Stage 1-6

 さて、話を冒頭に戻すと、木簡を抱えた浜奈はある回廊の一角を急ぎ足で曲がろうとしていた。あまり人が通らない、便利な裏道だ。

「きゃっ」

「うわぁ」

 軽い衝撃と共に、数歩後退してしまった浜奈は、両腕から木簡が消えてしまったことに気付いた。前方から来た人とぶつかったせいで、木簡は全て地面に落ちてしまったのだ。

「申し訳ありません」

 そう言って慌てて頭を下げた人物は確か……。

「あの、私こそぼーっとしてて、ここ、人が通るなんて思わなかったから! えっと、あなたは木工寮もくりょう楽浪工さざなみたくみでしたよね?」

「はい。あっ、すぐ拾いますね」

「ありがとうございます」

 掌蔵くらのじょうは落ち着いた、えくぼ付きの笑顔を見せた。

 秋依は高級女官が機嫌を悪くしていないことにほっとしつつも、急いでしゃがんで散在している木簡を掻き集めていった。浜奈もまた裳裾を汚さないように掴みながら、腰をかがめて木簡に手を伸ばした。

「――あっ」

 同時に同じ場所に横たわっている木簡を拾おうとした結果、二人の右手が重なった。浜奈の手が秋依の手の甲に触れている状態なのだが、浜奈はなかなか手を引っ込めようとしない。

(早く手をどけてくれよ。俺から引っ込めるのってなんか感じ悪いしさぁ)

 困ったなぁと思いながら掌蔵の顔を見ていると、秋依はとんでもない事実にぶち当たってしまった。

 髪型は違うが癖毛、印象的なくっきりとした目鼻立ち、そしてさっきのえくぼ付き笑顔……。推測が確信に変わったのは、浜奈の腰に下げられていた小型の美しい円扇を見つけた瞬間だった。

 なんてこったーーーー!!

 秋依の顔は恥ずかしさで真っ赤になったかと思うと、歌垣でのやりとりと、目の前の女性の地位の高さを思い起こして蒼白になった。

(俺が采女だと思って口説こうとしてたのが、この粟田掌蔵だったなんて、誰か嘘だと言ってくれぇぇ)

 一介の技術屋である工の自分が、まさか後宮の出世街道まっしぐらの貴族の娘に恋をしていたとは、高嶺の花もいいところではないか。

 さっきから慌てたり視線を宙に彷徨わせたり、一体この人どうしちゃったんだろう、と浜奈は不思議に思った。

 しばらく観察していると、木工寮の若者は集めた木簡を丁寧に地面に置き、浜奈を真っ直ぐに見つめて思いがけない言葉を発した。

「我妹子に恋ひてすべなみ三輪山の桧原が中に立ち嘆くかも――。この歌、覚えてませんか?」

 一瞬、何の歌だろうと怪訝に思ったが、浜奈の脳裏に昨日の歌垣の場面が蘇り、最初に歌を詠み掛けてきた若者と目の前の工がおぼろげに一致した。

「嘘ぉ、あなた、もしかして、あの時の……。えっ、ほんとに? やだっ、私とあの人のやりとりを聞いてたってことでしょう?!」

 気にするのはそこかよ、と秋依は内心ツッコミを入れたが、一応認識はしてくれたらしい。

 浜奈は頬に手を当てて、大きな瞳をぱちぱちさせている。

 彼女の正体に気づいた時点で秋依には二つの選択肢が用意されていた。一つは、身分違いの恋を封印して、掌蔵には何も告げず、淡々と木簡を集め終えること。もう一つは、歌垣で出会っていたことを明かすこと。

 下級役人としては、黙ってやり過ごすのが正しかったのかもしれない。

 でも、歌垣の場で無意識のうちに浜奈に近付き、歌を口にしていたように、秋依はここでもまた、考えるよりも先に掌蔵にあの歌を再び告げていたのだった。


 とっぷりと日が暮れた藤原京の一角で、突如爆発的な男の笑い声が響き渡った。

 と言っても、建物の中でのことなので、当事者たちにしかその爆笑は聞こえていない。

「ひー、こんな面白い話、初めてだぜ!」

 広人は文字通り腹を抱えて、秋依の自宅の床を笑い転げている。笑いの対象となった秋依は怒る気にもなれず、5度目の溜息を吐き出した。

 なぜ広人がこんなにもウケているのかと言うと、残業を適当に切り上げた秋依が広人を飲みに誘い、この日の昼間に起きたことを洗いざらい話したからだ。しかし、それだけでは爆笑にはならない。

 秋依は続けてこんなことを言ったのだった。

「俺、官を追われるのかな。それどころか、中納言殿の怒りで死罪になるかも。だって、大事な一人娘を、俺……」

「えっ、ま、まさかお前、粟田掌蔵ともうそういう関係になったってのか?!」

 広人は親友の行動力にすっかり感心した。正体が明らかになったとたん、あのキザな美青年を出しぬいて掌蔵を自分の女にしてしまったとは。

 しかし、秋依は「違うよ」と呟いた。

「そんなことできるわけないだろ。そうじゃなくて、あんな高嶺の花に惚れちゃったってことが、お前以外の人たちが知るようになったら……俺は終わりだぁ」

 頭を抱えて呻く親友を見て、広人はがっくりと肩を落とした。

 高級女官に憧れや恋心を抱く男は、この藤原京には腐るほどいる。そんなことくらいで、死罪になるはずがない。

「恋は盲目って言葉の体現を見てる気分だよ。ていうかさ、別に恋しい気持ちをやましく思う必要はないと思うぜ。それより、掌蔵がお前のことをどう思ってるかの方が重要じゃねぇの?」

 広人が笑いを堪えて尋ねると、秋依はさらにおかしなことを話し出した。

「十中八九、どうとも思ってない。掌蔵は俺が歌垣で歌を詠み掛けたってことには気付いてるんだけど、それがどういう意味なのかについては全くわかってないんだ。たぶん、あのきらきら男に心を奪われてて、俺の存在を恋の相手として認識してないっぽい」

「それもある意味すげえな」

「それでさ、掌蔵にこんなこと言われちまって……」

 あの人気のない回廊で、木工寮の青年が歌垣で知り合った人物だと判明すると、浜奈は嬉しそうに微笑み、

「あっ、そうだ。あなたに恋の相談をしてもいい? せっかく知り合いになったんだから、仕事とは関係なく友達になりましょうよ! 私にこの円扇をくれた人、どう思う? 男の人ってどうしたら喜んでくれるのか、私いまいちわからなくて……。でもその前に、彼が誰か特定しなきゃね。今度、お酒でも飲みながら色々相談に乗ってくれると助かるな」

 と、秋依に言ったのである。

 秋依は色んな意味で驚愕した。冷静沈着でやり手の高級女官が、夢を見るように頬を染めながら乙女心全開で一方的に話しかけてきたこと、そして、そもそも秋依を恋の対象とは見ていないこと――。

「で、おめおめと友達として恋の相談に乗るって約束してきちゃったのか、お前は」

 広人が爆笑した所以だ。

 確かに秋依らしい選択ではある。常識的に考えると、秋依の恋は成就しない。だが、ここで掌蔵が秋依に向けてくれた友人としての好意を無碍に断るのは、公的にもあまり良い結果にはならないし、惚れた娘に業務用笑顔ではない心から嬉しそうな顔で相談に乗ってほしいと言われて、嫌だと突っぱねる方が無理な話だろう。

「とりあえず、酒飲み友達になったんだから進歩と言えば進歩だな。恋の相談に乗る振りをして、逆に口説いちまえよ。酔わせて既成事実を作るってのもありだ」

「バカ言え。それこそ俺の命がなくなるよ」

「まぁ、父親は中納言だし……そうだ、思い出したぞ」

「何が?」

 広人はぽんと手を打って、心の中で引っかかっていたことを秋依に告げた。

「歌垣で掌蔵を途中で強制連行していった兄貴って奴がいたろ?」

「いたね」

「そいつ、俺んとこの役所の幹部だ。右衛門大尉うえもんのだいいの一人」

 道理で見たことのある顔だと思ったのだが、すぐに思いだせなかったのは、広人のような末端の衛士との接点がほとんどないためだった。

「お兄さんが武官かぁ。ますますバレたら瞬殺だぜ、俺」

 秋依は苦笑した。だが、この時にはもう腹を括っていた。

 相手が掌蔵という、秋依からすれば雲の上の存在の女性を恋しく思う気持ちは止めることができない。とすれば、進むしかないではないか。

 その晩、秋依と広人は掌蔵陥落の作戦会議と称して、飲みまくったのである。

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