Stage 1-5

 歌垣の翌日、若干の二日酔いに悩まされつつ、秋依はいつも通りに出勤した。

未だに業務過重の状態が続いていて、次の休暇までの道のりが長く感じられる。

 乙麻呂は別の作業班と供に朱雀大路の工事現場に行ってしまい、たくさん仕事を振ってやろうという目論見が外れてしまった。

「ついてねぇな」

 と独りごちていると、上司が秋依の名を呼んだ。

「そのしけたツラだと、歌垣は残念な結果だったんだろ?」

 上司は心底憐れむように言った。余計なお世話だと思うも、秋依は素直に認めた。すると、上司はにやりと笑ってまたもお使いを指示してきたのだ。

「この前と同じだよ。後宮」

「蔵司ですか?」

「いや、今回は兵司つわもののつかさの……ま、女孺でいいや。予め尚兵つわもののかみには話をつけてあるから、武器庫から測量器具を貸し出させてもらう申請書を渡してくれれば、適当に手続きしてくれるだろ。じゃあ、よろしく。少しは寄り道してきていいぞ」

 上司の謎の含み笑いが気になったが、秋依は申請書を受け取って、再び後宮へ向かった。


 浜奈は両腕からこぼれてしまいそうなほどたくさんの木簡を抱きかかえ、書司ふみのつかさから自分の職場へと急いでいた――。

 こうして仕事をしていても歌垣の余韻が残り、気もそぞろになっている。

 努めて表には出さず、普段のように完璧なデキる女官を装っていたが、浜奈の心はあの美青年の微笑みと声で占められているのだった。

 結局、兄は密かに歌垣に出掛けたことは父親には黙っておいてくれた。

 必登としても、妹が新しい出会いを求めたいという気持ちになるのもわからないでもなかったからだ。そのうち老を招いて宴席で浜奈を紹介しようと考えたが、どうやら妹は歌垣で扇を贈ってきた男にすっかりのぼせているらしく、今すぐに老を紹介するのは躊躇われた。

 あの優雅で品のある美青年がただの庶民とは思われない。ちらと見ただけだが、扇も相当な高価な品だ。自分たちと同じか、あるいはそれ以上の身分の若者に違いない。

(どこの馬の骨かわからん奴なら、忘れさせるためにさっさと浜奈を老に会わせるんだがなぁ)

 相手の男が本気だったら面倒なことになる。必登はひとまず妹の恋路を見守ることにした。

 そして当の本人も、今回の出会いに多いに心を弾ませていた。

(思えば私、仕事仕事でまともに恋なんてしたことなかったのよね……)

 後宮での職務はやりがいがあるし、女官の中の出世頭という評判はやはり誇らしい。

 始めの頃こそ、かの重臣粟田真人の娘ということで、親の七光りだろうと懐疑的な視線や好奇の目で見られ、値踏みされたものだった。だが、浜奈は自然体で自分の実力を発揮し、後宮だけでなく男官たちからも一目置かれる存在に成長した。

 どんな煩雑な仕事も面倒な調整も、「わかりました。なんとかなりますよ」という微笑みと共にこなし、何よりも公平な態度で皆の信頼を得ていった。

「粟田嬢は変に媚びたりしないとこが信用できるんだよな」

 男官たちに言わせると、そういうことになる。

 女官の中には実務能力が足りない分を色気で補おうとする者もいて、関係が拗れたり、恋仲になった男官の業務を優先させて片付けたり、便宜を図ったりすることがあるのだ。酷い場合は、男官側の都合を押し通すために、金品を贈与して女官を買収し、天皇への口添えを頼むことすらあるという。

 その点、浜奈は誰から見ても公平、平等な態度で職務に臨んでいた。

 仕事続きの浜奈に、縁談が舞い込んだのはまだ女孺の身分で、蔵司勤務を始めてからすぐのことだった。

 相手は阿倍氏の三男で、それなりに武芸で名が通っている人物だった。彼に直接会ったのは一度だけ、両家の父親と本人たちを中心とした少宴会の時のみである。

 陽気な好青年という印象だったから、焦らなくてもそのうち愛情を育んでいけそうだと思っていた。

 けれども、彼は臨時の配属で軍団の訓練官として陸奥国に派遣されてしまった。半年後には戻るという話だったので、婚約したままにしておいたのだが、結局、浜奈は二度と未来の夫を目にすることはなかった。

 一度しか言葉を交わしていなかったけれど、もちろん、その急死に衝撃を受け、しばらくの間は悲しみでいっぱいになった。

 そして、浜奈の悲哀が薄れてきたとはいえ、まだ続いていた頃、彼女は同僚からある噂を聞かされた。

「ねぇ、言いにくいことなんだけど、亡くなったあなたの婚約者、何人も恋人がいて、この前、そのうちの一人の女が赤ん坊を産んだんですって」

 浜奈は少なからず傷付いたことに驚き、そして内心で自分を嘲笑した。

(私たちの身分なら他に女がいてもおかしくないことだし、職場で嫌というほどそんな話は聞いてきたのに。自分だけは別で、ただ一人の妻でいられるって思い込んでた……バカね)

 結婚しなくて良かった。妾と愛情の綱引きをするなんて、自分にはできそうにない。帰宅してから大泣きした後、ふとそう思ってしまった時から浜奈の心は軽くなり、後ろ向きな気持ちから抜け出すことができた。

 浜奈は変わらず後宮に居場所があることに感謝した。

「だって、仕事は浮気しないもんね」

 急に以前と同じように明るく振る舞うようになった浜奈に、楓がどうしたのか訊ねると、浜奈はそう答えたのだった。

 だから、浜奈が楓を歌垣に誘ったことは、楓には少し驚きだった。

「仕事一筋じゃなかったの?」

「一筋とは言ったことないけど? 確かに仕事が私を支えてくれるとは思うけど、最近、何かが足りないって思うんだよね。恋くらいしても、バチは当たらないでしょ」

「はぁ? 時々、あんたの考えについて行けないわ。でも、まあ、さすがに根詰めて職場に泊まり続きの生活じゃ、心が砂漠になっちゃうわよね」

「でしょ? もうあれから年月は経ったし、父さんには申し訳ないけど好きな人は自分で見つける」

 楓も恋に積極的な方ではなかったが、浜奈がいるなら話のネタとして歌垣に出掛けてもいいかなと思い、今に至ったのである。

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