Stage 2-2

 さすが、武芸の名門大伴氏の屋敷だな、とおゆは感心した。

 旅人からじゃじゃ馬娘の教育を頼まれてから最初の休日、老は早速、香具山の北に位置する大伴 牛養うしかい宅の門をくぐったのだった。

 大伴の私邸の警備は固く、庭の隅に設けられた弓道場では舎人とねりたちが鍛練をしている。

 取り次ぎをしてくれた使用人がそのまま客間へ案内をしてくれることになり、老は屋敷の様子を見ながら後を付いて行った。

「………」

 妙な沈黙があったのは、客間に入っても、そこで待っているはずの千夏がいなかったからだ。使用人は慌てて、「お嬢様を探してまいります!」と出ていってしまった。

「こりゃあ、彼らも苦労するだろうな」

 老は苦笑した。

 しばらく待たされそうなので、老は客間を出て、その建物内を歩き始めた。

 応接用と宿泊用の客間が2部屋ずつ、竃と小さい井戸のある厨が1つ。今は特に使われている様子はない。

 老はふと廊下から窓の外に目を向けた。人の気配がした気がして近付いてみると、格子窓の反対側、つまり外側から若い女性がこちらを見つめていた。

「あ、どうも……」

 挨拶とも言えない言葉を掛けると、格子越しに女性はぱっちりとした瞳の顔を恥ずかしそうに下げて、袖で顔を隠しながらその場を立ち去ってしまった。

 薄くきちんと化粧をして、それなりに整った服装を着ているところからすると、使用人ではなさそうだが、姫かと言われると違う気もする。

大宰少監だざいのしょうげん殿の娘はあの奇抜な姫一人と聞いてるんだが…… 」

 正妻ではなく妾の娘ということも考えられる。もっと華やかに着飾れば、武装したじゃじゃ馬娘よりずっと美しいかもしれない。

 そんなことを思ったが、じゃじゃ馬娘の素顔を知らないので、あくまで仮定の話だが。

 客間に戻った老は、いつの間にか用意されていたお茶とお菓子をありがたくいただくことにして彼女を待った。

 そして、それから4半刻(30分)後、ようやく待ち人が現れた。

「………」

 今回の沈黙は、客間の簾を勢いよく上げて入ってきた千夏のとんでもない姿に、老の思考が止まったせいだ。

「あんたがあたしの先生なんだろ?」

「……あ、ああ」

「遅れて悪かったな! 先生が来るって聞いたから、香具山に狩りに行ってたんだ。ほら!」

 千夏は噂通り男装をしていたが、全身泥だらけで縛り上げた髪には枯れ葉がついている。そして、にっこり笑いながら老に掲げて見せているのは、仕留めたばかりの雉である。

「とりあえず、雉鍋にしようぜ、先生」

 何から突っ込んでよいのかわからない。

 朝廷のどんな困難な仕事も冷静沈着に対処してきた小野家の若き明星が、目の前の小娘に狼狽して固まっている姿は、後にも先にもないだろう。

 老は大きく息を吸い込んで気持ちを整えた。

「とりあえず、その血まみれの雉は舎人に引き取ってもらいなさい。それから、きれいな服に着替えて。俺はここで待ってるから」

「雉鍋は嫌いか? あたし、捌くの上手いんだけど」

「食事は後でだ! いいから、まともに話ができる状態にしてくれ」

 老が一喝すると、千夏は少し困った表情で訊ねた。

「きれいな服って、やっぱり女が着るやつ?」

「……何でもいい。泥と枯れ葉と雉の血がついてなければ」

 老は努めて冷静に答えた。

 千夏は、ふーんと言いながらくるりと後ろを向いてニヤリと笑った。ずっと男装のままでいてやる!

 その後、千夏は新しい服――もちろん、男性用の普段着を着て戻ってきた。ほつれてぼさぼさになっていた髪も整えられ、顔に付着していた泥なども落とされている。

 よくよく見れば、確かに叔父の旅人が言っていたように美貌の持ち主なのかもしれない。大きな瞳に長い睫……。だが、偽りの姿のせいで、どう見ても美女ではなく美男子である。

 ともかく、老にとってはじゃじゃ馬の容姿などどうでも良かった。知識と教養を身につけてくれることが重要なのだ。

 千夏は客間に入ると、おもむろに胡坐をかいて座った。初対面の人物と会う体勢ではない。老はそれを無視して自己紹介を始めた。

「俺は正七位上右少史、小野朝臣老だ。君の叔父上に頼まれて、君に学問と教養を伝授することになった。対価をいただくことになってるから、手抜きはしない。それで、君のことは何と呼べばいい? 大伴娘おおとものいらつめか、それとも……」

 老が真っ直ぐに千夏を見て尋ねると、千夏はほんの少し考えてからこう答えた。

「……千夏、でいいぞ」

 老は面食らった。旅人が姪の名前を口にしていて、老も彼女の名前をあらかじめ知っていたとは言え、そもそも女性の口から自分の名前を家族以外の男に安易に教えるものではない。名前を告げるというのは、特別な意味を持つからだ。

「いくら男装をしているからと言って、自分の名前を明かすなんて非常識だ。俺以外の男にそんなことをしたら勘違いされるよ」

「あたしは別に気にしない。先生だから言ったんだ」

 千夏は肩を竦めてみせた。

「でも、いい名前だろ? あたし、すっごく気に入ってんだ。爺ちゃんが命名してくれたからな」

「君のお祖父さんっていうと……?」

 他の一族の家系図まで頭に入っているわけではないので、すぐには特定できない。

吹負ふけい爺ちゃんだよ。壬申年の大乱で大海人皇子おおあまのみこ側についた将軍。かっこいいだろっ。この短剣をくれたのも爺ちゃんなんだぞ」

 腰に括りつけた短剣にそっと手を当てた千夏は瞳をきらきらと輝かせ、心の底から祖父を誇りに思っていることが見て取れた。

 そうか、この娘の男装と武芸好きは、著名な戦勝将軍を祖父に持つことに端を発しているんだなと老は納得した。

「まぁ、それはわかったけど、呼び名はやっぱり少し変えよう。……夏郎女なつのいらつめはどうだ?」

「仕方ないな、それで勘弁してやる」

「じゃあ、早速、勉強を始めよう。四書五経は難解だろうから、古記から取り組むのがいいと思う。我が国に伝わる大王たちの事績や逸話で――」

「あのさ、あたし、勉強することに『うん』と言った覚えはないぞ」

 千夏は不機嫌そうに立ち上がって客間を出ようとする。

「弓馬の練習がいい。先生もできるだろ? それだって、教えてくれるもののうちに入るじゃないか」

 今まで比較的素直にこちらに従ってくれていると安心したが、どうやらそれは間違いだったらしい。老は出ていこうとする千夏の腕を掴まえた。

「武術は教えない。そういう契約じゃないからだ」

 すると千夏は振り返り、わずかに自分よりも長身の老を下から上へと眺め、小馬鹿にするように言った。

「へぇぇ、そんなにひょろい体格で、それでも小野一族なのかよ? あんたの叔父さんも従兄たちも武官って聞いてるけどなー」

 生意気にもほどがある、と老の千夏を掴む腕に力が入った。

「叔父の一門と違って、うちは外交関係を担当している。それも小野家の務めだぞ」

 反論を試みたが、千夏はにやにや笑いながら挑発を続けた。

「じゃあ、尚更だな! あんた、そのうち偉くなって、海を越えて大陸や半島に渡るかもしれないんだろ。大勢の部下を引き連れて荒波を越えるなんて、体力がなきゃ無理だよ。大宰府の長官になったとしても、西海道の防衛も担うんだ。ほら、防人司さきもりつかさだって大宰府管下だし、何のために大野城や基肄城きいじょうが大宰府付近に置かれてんだよ。防人や異国の使者にナメられるぜ?」

 千夏はよどみなく、真っ直ぐに老を見上げて言った。いつの間にか、老は千夏を掴んでいた手を離し、生意気にも挑発してきた娘から視線を逸らしていた。

 彼女の指摘は全く正しかった。

 そして、何より驚いたのが、千夏の知識だった。後宮に出仕している女官ならともかく、政との接点もなく、自宅で男装して好き勝手に武芸に励んでいるこの娘が一体どうして……?

「……君はどこでそんな話を?」

 叔父の旅人は、『氏女として必要な政治の知識も教養も全くないんだ』と言っていたはずだ。しかし、千夏は西国や外交の基本的な事情を把握している。

「別にそんなこと、どうだっていいよ。厩に行くぞ、先生。今日は遠乗りはもう無理だから、香具山にでも行ってみようぜ」

 状況が飲み込めていないらしい老を後目に、千夏はさっさと客間を出て厩へ向かってしまった。

 この時、老は瞬時に知恵を巡らせて、これから自分が取るべき行動を考えた。旅人に今の話を伝えるか。否。ここで契約を打ち切ってしまえば、父親の昇進の口添えの機会がなくなってしまう。

 それに、このじゃじゃ馬娘に少しばかり興味を感じた。教師役としてどう接していけばいいのか皆目わからないが、もしかしたら、話が通じない相手ではないのかもしれない。鍛えてまともな氏女に変身させ、後宮に出仕させることに成功すれば、老の名も上がるだろう。

 とりあえず、教本や筆がなくても勉強は教えられる。老はやれやれと溜息を付きながら、自分も厩へ赴いた。

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