Stage 3-2

 噂になっていた葛城王は、歌垣で出会った娘が誰か特定していた。特徴的な癖毛と顔立ち、それにえくぼを見せる若い娘を、葛城王は既に見知っていたのである。

 中納言粟田真人の愛娘で、蔵司の第二幹部――粟田浜奈。

 直接告げられる前に退散しなければならなかったが、葛城王は彼女の名前を知っていた。

 男女百官が集う国の行事で、何度か見たことがあったし、氷高内親王の護衛として後宮の役所を訪れた時にも、少し離れた位置から彼女の姿を見たこともある。

「公私で随分と違う顔を見せるんだな、あの娘は」

 男もたじろがせるほどの聡明さと気概で職務を遂行する掌蔵が、自分の求愛で初な乙女に変身した。

 じっと見つめ返す熱を帯びた眼差しは、たくさんの女性を陥落させてきた葛城王でさえも、えも言われぬ甘美な想いを湧き起こさせたのである。

 自分よりも先に彼女に歌を詠み掛けていた庶民か下級役人風情の青年がいたが、割り込んだ形で歌を詠んだ。一対一の求愛では面白くないと思って、敢えて競争者がいるところに挑んだ。

 要するに、葛城王は遊び心から浜奈に手を出そうとしていたのだ。

多比能たびの……」

 婚約者の柔らかい微笑みを思い出しながら呟くと、胸が少しだけ痛んだ。

 多比能は駆け出しの女官で、彼女の穏やかな性格は誰も敵に回すことなく、高級女官となってもそれは武器となるだろう。そして、いずれ葛城王の正妻として彼を公私に渡って存分に支えてくれるに違いない。

(めんどくさいな)

 勢いを増しつつある大納言に素直に従うことが、何となく嫌だった。その妻となった自分の母親も、多比能との結婚を急かしてくる。

(悪いけど、俺は旅に出るよ。粟田中納言の娘と一緒にね)

 今回、降って湧いて出た四神の秘宝探しの任務は、葛城王にとって天の采配に思えた。


 大伴千夏は毛皮の敷物の上に腹這いになりながら、ある冊子を見て大笑いをした。それは、役人が身につけておくべき学問、教養である四書五経の一つ『詩経』であり、どう考えても滑稽な内容ではない。

「どこがおかしいんだ……」

 旬ごとに大伴家を訪問し、千夏の勉強を見に来ているおゆは、心底理解できないと思った。

(だいたい教師の前で、寝転がりながら講義を受けて爆笑するなんて、あり得んだろ)

 正直言ってここまで非常識な娘だとは思わなかった。知識以前の問題だ。けれど、態度を改めさせることは旅人との契約内容には入っていないので、老は見て見ぬふりをした。

 初めて大伴家を訪問した日、老と千夏は厩に向かったが、結局、香具山には行けなかった。馬が使われていたからだ。

 仕方がないので、使用人に準備を頼んで雉鍋を食べることにした。こういうのは野外で食う方がうまいんだけどな、と千夏は残念がっていたが、問題はそこじゃないだろと老は心の中で突っ込んだ。

「……君は戦場に憧れてるのか? お祖父さんが活躍したみたいに?」

 豪快に鍋を食べている千夏に訊ねると、千夏は素直に頷いた。

「爺ちゃんには憧れてるよ。でも戦には興味ない。ただ武芸が好きってだけだ。じゃあ訊くけどさ、あんたはどーして、あたしの教師を引き受けた?」

「……君には関係ない」

 老はにやりと笑った。千夏が正確に西国の政治事情や外交について知っていた理由を教えてくれなかった仕返しだ。

 千夏は、あっそと短く言って、残りの汁をかき込んだ。

 その時から数えて何度目かの訪問だが、千夏のやる気は無に近い。

「で、何がおかしいんだ? そんなに笑って」

 千夏は起き上がって『詩経』を老に投げて寄越した。そして、ある詩の冒頭を諳んじて言った。

「関関たる雎鳩しょきゅうは、河の洲にあり、窈窕ようちょうたる淑女は、君子の好逑こうきゅう。……上品で奥ゆかしい淑女こそ君子の嫁に相応しい、ねぇ。あんたはどう思う?」

「一般的にはそうだろう。君自身が1番よくわかってると思うんだが」

 千夏は一瞬目を細めて老から視線を逸らし、また別の詩の冒頭を諳んじた。

「落ちて梅有り。その実七つ。我を求むるの庶士、その吉に及ぶべし」

 この詩は婚期を逃している女の焦りを歌ったものだ。だから、老は千夏が縁談が全てご破算になってきたことを気にしているのかと思ったが、千夏がゲラゲラ笑っているのでその考えを否定した。

「べっつに誰かの嫁になる必要なんてねぇじゃん」

「まぁ、君を妻に望む男がいたら、そいつは馬鹿の極みだな」

「なんでだよ?! 生きのいい鳥や獣を仕留められるし、うまい鍋料理も作れるし、弓馬もできるから危機が迫ったら助けてやれるんだぜ?」

「そういうのは使用人か護衛の者の仕事だろ。ところで、宿題はやったか?」

 千夏は確かに賢い娘だが、如何せんやる気がなく、宿題をちゃんと取り組んだことはない。けれども、提出はするのだ。

「ほらよ。あんたもこーゆーの読むんだろ?」

 千夏は書棚から筒状に丸めた紙を取り、老に手渡した。

 『詩経』の中の宮廷の行事で使われる優美な詩文の書き写しと読み下しをやれと指示したのだが、宿題を開いてみた老はその題名を見て固まった。

 意外と女性らしい整った筆跡でつらつらと読み下し文が書かれているが、明らかに詩文ではない。

 老はざっと目を通して、赤面した。動揺しているのがわからないように、顔を下げ、こほんと咳払いする。

「なんで君が『遊仙窟ゆうせんくつ』の写本なんか持ってるんだ! しかも、読み下し文まで……」

「すげーがんばったんだから、ちゃんと朱を入れてくれよ」

 達成感を見せている千夏であるが、この『遊仙窟』は若い娘が読むようなものではない。

 数年前に遣唐使が持ち帰った新しい小説で、風流な美文がもてはやされたのだが、内容はというと、主人公が神仙界に迷い込み、そこで仙女と歓楽の一夜を過ごすというかなり露骨で卑猥なものなのだ。

 老の職場でも若者を中心に回し読みされ、もちろん老も一読している。

(嫌がらせか、これはっ)

 千夏をちらっと見たが、彼女は何食わぬ表情で微笑んでいる。

 宣戦布告だ、と老は思うことにした。持ち帰って添削すると、ほとんど間違いはなかった。

 千夏がどうして才能を隠しているのか、いつどこで学んでいるのか、全くわからないまま、その日がやってきた――。

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