歴は有名だが、強制力が働くことはないので、妹が受け入れるのであれば兄としても、あいつはやめとけとは言えない。

 右大臣の娘と婚約しているらしいが、だからと言って浜奈を娶ることが許されていないわけではない。

「妹が幸せになってくれればそれでいいさ」

 必登は肩をすくめてみせた。


 その峠を見上げた時、誰もが「引き返したい」と思った。

 伊勢大山(鈴鹿山脈)は東国行きを阻むかのように横たわり、山頂付近は白く染まっている。

「これ、越えるのよね……?」

 楓が無意識に呟くと、浜奈は親友の白く美しい手をきゅっと握った。

「大丈夫。加太かぶと越えは大昔からなされてきたんだ。きちんと道も通ってるし、比較的緩やかだって聞いたよ」

 女性陣の不安を取り除こうと葛城王は微笑んだが、心を動かされたのは浜奈だけだった。

 とにかく引き返す訳にはいかないので、歩き始める。事前に聞いていた通り、道は慣らされていてさほど歩きにくいという感じではなかった。

「休もうか」

 必登が適当な場所を見つけて、声を掛けた。指揮者は葛城王ということになっているが、こういう移動に際しては必登が判断するようになっていたし、葛城王も任せることにした。

「やっぱりあの狐たち、俺たちについてきてるな。秋依の方ばかり見てるぞ」

 老は自分が食べていた干し肉の欠片を放り投げた。狐の背に止まっていた烏がこれ幸いと、おこぼれを突く。

「なぁ、俺たちに用があるのか?」

 秋依が近付くと、狐と烏はくるりと背を向けて逃げてしまう。しかし、ほんの数歩だけ後退し、また茂みの影から秋依たちを覗き見るのだった。

 かなり上に太陽が昇っている。このまま行けば日暮れ前に峠を越えて伊勢国に入れそうだ。

 再び歩き出したその時、今まで大人しくしていた烏が突然、けたたましく鳴き、秋依たちの上空をぐるぐる周り始めた。

「どーしたんだ?!」

 明らかな異常事態に、葛城王と必登は剣と大刀の柄に手をやった。

「見て! 何かこっちに突進してくる!」

 浜奈が声を上げ、ある方向を指差した。岩のような黒い塊が林の奥から一直線に、こちらへ向かってくるのが見えた。立派な牙をギラつかせた猪ではないか!

「老、早くどけっ」

 猪に1番近い位置に立っていた老は、葛城王の声に反応しようとして、できなかった。初めて見る大きな山の獣の姿に驚いて、あろうことか逃げるというよりもまじまじと見つめてしまったのだ。

「何やってんだ!!」

 葛城王の放った矢は運悪く牙に跳ね返されてしまい、必登が老の体を鷲掴みにして引き寄せようと動いたその瞬間、黒い塊は林から鼻先を出した辺りで、ドサッと音を立てて倒れた。

「せんせー、あんたマジで馬鹿だな! 猪の牙にかかったら死ぬぞ!」

「えっ……」

 老は我に返って声のする方を見た。

 どうしてここへ……という言葉は、浜奈の吃驚の声に掻き消されてしまった。

大伴郎女おおとものいらつめ、あなた一体何やってるの?! 一人で来たの?!」

 浜奈は親友の登場に嬉しいような困ったような顔をしつつ、千夏の首にかじりついた。

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