Stage 3-8
真冬の朝焼けの中、たっぷり衣類を着込んだ秋依は何度も後ろを振り返りつつ進んだ。これから長い長い旅が始まる。
直線に進む朝日が、藤原の都の姿をくっきりと形作り、影を浮かび上がらせていく。外から見ると、大極殿の堂々たる規模に改めて圧倒された。この都もまだ発展途上なのに、近々、遷都を行って離れていかなければならない。とてももったいないような気がしたが、自分たちの任務を成功させ、新しい都造りの一翼になるという夢はやはり魅力的に思えた。
「耳成山ともしばらくお別れかぁ」
必登がしみじみと呟くと、皆が揃って耳成山を仰ぎ見た。
「感傷に浸ってるヒマはないのよ。この先、長いんだから」
冷静な楓が、前進を促す。
「まず、宇陀を通って桑名まで出ないとね。でも、鈴鹿の辺りが厳しいな」
秋依は不安になった。この真冬に体力の弱い女性を2人も連れて峠を越えなければ、東国へは出られない。後ろを歩く女官たちを、ちらりと見ると、元気に楽しげにお喋りに興じている。この状態がいつまで保つのか……。
その様子を目にした老は秋依の考えていることを察し、千夏のことを思い浮かべた。
(あのじゃじゃ馬娘なら武官並みの体力と生命力なんだろうな。なんたって、得意なことが野宿と狩り……)
頭痛が痛いとはまさにこのことだ。しかし、老の悩みの種は香具山の北に置いてきた。最後の大伴家訪問の日、老が理由は教えられないが長期間、都を不在にするのでもう来られないと告げると、千夏は突然不機嫌になって書物をこちらに投げつけてきたのだった。
「中途半端なヤツだぜ、まったく」
千夏としては、勉強はさっぱりやる気になれなかったが、定期的にやってくる人間と、狩りの成果を鍋や焼き物にして一緒に食べるという楽しみができつつあったのに、あんまりな幕引きだった。
「君はちゃんと才能があるはずだ。勉強用の本は残していくから俺がいなくても――」
「ばっかじゃねーの。せんせーがいないのに、弟子が勉強するわけないじゃん」
いや、俺がいても何もしないだろ、と老は盛大に心の中でツッコんだが、今更言葉にするようなことではない。
千夏はその後、不機嫌なまま黙りこくって、最後まで老に口をきかなかった。
同じ時期、千夏は大好きな女友達である浜奈からも、老と大して変わらない内容の、長期的なお別れの言葉を聞かされていた。
「何をしてるかは言えないんだけど、当分家に帰れそうにないんだ」
「ふーん。それ、あたしの家庭教師にも言われた」
「えっ。あ、そ、そうなんだ~。皆、忙しいのかな」
浜奈と老が関係していることを悟られまいと、浜奈は慌てて知らぬふりをして取り繕った。千夏は納得出来ないといった顔をしていたが、浜奈があれこれと必死に暖かい言葉をかけてくれたので、別れ際に浜奈をぎゅっと抱き締めた。
(ああ、隠し事はしたくないんだけどなぁ)
根が素直な浜奈は、職務以外の人間関係で後ろめたいことをするのが心苦しかった。だから、大伴家の正門から出て行く親友の姿を見送りながら、満面の笑みを浮かべて、今にも鼻歌を歌い出しそうになっている千夏のことなど気付くはずもなかった。
藤原京を出て東へ進み、歌垣が行われた三輪山山麓の
標高はそれほど高くはないが一帯が山地であり、文官組の息は荒く、休憩に適した小さな寺に入ると途端に座り込む始末だった。
「あっつー。こんなに一気に歩いたの、初めてかも!」
「明日、絶対に脚だけじゃなくて体全体が痛くなるわね……」
「さっきまで元気に笑ってたのにな」
必登は苦笑しながら妹と楓に水筒を渡した。
「行程や地形は図書寮で頭に叩き込んだけど、実際は行ってみないとわからない。この先、僧侶が加わってくれるといいんだけどね」
額の汗を手の甲で拭った葛城王が、小さな寺の僧侶たちを眺めながら言った。
「どうして僧侶が必要なんだ?」
秋依が首を傾げると、葛城王が答える。
「彼らは厳しい修行で心も体も鍛えられてるし、地形に詳しい。それに、簡単な治療ができるし、功徳を積んだ僧侶なら回復術が使えるんだよ。こういう長旅には不可欠だろう?」
「なるほどね。でも、都合よく同行してくれる僧侶なんているのかなぁ」
「それこそ、縁次第だろうな。」
なら、お前ががんばって歩きながら経でも読めよと、老は必登をからかった。粟田家は兄妹揃って素直で楽天的な性格をしている。世の中をちょっと斜めに見がちな老には眩しいが、嫌いではなかった。
「ねぇ、秋依、どうしたの? さっきから、ちらちら何かを見てるようだけど」
「ん、ああ、ちょっと気になるものが視界に入ってきてさ」
秋依は浜奈だけでなく、皆にわかるようにある方向を指さした。寺の周りに大股で行けば簡単に渡れるくらいの小川が流れており、その向こう側には竹林が広がっている。竹林の一角がさっきからゆらゆらと揺れて、何かが潜んでいることを伺わせた。
「あれは、狐?」
「烏もいるね。じっとこっちを見てるよ。食べるものがないんじゃないのか?」
秋依はその狐と烏が、間違いなく自宅の庭と歌垣の会場に出没したのと同じだと確信できた。一体、俺に何の用があるんだろう……。不思議ではあるが、何となく愛嬌のある雰囲気を出していて、怖いとか不気味だとか、負の感情は抱かない。
今までも出くわしたことがあると説明すると、葛城王はじっと小動物たちを見て言った。
「お前たちは、何かの使いなのか? それとも、神の化身そのものなのか?」
6人の人間から注目を浴びてしまった狐と烏は、どきっとしたように見えた。そして、秋依に助けを求めるかのような上目遣いをして、すぐに竹林の奥へ姿を消してしまった。
「そういえば、倭建命は道中、神の使いや化身に遭遇してたわね。鹿や猪だったかしら。でも、体の色は白だったはず。いかにも、って感じだけど、さっきの狐と烏はほんとにただの動物だったじゃない?」
「ま、今までも俺を見てただけで、無害だったから放置しといて大丈夫だと思うよ」
十分に休息を取った一行は寺を出て、前進した。
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