Stage 2-3

 吐く息が白い。早朝、まだ闇が去り切っていない東の空に、ぼんやりと香具山の影が浮かび、上方には星が瞬いている。

 阿閇あえは采女に差し出された羽織り物を急いで着込むと、窓際を離れて室内に戻った。不思議な夢を見た。空を悠々と飛ぶ大きな黒い影が印象に残っている。だが、禍々しいというものではなかった。飛翔する影はほどんど何もない更地に降り立ち、眩い光を放ちながら消滅した。

 そこで阿閇は目覚めたのだった。

「今朝は特にお寒うございますね、陛下」

 朝食を運んできた采女の言葉に、阿閇は「本当にね。皆も風邪に気を付けて」と返した。

 この国を統べる女帝となった阿閇には、一つの課題があった。ここ藤原の地から都を移すという大事業である。今日も朝食後の朝政で遷都のことが話し合われることになっている。

 朝食が終わると、阿閇は朝政の場に向かった。既に臣下たちは参集している。いつものように、阿閇はまず彼らの報告や議論に耳を傾けた。

「様々な場所に人を遣わし、地形などを調べさせたところ、平城の地が遷都先に最も相応しいのではないかと思っております。こちらがその地形図です」

 老の父親である参議小野朝臣 毛野けぬが奏上し、侍従の一人が地形図を阿閇に手渡した。

「ご覧の通り、北には山、南には池、東に川が流れ、西には道が走っております。現在の藤原の地よりも遥かに陰陽思想に合致しているのではないでしょうか」

 参議に続いて、大納言の藤原不比等が発言する。

「ここは既に河川の治水や農耕用水路の灌漑管理がしっかりしている場所ですし、難波にも近江、東国にも水運が通じている要所となっています。飛鳥や藤原の地からは遠くなりますが、新しい不動の都を作るには最適かと存じます」

 不比等はどうしても遷都を実行に移したいようだった。確かに新興の藤原氏としては、旧勢力の地盤が固い飛鳥や藤原の地を政治の中心とすることには、不満があるのかもしれない。

 阿閇自身の気持ちで言うと、まだこの都も発展しきっていないのに都を移すのは気が早いと思っていた。早逝した夫、草壁皇子くさかべのみこと育ってきた飛鳥が恋しいし、つい数か月前に崩御したばかりの息子が即位したのは今の都だ。

 阿閇にとっては、肉親の記憶と引き離されてしまうことになる遷都はできるだけ、後にしたかった。

 けれども、国の政に私情を挟んで、国の命運を変えるようなことがあってはいけない。それに、不比等を始めとする臣下が遷都を主張するのももっともな話なのだ。

(私が生きていられる時間はそれほど長くない。孫がいるお婆ちゃんだものねぇ。未来永劫、この場所が私の都ってことはないのだわ)

 孫の首皇子おびとのみこはまだ6歳。あと10年しても即位するには幼すぎる。彼が十分に成長するまで、阿閇の長女である氷高皇女ひだかのひめみこが国を支えることになるだろうが、どのみち首皇子がこの国の舵取りをしなければならない日がやって来る。

 その時、彼には新しい時代に相応しい都が必要だ。

 ここにいる臣下たちも若くはない。息子や娘たちが新進気鋭の官僚として動き始めていると聞く。遅かれ早かれ世代は交代する。

 阿閇は若い官僚たちのことも想った。彼らが活躍する新しい場を考えるのが、今の私の務めでもあるのではないか――。

「朕は遷都に反対するわけではない。ただ、やるからには徹底したい。他の候補地について情報がありません」

 阿閇は平城以外の土地の名をいくつか挙げた。

 しかし、どこも広さが足りなかったり、陰陽思想に適わなかったり、交通の便が悪かったりと平城の地を上回る場所はなかった。

 都の形をどうするかはまた別の審議に委ねることになった。

「次回の朝政では、先の遣唐使を率いた粟田中納言が長安城についてご報告いたします」

 右大臣がそう締め括り、この日の朝政は終わった。


「吉野山の黄葉はまだ見頃になってないかしら」

「そうですね、今朝の冷え込みで急に色付くかもしれませんね」

 朝政とは打って変わった、まったりとした雰囲気で会話ができる相手は限られている。幼少期からよく知る縣犬養三千代あがたいぬかいのみちよはその一人だ。尚侍の職に就き、後宮を取り仕切っている彼女であるが、仕事とは離れても阿閇のよき話し相手や相談相手だった。

「ところで、三千代。朝政に出てすっかり忘れていたけど、不思議な夢を見たのよ」

 阿閇は夢の内容を手短に伝えた。

「それは新しい都に降り立つ鳳凰なのでは? 瑞祥に違いありませんよ」

 菓子を切り分けながら、三千代は微笑んだ。主君が大事業のことで日々、頭を悩ませていることはよく知っている。だからこそ、夢の御告げが背中を押してくれているのだ信じたい。

「鳳凰ねぇ。そういえば、平城の地は四神の守りと合致しているとか。鳳凰は朱雀とも考えられるわね」

「ええ。では、明日は青龍の夢をご覧になるかもしれませんね」

 二人は笑った。三千代はまだ40代の始めだが、阿閇はその後半に突入してしまった。皺が気になる年齢と言えるが、彼女たちにはやるべきことがたくさんあったし、気持ちは若いままだった。

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