Stage 2-1
ある晴れた日のこと――。
浜奈は来訪者の名前を聞いて、首を傾げた。父への客と間違えているのではないだろうか。
「いえ、お嬢様にお会いしたいそうです。客間に通してありますので、よろしくお願いします」
使用人ははっきりと告げた。
客の名前は大伴旅人という要人で、宮中を警護する衛門府の
浜奈は読書を中断し、身なりを整えると客間に向かった。
「お待たせしました」
簡素に整えられた客間に入り、浜奈が微笑みながら会釈をすると、旅人は申し訳なさそうに頭を下げて挨拶をした。40代前半だが、武官畑を歩んでいるだけあって精悍で若々しく見える。
「せっかくの休日にお邪魔して、何事かと思っているでしょう。いやね、ちょっとうちの姪のことで相談したいことがありまして……」
「
浜奈は華やかな美貌を持つ幼馴染の名を挙げた。
「ええ。あの子はご存知の通り素行に問題があって、異性の知人は多いようですが、同姓の友達があなたくらいしかいません。父親の牛養がびしっと言い聞かせねばならんのですが、牛養は大宰府に赴任しておって、あの子はやりたい放題。大伴家の名に傷がつきかねませんので、叔父の私がお節介を焼いているのです」
旅人は心底困っているというふうに大きく溜息をついた。
千夏という娘は浜奈より1つ年長の21歳で、本来ならば大伴一族の氏女として浜奈と同じように後宮に出仕しているはずである。しかし、千夏は出仕せず、否、問題があり過ぎて出仕させてもらえず、かといって結婚するわけでもなく、気ままな生活を送っていた。
たいてい、年頃の娘が素行に問題があると言えば、異性関係が奔放であるということが思い起こされるだろう。
ところが、千夏の場合は全く凡人の思いもつかないような問題だったのだ。
浜奈は子供の頃から千夏を知っている。だからもうそんなに驚くことではなくなってしまったのだが、確かに世間一般の常識で考えると異常に違いない。
大伴千夏は、貴族の娘でありながら武装し、乗馬をこよなく愛し、おまけに男よりも威勢の良い話し方をするという奇抜な姫として悪名高かった。
「あの子は頭も悪くないし、黙っていれば美人なんだが、なんというかもう我々の想像をやすやすと超えるような言動ばかりで……。この前など、勝手に屋敷を抜け出して武術大会に参加した挙句、準優勝してしまったらしく、晴れ晴れとした表情で帰宅したというから呆れてしまいます」
「ああ、また武術大会ですか……。それで、私はどうしたら?」
「同じ年頃の娘として、千夏に忠告してやってほしいのです。男装と男言葉を止め、作法を学び、後宮に出仕するか、一族のためになるような結婚をするか、どちらでもいいから大伴家に相応しい女らしく振る舞えと」
旅人の懸念と言い分はもっともなことだと浜奈は思った。男にも役割はあるし、女にもやるべき役割がある。
でも、千夏をよく知る幼馴染として、千夏にとっては自然な言動からきれいさっぱり離れるよう注意するなんて、彼女を裏切るようで嫌だ。かと言って、千夏を心配する旅人の相談を拒否することも現実的ではない。
そこで浜奈は忠告については言及せず、一つ提案をしてみた。
「
旅人は何度も頷いていた。ともかく、乗馬と武芸以外に興味を持ってくれればいい。思えば、千夏にはどうせ無駄だからと、きちんとした教師を付けていなかったではないか。だから興味もなく、知識もない。
「無駄かどうかはやってみないとわからんね。いやぁ、やはりあなたに相談して良かった。さすが後宮の出世頭だけのことはある」
「いえ、そんな……。あの、千夏には私が家庭教師を付けるよう提案したことは内緒にしておいてください。きっと機嫌を損ねてしまうから」
「わかっていますよ。あの子は武術が好きだから、武官の私の言うことなら少しは耳を傾けてくれるはずです」
「うまくいくと良いですね。またお困りのことがあれば、遠慮なさらず話してください」
旅人は喜んで帰って行った。
形式的な課業時間が終わると、公文書の作成や記録を司る弁官局から一人の青年が出てきた。
右少史小野老は、秋とは名ばかりの空から降り注ぐ日の光の強さに目を細めた。
今朝方、雑用係の舎人が持ってきた伝言に従い、普段はあまり訪れることのない衛門府へ急ぐ。
「待ってたよ、右少史殿」
老を出迎えたのは、大伴旅人だ。
「私にご相談とは一体何でしょうか?」
「仕事のことじゃないんだが……我が一族に博識な君に是非、勉学や教養を教えてもらいたい者がいてね」
老は高官からの突然の依頼に驚き、真意を探った。大伴家に教師を付けるべき年頃の男子などいただろうか。
「どなたの教師役ですか?」
「いや、それが……」
「官人の道を進む少年が御宅にいるとは存じ上げていないのですが」
「ああ、その通りだよ。教えてほしいのは、まあ、その……」
旅人はなんとも歯切れの悪い物言いで、なかなか対象者を言ってくれない。これは何か特別な事情がありそうだ、と老は警戒した。
果たして老の推測通り、旅人が沈黙の末に明らかにしたのは問題がありまくる人物だった。
「……私の姪は大伴家の唯一の氏女で千夏と言うんだけどね、これがまたどうしようもないじゃじゃ馬娘なんだよ」
その娘の話は風の噂で何度か耳にしたことがある。年頃になっても男装して武芸を好み、男言葉を使う頭のおかしい姫――。
要するに、衛門督はそのじゃじゃ馬馴らしを俺に依頼……いや、押し付けようとしてるのか!
「というわけで、千夏に勉学の面白さを教えてやってほしい。叔父の私が言うのもなんだけどね、あの子は才色兼備で素晴らしい女性に成長するはずだったんだよ。普通に女性の姿をしていれば、彼女の美貌は宮中に轟いただろうし、才覚を発揮して天皇のよき補佐役にもなっただろう。それがなぜ自分の持つ宝を自ら否定するのか、さっぱりわからない。氏女として必要な政治の知識も教養も全くないんだ。あるのは弓馬の技術、それに野宿の知識……。なんと情けない。だから、藁にもすがる気持ちで、多忙の君にこうしてお願いしている。ああ、もちろん無償で頼むわけではないよ!」
先程から黙っていた老は、無償ではないという言葉にぴくりと反応した。
これが粟田必登ならば、正義感だとか義理人情だとかを根拠に安請け合いしてしまうところであるが、怜悧な文官である老が、おいそれとこんな面倒な依頼を引き受けるはずがなかった。
頭の中で素早く算盤を弾いた老は、旅人の次の言葉を待った。
「報償は絹と米のどちらで支払えばいいかね? 最後にまとめて良馬ということも可能だよ」
「……申し訳ありませんが、絹も米も必要ありません。十分な禄をいただいていますので」
すると旅人はたじろいだ。断られるのだろうと思ったからだ。だが、老は考えていた条件を告げた。
「その代わり、私の父の昇進の口添えをお願いしたく存じます」
「
老の父もまた重職に就いており、さらに朝議に参加できる参議という身分でもあった。そろそろ中納言あたりに昇っても良いのではないかと、息子の老は考えていた。
父が昇進すれば自分にも恩恵があるはずだ。ここで内政に従事するのも修行にはなるが、早く小野家の得意とする外交を担う職に就きたかった。
「君がそう言うなら、父上の昇進の口添えくらいお安い御用だが……昇進の保証はないよ」
「ええ、ありがとうございます。多くの人からの支持が重要ですから。姪御さんの教育は引き受けます。ただし、私のやり方で指導しますので口出しは無用ということでお願いします」
あの奇抜な姫が学問と教養に目覚めて、出仕するに足る、あるいはどこぞの貴公子から求婚されるほどの娘に変わるならと、旅人は老にすっかり任せることに否やはなかった。
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