Stage 3-7

 図書寮の執務室に入ると、長身の葛城王を下から覗き込むようにして、氷高は尋ねた。他の仲間たちはもう少ししたら来るはずだ。

「いつも使ってる弓ですよ。内舎人になる前からの相棒なんで」

 儀式用の大弓でもなく、小型の威力が低くなる弓でもなく、兵衛や衛士たちが日頃から使っている弓と同じ仕様ではあるが、葛城王の弓は素材が格段に違う。地方の軍団などで用いられている弓は粗悪なものが多く、訓練中に真っ二つに割れて怪我をしたりすることもあるらしい。しかし、この弓にそんな心配は無用だ。

「とても素敵ね。ちゃんと間近で見たことなかったけど、使い込まれてるのに古びた感じがしないわ」

 敬愛する内親王からお褒めの言葉をもらい、葛城王は破顔した。なぜ自分が文にも武にも力を注ぎ、並居る官僚たちを凌ごうと努めているのかと言えば、それはこの聡明で美しく、たおやかな内親王の片腕となり、御身を守りたいがためなのだ。その役目は、武智麻呂では駄目だし、まして他の氏には任すことはできない。

「明日から遠く離れてしまいますが……」

 葛城王は氷高の片手を取り、心を込めて言った。その端正な笑顔と深い声に魅了されない女性はいないだろう。

「常に私の心は内親王様の元にあります。距離が何だと言うのです。この弓に誓って、あなたをあらゆる危険からお守りします」

 真冬の儚い夕日が、葛城王の顔を照らした。2人はじっと見つめ合い、明日から離れ離れになってしまう事実を実感していた。

「ゲホッゲホッ。あのぉ、大変申し訳ございませんが……」

 まるで恋人同士の逢瀬を覗き見しているような気分を味わった安万侶は、赤面しつつわざとらしい咳払いをした。

 葛城王と氷高がはっと気付いて振り向くと、執務室に秋依と楓が入ってきたところだった。

「秋依、別にあの2人はデキてるわけじゃないのよ」

「え、あ、そうなんだ」

 状況を察知した楓が、小声で秋依に耳打ちした。楓に言わせれば、あの大袈裟な振る舞いは葛城王の忠臣ごっこなのだが、それは言葉には出さなかった。まぁ、カッコつけが似合ってるし、葛城王の内親王への忠誠心は本物らしいし――。

 ほどなく、残りの仲間も揃った。図書寮に神鏡が設置されているのは、どう考えても奇妙だが、皆、黙って横に整列をして内親王の言葉を待った。

「いよいよ、出立ですね。私と面するのはこの場が最後となります。今まで打ち合わせをした通り、あなたたちの叡智と勇気で秘宝を入手してきてください。さぁ、それぞれの大切な物を前に出して」

 既に氷高に大切な物を見せていた葛城王は、躊躇いもなく愛弓を前に差し出した。それを横目で見た必登が、ぐいと大刀を突き出してみせた。

 兄の隣に立っていた浜奈がそっと胸に抱えたのは、歌垣で葛城王にもらった美しく繊細な刺繍が施された円扇だ。

(ちぇ、俺って負けてばっかじゃんか)

 秋依は敗北感を必死に取り繕って、自分の大切な物を掲げた。

「なんだよ、それ?」

 見慣れない道具が登場して、思わず必登が尋ねた。掌を少しはみ出す程度の大きさで木製。半月形をしている。一体何なのか。

「分度器って言うんだ。うちの職場ではその辺にごろごろ転がってるようなもんだけどね。設計や建築には欠かせないんだ。俺の愛用品」

「へぇ、さすがは木工寮の男だな。今度、どうやって使うか見せてくれ」

「もちろん。で、老が持ってるのは……って、刀子とうすかよ?!」

 刀子。それは役人ならば誰でも毎日使う小さな刀である。木簡に書いた文字を削り、また同じ木簡に別の文字を書くための必須道具ということで、下級役人は「刀筆の吏」とも呼ばれる。老は下級役人ではないが、刀子は将来を嘱望される文官としての誇りを抱く彼らしい愛用品なのだった。

 老の刀子は、鞘と柄の部分が赤黒い漆で塗られていて、ひと目で完品ではないとわかる。

「これは俺が今の職に就いた時、父が贈ってくれたものだ。小さくて軽いけど、俺にとってはすごく重い」

 自分に言い聞かせるようにゆっくりと言う老に、氷高は胸に光が灯ったように感じた。

「じゃあ、最後は楓ね。もちろん、アレでしょ?」

 浜奈は訳知り顔で、楓に視線を送った。すると、楓は懐から長細い木の棒を取り出して、横向きに唇に当てた。楓の大切な物は、1本の横笛だった。

 妙なる調べというものを、必登は生まれて初めて聞いた気がした。演者の揺るがない意思を秘めつつ、玉虫色に流れるとしか表現しようのない音色が、仄暗い図書寮の執務室に縦横無尽に広がり、たちまち仙界に変えてしまったかのような雰囲気となった。

 誰もが聞き惚れたことは言うまでもないが、特に必登は衝撃のあまり、しばらく呆けた状態に陥った。日々、野郎どもの巣窟で名高い衛門府では、怒号やら様々な武器がぶつかり合う硬質で容赦無い音が飛び交い、それに耳慣れてしまった者にとって、楓の横笛は奇跡としか言いようがなかった。

「楓が横笛の名手ってことは、後宮では有名だもんね。何度聞いても、うっとりしちゃう」

「ありがと、浜奈」

 才色兼備かつ楽の才も天から与えられた楓には、褒め言葉は日常茶飯事だったが、親友からの称賛には素直に感謝の言葉を返すことができる。楓は横から必登の視線を感じていたが、そちらはさり気なく無視をした。野蛮な武官に楽の奥深さがわかっているとは思えない。

 皆の大切な物が明らかになったところで、氷高は神鏡の隣に立て掛けてある御幣を手に取り、祓詞を唱えると、御幣を大きく左右の空間に振った。

「これであなたたちの大切な物には、特別な力が宿ったわ。忘れずに旅に携行してください」

 そして氷高は最後に、安万侶から宝剣を受け取って、ある革袋と共に葛城王に授けた。

「陛下からあなたへ。全幅の信頼をもって、四神の秘宝探索を命じます。この宝剣は使い手の想いに応えてくれます。どんな困難に直面しても決して諦めないで」

「はっ」

 跪いた葛城王が宝剣と袋を受け取った時、ほんのわずかな時間だが、その手と氷高の手が触れ合った。ひんやりと冷たい内親王の手を、ぐっと握りしめたい衝動に駆られたが、葛城王は平静を装って宝剣と共に手を引いた。

 ――ここに、6人の若者で構成された東国遠征団が結成されたのである。

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